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浅き夢見し酔いもせず 1/2

次回最終話です

第七夜    浅き夢見し酔いもせず


 一


 座頭橋先生によって作られたこの悪夢からの脱出を試みる僕らだったが――それよりも、この世界の崩壊が先だったようだ。空間がまるで卵の殻のように徐々に剥がれ落ち、その隙間から、それとはまた違った景色が顔を覗かせた。

 その隙間から見える景色は……、なんだか見たことがある。これはついさっき……、いや、正確にはどれくらい前なのか分からないが、まだまだ記憶に新しい景観だ。……至って普通の家並みに混じって、一軒だけ異様な雰囲気を放つすまいがあるこの場所は――僕が、座頭橋先生に刺された場所そのものだった。

 ――このままではまずい。頭で考えるよりも先に体が身の危険を察知して、自然と走るスピードが速くなる。

 聞けば、篠倉は昇降口からこの悪夢に這入ってきたらしい。それならば、おそらくそこがこの悪夢の出口となっていて、集団的無意識――他の夢へと繋がる入り口になっているはずだ。

 昇降口に向かって、一目散に駆ける僕ら。といっても、篠倉が全力疾走すれば僕など到底追い付けないので、ペースはある程度僕に合わせてくれてはいる。しかしそのおかげで、僕ら二人がこの世界から抜け出すのはほとんどギリギリになりそうだった。

「急げトミシ! ここに取り残されると……、おそらくヤバいぞ!」

 篠倉は僕の手を引いて走り、後ろを振り返って僕に声を掛ける。

 足場の悪い中、篠倉は器用にそのままの体勢で走り続けるが、僕の方には篠倉の声掛けに反応する余裕もなく、ただひたすらに足を動かすだけだった。

 僕らのあとから、雪崩の如く迫る悪夢の崩壊。それがついには僕らを取り囲み、逃げ場はパズルピースのように取り残された昇降口だけだ。

「くそっ……! 間に合えぇぇぇぇ!」

 篠倉は歯を喰いしばり、なんと僕を片手で持ち上げるようにして無理やり引っ張った。

 そして、玄関扉の取っ手を掴もうともう片方の腕を限界まで引き延ばす――が、彼女が手を握った瞬間、タッチの差で……扉は霧散してしまった。これで悪夢は完全に崩壊し、新たに姿を現した世界が、最期に残された床のタイル一枚までも浸食する。……どうやら、僕らは脱出に失敗したみたいだ。

「……すまん。あと一歩遅かった……」

 アスファルトで舗装された路地の上にペタリと座り込んで、篠倉は、その隣で仰向けに倒れている僕に詫びた。

「いや、お前は悪くないよ篠倉。むしろ……ある意味ではこの方が良かったのかもしれない」

「え?」

 僕はズボンについた砂利を払いながら、おもむろに立ち上がる。それから、辺りをざっと見回してみた。

 やはり間違いない。ここは、座頭橋先生の夢の中だ。「手元に置いておきたい」という先生の言葉の通り、彼女は自分の夢の中に悪夢を作り、そこに僕を閉じ込めたわけだ。

「お前のおかげで、今はもう覚悟ができている。状況的にもう後に引けないというのなら、このまま先生と最後の決着を付けようじゃないか」

 言うと、意外にも篠倉は、僕の提案を小さく笑って受け入れた。

「そう……か、まぁそれもいいだろう。それだけは誤魔化しも後回しにもできないことだからな。君がそう言うのなら、私に異論はないよ」

 正直篠倉には反対されるだろうなと僕は思っていたので、重ねて言うが、これは意外だった。

 僕ら二人だけで、どうやら相当な手練れらしい先生とまともに戦えるかといったら当然厳しいだろうし、覚悟ができているというのも、それはあくまで僕だけの話だ。篠倉には、まだ心の整理も踏ん切りもついていないだろうなと、僕はそう思っていたのだが……。

「トミシ。私はな、これでもかなり怒っているんだぞ」

「……へ? 怒ってるって……、僕にか?」

「違う違う。座頭橋先生に対してだよ」

 そう言って手を差し出す篠倉を、僕はよいしょと引き上げる。すると篠倉は「ありがとう」と一言礼を言ってから、続けた。

「私も君から実際に話を聞けるまでは実感が湧かなかったが……。彼女は私の大事な親友の傷を抉っただけでなく、那須美君や野々宮さんを初めとした、城野高のみんなの心を自分の思うままに弄んだ。……決して許されるべきことじゃない。いや……違うな。何が良くて何が悪くて、許すとか許さないとか――そういう倫理感は問題じゃない。トミシに那須美君に野々宮さん、それに……こんな私に声をかけてくれるクラスメイト、城野高のみんな。君たちは、今の私にとって全て、私がここに在る理由なんだ。過去に一度、それを失った私からまた奪おうとした彼女を、そのまま黙って見過ごしてやるはずがない。彼女に一発入れてやるまで、私の気は絶対に収まらん」

 篠倉は拳を強く握り締める。一見、彼女の表情はとても落ち着いているように見えるが、その瞳の奥で、静かな闘志がゆらゆらと燃えていた。焼きつくような怒りの感情、それは全身を駆け巡り、頭のてっぺんまで絶え間なく登ってくるはずだ。しかし篠倉はそれをすんでのところで抑えつけ、あくまで頭の中はクールなまま。そして湧き出る怒りの感情をコントロールして、自分のエネルギーに変換しているんだ。

 ……頼もしい限りだ。この様子なら、きっと篠倉が不足をとるようなことはまず無いだろう。あとは僕自身が、どれだけできるかだ。

「……じゃ、お互い決意を確かめあったところで、そろそろ行くか」

「そうだな。……しかしどうする? どうやら座頭橋先生はすでにこの場所から立ち去っているようだが」

 篠倉はくるりと体を翻し、辺りを見回して言った。

「何となくだけど、おおよその見当はつく。……たぶんこっちだ」

 別に根拠があるわけじゃないが、推測じゃない分、だからこそ信用に足る。

 どうしてそれを篠倉が知り得たのかは分からないけれど、彼女によれば、僕のビジョンは絆を作ることだと言う。絆とは、互いを繋ぐ綱だ。だったら片方がそれをたどっていけば、自然ともう片方と鉢合わせる。

 僕は先生にどれほどひどい仕打ちを受けたか分からないが、だけど絆ってのはそう良い意味ばかりでもないだろう。因縁や腐れ縁だって、立派な絆だと僕は思う。そういった意味では僕と先生は、もう十分なくらいに絆ができあがっているはずだ。

 ここ数ヶ月――あの特別教室での会話が、まるで意味をもたない空白の時間だったのなら、この先に先生はいない。しかし、それが例え欺瞞だったとしても、先生はただ僕のことを騙しているにすぎなかったとしても、それが少しでも僕らにとって意味のあるものだったのら、僕らは引かれ合うはずだ。……がんじがらめに纏わりついた因縁が、僕らをとって離さないだろう。



 見慣れない団地の中をしばらく歩くと、目の前に小さな公園が見えてきた。

 すっかり錆びきって茶色くなった鉄棒に、ところどころ色褪せた赤色の滑り台。そして公園の奥にある古ぼけたブランコには、こちらに背を向ける形で誰かが座っている。少し揺れるだけで痛々しく軋むそれを、小さく控えめにこぐ女性。後ろ姿ではあるが、もはや間違えようもない――座頭橋先生だ。

 先生は振り向きもしていないのに、公園に入ろうとする僕らの存在に気づいたみたいだった。そのままこちらを見もせずに、近付いてきた僕らに声を掛ける。

「……また来たんだ、君。しつこいね」

 まるで機械が喋っているかのような、極めて無機質な声音だった。

「どうやって私が作った悪夢から抜け出したのかは……、聞くまでもないか。きっと篠倉さんが君を連れ出したんだろうね、してやられたよ」

 小さくため息を吐きながら、先生はやれやれと立ち上がる。先生の反応が、僕が想像していたよりもずっと素っ気なかったので、それが逆に気味悪かった。

「座頭橋先生」

 ふいに、篠倉が先生の名を呼んだ。

 そして篠倉は、そのままつかつかと先生の元へと歩いて行く。

「おい篠倉、あまり不用意に近付くのは……」

 僕の制止も聞かずに、篠倉は無言のまま歩き続ける。そして先生の目の前でまでやって来ると、そこで立ち止まった。

「私はあなたに言いたいことがある」

「そう。私は別にあなたから聞きたいことなんてないけど」

 篠倉の、威圧のこもった眼差しを、先生はさらりと受け流す。まるであなたなんて相手にしていないとばかりに、余裕の表情で薄ら笑いを浮かべていた。

「……自分を慕ってくれている生徒たちで、憂さを晴らす気分はどうだった?」

「なんだそんなこと」

 先生は篠倉を嘲るように、はっと息を漏らす。まるで、そんなことは愚問だとでも言いたげに。

 そして――そして先生は、いたずらっぽい視線を僕に送る。僕にはそれが何の合図かいまいちピンとこなかったけれど、しかしその答えはすぐにはっきりした。

 先生は、彼女の篠倉の耳元でわざとらしく挑発するように、脳にねっとりと纏わりつく声で言ったのだ。

「胸がすくような気分だったよ、篠倉さん。……今ここであなたを殺して荻村君を奪い返せば、きっとそれ以上の快感が得られるでしょうね。想像するだけでゾクゾクしちゃう」

 先生が言い終えるのとほぼ同時に、篠倉が彼女の胸ぐらをがっと掴んだ。そして乱暴に前へ突き押すと、無言のまま拳を振り上げる。

 ――篠倉の鉄拳が先生の顔面に炸裂する寸前、先生の前髪がなびき、彼女の焼き爛れた肌が篠倉の目に入ったようだ。篠倉は思わず躊躇い、一瞬体が硬直してしまう。

 その隙を、先生は逃さなかった。

「――ぐっ」

 先生は篠倉の腹をまるでサッカーボールのように強く蹴り上げた。そしてそのまま勢いを殺さず、逆足での追撃。衝撃で頭の下がった篠倉の顔面を、先生は左回し蹴りで的確に狙った。

 右腕全体を上手く使って、辛うじてこれをガードすることができた篠倉だったが、後ろに大きくよろけてしまう。しかし今度は先生の追撃を許さぬように、すかさず篠倉は、斜め後ろに大きくバックステップして先生との間合いを取った。

 ……最初の一撃がよほど効いたようだ。見ると、篠倉は繰り返し小さくせき込みながら、片手で自分の腹を(さす)っている。

「いきなり殴りかかってきて恐いなぁ……。いくら私でもあなたに殴られたらただじゃすまないんだよ?」

「黙ってろ!」

 先生の軽口を一喝して、篠倉は彼女に向かって行った。

 ミサイルのような前傾姿勢から、全体重を乗せた正拳突きが繰り出される。しかし先生はそれを難なく躱すと、続く二撃目のフックも三撃目のアッパーカットも体を器用に捻ってゆらりと捌く。おまけに最後に放った上段蹴りは、後ろに一歩半ほど下がられたことにより紙一重で直撃を避けられ、空振って勢いの失ったところを掴まれてしまう。……もはや今の篠倉は、隙だらけだった。

「そんなに動きの大きな技使っちゃダメだよ。ほらね、簡単に捌けちゃうんだから」

 言いながら、先生は篠倉の足を握る力を強める。指の頭が半分ほど隠れてしまうぐらいに喰い込ませ、見ているだけでも痛々しい。

「……だから黙ってろと――」

 ――しかし篠倉は、その掴まれた右足を軸にして体を大きく回転させ、

「言っているだろうが!」

 そう叫ぶと同時に、先生の首の後ろ辺りに延髄切りを喰らわした。

 プロレスラーも顔負けなぐらいの美しいフォームに、篠倉持ち前の身体能力が重なって、

先生が数十メートル先にぶっ飛んでしまうぐらいに凄まじいものとなった。

「篠倉! 無事か?」

 衝撃で舞い上がった砂塵を掻き分けながら、僕は篠倉の傍へと駆け寄った。

「何、私は別にどうってことないよ。足を取られはしたけれど、反撃は受けていないから。……そしてたぶん先生も、たいしたダメージは負ってないと思う。あの身のこなし、少しやりあっただけでも分かる。彼女は相当な手練れだ。そう簡単にやり過ごせる相手でもないだろう」

 篠倉は、先生が飛ばされた方を見やった。公園の土壌が捲りあがり、そこに窪みができている。周囲の木々は倒れ、先ほど先生が座っていたブランコは、地震に呑まれたビルのように倒壊していた。

 いったいどれほどの力で蹴れば、こんなことになるのだろうか。これでまだ先生はKOされいないというのだから、戦いのレベルがとうとう化け物じみてきている。

 目を凝らしてもう一度、先生の様子を探ろうとするが、ちょうど窪みの影になっていてよく見えない。

 ――注視していると、視線の先で何かが光ったような気がした。

「っ……? 伏せろ篠倉?」

「きゃっ……!」

 咄嗟に僕は篠倉の肩を抱き、彼女を自分の体で庇うようなかたちで、真横へ大きく飛んだ。

 僕らの頭上ギリギリのところで、何かが猛スピードで通過する。跳躍から着地までの一瞬の間に、こちらへ迫るその物体の正体を、僕は確かに見て取った。

 それは――(やいば)だった。横幅四、五センチほどのカッターナイフの刃が、僕ら二人を貫こうとまるで槍のように伸びてきた。しかもこの場合の『伸びた』というのは、こちらへ向かってきたことの比喩表現でもなんでもなくて、カッターナイフの刃渡りが物理的に伸びたということだ。

 ――それは、僕たちを刺し損ねるとやがて収縮し、来た道を戻る。その動作を目で追った先には、先生が、こちらに向かってゆっくりと歩を進めていた。

 刃は左右へ暴れながら、先生の手元へパチンと収まる。その動きから掃除機のコードを連想したが、そんなくだらないことを考えている場合ではなかった。次なる一撃を加えようと、先生はすでにカッターを握ったその手を振り上げていたのだ。

「こっちだ篠倉!」

「お、おいちょっと!」

 僕は篠倉の腕を引っ張り上げ、ほとんど無理やりに立ち上がらせる。そして、公園の入り口に向かって思いっきり走り出した。

「トミシ、なんで逃げるんだよ! あの人から離れちゃ、こっちが攻撃できないだろ!」

「だからってこんな逃げ場の無いところで戦うことないだろ!」

 この公園は、ちょうど僕の背丈ぐらいのフェンスが四方を覆っている。おまけに遮蔽物も少ないから、遠距離攻撃ができる相手と戦うにはとてもじゃないが分が悪い。この理不尽なまでのリーチの差を覆すには、一度公園を出て住宅地に紛れ込み、上手く建物を利用して隠れながら先生に接近するしかないだろう。

 その為にはまず、ここでは回避に専念して先生の攻撃をかいくぐり、この公園たった一つの出入り口を目指す他にない。

「ええいちょこまかと……、逃がさないんだからぁ!」

 やろうと思えば公園の端から端までゆうに届くであろう刃を、先生は木々を薙ぎ倒しながらぶんぶんと振り回す。

 それを僕らはしゃがんだり飛び跳ねたりして何とか躱すのだが、それに精一杯でちっとも出口に近づけない。

「ああ……、もう! しゃらくさないな! 止まれトミシ!」

「……え? あっ、おい危ねぇ!」

 篠倉は、僕と繋いだ手を無理やり後ろに引っ張った。その所為でバランスを崩した僕は、足をとられ、危うく頭から転倒しそうになる。

 しかし次の瞬間に篠倉は――

「どりゃああああああ!」

 後ろに引く力の反動を利用して、今度は大きく高らかに『僕』を前へと振り上げ、そのまま手を離したのだ。

「――へ?」

 篠倉の怪力になすがままの僕は、当然空中に浮きあがる。

 高さにしておよそ五メートル強。重力をその身で真っ向から受けた僕は、突然のことに声も出ない。ただ自分が落下していることだけは理解し、手で頭を庇い受け身をとる。そして僕は目を瞑り、ある程度の痛みと負傷を覚悟した。

「あらよっ、と」

 どすっ、と。落下する僕の体を、何かが包んだ。おそるおそる目を開けると、目の前に、篠倉の顔がある。

 ……僕は、篠倉にお姫様だっこをされていた。

「よし! このまま行くぞ!」

 僕が腕の中にすっぽりと完全に納まるよりもちょっと先に、篠倉はその場から走り出す。そして後ろから迫りくる刃を小細工なしに速さだけで回避して、目指すは一点。真っすぐと公園の出口へ駆ける。

「おい篠倉……、いくらなんでもこの格好は……」

「この方がどう考えても効率がいいからな、仕方ない。君に気遣って走る必要もないしな」

 それはまぁ……、納得できるんだけど……。完全に男女逆となった今のこの状況は、情けないやら不甲斐ないやらで何ともやりきれない。

 それを誤魔化すために僕は、何とか自分にできることを探しだす。この状態の僕にもできることは、一つ。後方確認だ。篠倉が回避に専念する間、僕が彼女の目となろう。

 僕は背中を少し反らし首を傾け、篠倉の背中ごしに後ろを覗いた。

 後方では、先生が眼を血走らせて笑っている。

「逃げ足だけは速い……。だったら、まずはその足から切り落としてあげる!」

 今までよりも低い姿勢でカッターを水平に振り上げる先生。おそらくその言葉の通り、篠倉の両足を真一文字に両断するつもりなのだろう。

「篠倉、ローを狙われてるぞ!」

「りょーかい! しっかり掴まってろ!」

 篠倉は快活に返事をする。それと同時に、篠倉の足の回転が少し遅くなった気がした。

「いーち、にぃー、さーん、しぃー……」

 一歩ずつ、テンポよくリズムを刻んでく共に、篠倉の歩幅は段階を踏んで徐々に大きくなっていく。

 そして――五歩目。篠倉の右足が地面についた途端、その足が折りたたまれ、腰が深く落とされる。

「――ごっ!」

 掛け声とともに、篠倉の体がさながらロケットのように射出された。

 空気を切り裂きながら、僕らはほとんど真上に上昇する。さっき篠倉に投げられたときの何倍もの重力が僕の体にのしかかり、僕は顔を動かすこともできないぐらい全く身動きが取れない。急激な気圧の変化で耳が痛くなるほどだった。

 ただそのおかげで先生の斬撃は僕らの遥か下方を通過し、一瞬だけではあるが、彼女の視界から離脱する。そのまま公園の出入り口を跳び越えるのも容易だった。

 篠倉は自転車をこぐように空中を足でかきながら、向かい正面の家の屋根に着地する。

その衝撃で「おっと、っとと……」と少し前に倒れそうになり駆け足になるが、なんとか体制を持ち直した。そしてそのまま篠倉は足を止めずに、忍者のように家から家へと飛び移って先生と距離をとる。

「これだけ切り離せば、私達に追いつくことは容易ではないはずだ。あとは落ち着いてゆっくり作戦を練――」

 ――ろうと、篠倉が言おうとしたその矢先、足元が大きく振動した。僕を落とさないように両足で踏ん張りつつ、篠倉は何事かと後ろを振り返る。

 僕らの視線の先では――家々が、次から次へと倒壊していた。いや、この場合は切断されていたと言った方が正しいのだろうか。縦何列かに家屋が並んだこの住宅地。それがある動点を中心にして、前も後ろも右も左も関係なくその周りにあるもの全てが、まるで豆腐か何かみたいにすっぱりと両断されていく。

 そしてよぉく目を凝らして見てみると、その中心から、何本か触手のようなものが生え出ているように見えた。それは不気味にうねうねと蠢きながら、ムチの如くしなることで辺りを切り裂き散らす。おそらく僕らを探し出すために、辺り構わず攻撃しつくしているのだろう。

「ってか、あれ……僕の目がおかしくなければ、先生の体から生えてるように見えるんだけど……」

「奇遇だな、私にもそう見えるよ」

 僕らと先生の間にはまだ距離があったし、飛び散る瓦礫が邪魔してみえづらかったし、そもそもあれを先生の一部とするには――あまりにも不自然で、不気味だったから、いまいち自分の目を信じられなかった。しかし今篠倉と意見が合致したことで、やっと得心いった。

 ――おそらく先生は、自分自身の体に検閲の力を使っている。

 先生の背中からまるで別の生き物のように生えているそれは、よく見るとカッターナイフの刃。体の一部を変化させて触手を作り出し、彼女はそれを自由自在に伸縮させながら振り回しているのだろう。

 全部で八本の触手をバラバラに操る先生のその姿は……、もはや紛うことなき化け物だ。かつての先生の面影を残しながらも、人間離れしたその風貌――僕は、体の底から這い上ってくるような恐怖を隠し切れない。

 それを察してか、篠倉は僕に同調した。

「あそこまでなると……、もう夢魔と何ら変わりはないな。いったい何に憑りつかれればああなるのか……」

 篠倉の表情には恐怖よりや驚きよりも、どちらかというと憐れみの色が強かった。

 人の道を外し、人の姿を失った先生――彼女が何に憑りつかれているのかと言えば、それはもちろん悪夢に違いない。篠倉は先生の姿を夢魔と重ねたらしいが、それも無理はないだろう。夢魔は人の夢を壊し、貪り、支配する。それは今、先生がしているのと全く同じことだ。

「……思わず立ち止まってしまった。あの人に見つからない内に、さっさと身を隠そう」

 篠倉は先生から目を背けると、その場からいち早く立ち去ろうとする。しかし僕の方はそうともいかず、先生から未だに目を離せずにいた。

 ――おそらくそれがまずかったのだろう。たぶん先生は、そこから僕の気配のようなものを感覚的に受け取ったのだ。飛び交う刃、舞い散る瓦礫、僕らの間を防ぐ幾層もの網目をくぐり抜けて、僕らの視線が交わる。

 僕と先生の、目が合った。

「みーつけた♪」

 ――ゾクッと、体温が一気に下がったような気がした。

「走れ篠倉? 見つかった?」

 篠倉は僕の言葉に反応するよりも先に、先生が動いた。

 先生は、先生と僕らのちょうど中間くらいにある家に触手を二本射出した。そして屋根に突き刺さった触手をアンカーのように高速で巻き上げることで、屋根の上まで一気に飛び上がって近づいてきたのだ。

「速っ……! まずい、うかうかしているとすぐに追いつかれるぞ!」

 慌てて振り返り、走り出す篠倉。僕という錘を抱えているにも拘わらず、初速からトップスピードで疾走する。

 篠倉の足なら先生を切り離すことも難しくはないだろう。そう思っていたのだが、しかし後ろをみると、さほど距離感は変わっていない。それどころか、先生は射出と巻き上げを繰り返すことで篠倉同等の高速移動を行い、徐々にこちらとの距離を詰めている。

「ふふっ……、いつまでそうやって逃げていられるかなぁ?」

 先生は残り全ての触手を、僕らに向けて放った。六本の触手は螺旋を描き、まるで別の生き物のように僕らに襲い掛かる。

 高めの位置から斜めに突き下ろされる触手を、篠倉はとにかく全力で走りきることで躱す。一本――二本――三本――と、躱した触手が僕らの背後に突き刺さっていき、そして最後の六本目が僕らを仕留めようと伸びたのを見計らって篠倉は――

「舌を?まないように気を付けろ!」

 ――屋根の上から飛び降りた。

 全ての触手を伸ばしきった先生は、一度それらをある程度の長さに収縮させる。いくらなんでも屋根に突き刺さって固定された状態では、さっきのように触手を自由自在に振り回すことは困難だからだろう。

 その隙に篠倉は、向かいの住宅の庭の中へと駆けこむ。

 そしてその庭の塀をジャンプで越えて、僕らのいた場所から更にもう一本向こうの路地へと逃げた。

「追ってくる気配は……、無いな。まいたのか?」

 後ろを向いて確認するが、先生の姿は見当たらない。最初の作戦通り、建物の中に紛れ込んだことが功を成したのだろうか?

「よし! だったら今度はこっちの番だ。このまま上手く身を潜めながら後ろをとろう」

 篠倉がそう言った矢先、僕らの頭上から、声が聞こえてきた。

「――それで隠れたつもり?」

 見上げるとそこには――先生。先生は触手を地面に突き刺しそのまま天高く伸ばすことで、上空まで自分の体を持ち上げている。そうすることによって高所からこの住宅街を俯瞰し、僕らを見つけ出したのだ。

「鬼ごっこはもうやめにしましょう。……ここは私の夢の中なんだから、どこへ逃げようが同じことだよ」

 先生は冷めきった表情で言うと、支柱にしている触手を地面から引き戻す。そして先生は落下しながら、全ての触手を翼のように展開すると共に根元から枝分かれさせて、その数とと大きさを増大させた。

「じゃ……、さようなら」

 先生が小さく呟くと共に、刃の雨が、僕らの真上から降り注いだ――


 

 息を小刻みに吐きながら寝返ると、背中がやたらゴツゴツした――

 ゆっくり目を開けて、僕は何とか鉛のように重い身を起こす。額がやけにべとりとするのがうっとうしくて片手で拭うと、なんと手の平が真っ赤になってしまった。

 ……そう言えばさっき僕らは、辛うじて触手に切り裂かれることはなかったものの、頭上から崩れ落ちてくる瓦礫の残骸に呑みこまれてしまったんだった。致命傷を免れはしたが、少し体を動かすだけで全身に痛みが走る。体中、傷だらけだった。

 僕はすっかり瓦礫の山と化した辺りを見回し、篠倉の姿を探す。僕が瓦礫に呑みこまれたということは、当然僕を抱えていた篠倉もそのはずだ。きっと近くで倒れているに違いない……。

「あら、まだ生きてるんだ。君もいい加減しぶといねぇ」

 僕がその場から動こうとした途端に、後ろから誰かが声を掛けてきた。

「篠倉さんなら、ほら、ここだよ」

 その声の主は――案の定、座頭橋先生だった。そして先生が視線で示したその先には、篠倉が、先生によって足蹴にされている。

「……篠倉? てめぇ? 今すぐその足をどけろ?」

「わー怖い怖い。君でもそんな乱暴な言葉を使うんだねぇ。先生、思わずブルっちゃったよ」

 先生はわざとらしく身を竦め、おどけ調子で言ってみせる。

 それは――僕らなどまるで相手にならないと、嘲笑っているようでもあった。

「うぐぅ……。こ、このっ……!」

 篠倉は全身を使って必死にもがこうとするが、ビクともしない。篠倉のパワーを押さえ込むほどに先生の力が圧倒的なのか、それとも今の篠倉にはもはやそれほどの体力も残されていないのか――篠倉は成す(すべ)も無く、地に伏せる。

「待ってろ、今助けてやる!」

 僕は足元に転がっていた細長い鉄くずを拾い、瞬時にそれを刀に変えて先生に向かって突進する。

 しかし先生は顔色一つ変えず、傍にあった巨大な瓦礫を触手で持ち上げると、それを僕に目掛けて投げ飛ばした。

「……! まずっ――」

 初めから直撃させるつもりはなかったのか、瓦礫が僕に直撃することはなかった。だけれどそれは僕の目の前に落下し炸裂したものだから、その衝撃と飛び散る破片よって足止めされてしまう。

「……思えば、この子には最初から最後まで随分と邪魔立てされたねぇ。荻村君の周りをずっとちょろちょろ……、不愉快ったらない」

 先生は、篠倉の頭をぐりぐりと、更に強く踏みつける。

「ぐあっ……! がっ……」

「……だけどそれも今回でお終い。あなたには、夢すら見ることのできない永遠の眠りに就かせてあげる」

 おもむろに、篠倉のうなじに触手をあてがう先生。そして、弄ぶように篠倉の肌を刃で撫でてから、一気に振り上げた――

「篠倉っ……?」

 ――思わず、目を伏せてしまった僕。

 できることならこのままずっと目を瞑ったままでいたかったが……、そうはいくまい。 嫌な想像は全く尽きることがないけれど、だからといってそれから目を背けてしまえは、篠倉にも背を向けることになる。それは危険を冒してまで僕のことを助けてくれた彼女への、一番の裏切り行為だろう。篠倉美鷹の『親友』として僕は、彼女がそうしてくれたように、例えいかなるときでも彼女と向き合う義務がある。

 僕は篠倉が何かの拍子で奇跡的に助かっていることを祈り、固く閉ざした瞼をゆっくりと、おるおそる開いていった――

 奇跡は――起きた。

 触手は振り上げられたまま、最初の位置から動いていない。篠倉の方も、全身のどこにも傷は見当たらなかった。

 僕はほっとして全身の空気が抜けるほど大きなため息をつくのだが、しかしそれと同時に、ある疑問がはたと浮かぶ。当然その疑問とは――なぜ篠倉は助かったのか、何が先生の行動を妨げたのか、だ。

 それによっては、この状況を打破するきっかけになるかもしれない――そう考えて僕は、視線を篠倉から先生の方へと移す。見ると先生の右手には、何と『矢』が握られていた。

 おそらく先生が篠倉を貫く直前に、あの矢が彼女を狙ってどこからか飛んできたのだろう。だがその気配を察した先生は、矢の命中よりも先にそれを掴みとって防いだ。その結果、先生の注意は篠倉から離れてしまったのだ。

 ――矢。この状況、このタイミングで矢といえば、その射手はもうあいつの他に考えられないだろう。

 先生は矢が飛んできた方向をじっと睥睨して、低い声で呟いた。

「野々宮……扇」

 掴んだ矢を片手でバキッと折ると、先生は随分と苛立った様子で舌打ちをした。

 短く納められた触手が少しずつ開いていき、その切っ先を野々宮の方に向ける。明らかな攻撃体勢だが、そのときにはすでに、野々宮は弓を引いていた。当然先生の初動よりもずっと先に、矢が放たれる。

 先生は咄嗟に攻撃を中止してそのまま素早く矢を斬り落とすのだが、無理に攻撃の構えから防御に移った所為で、物理的にも精神的にも窮屈になって少しの『ズレ』が起きた。体の重心が左前方に偏り、右足が少しだけ浮いてしまう。それによってバランスを崩した先生は、前に半歩ほどよろめいたのだ。

 篠倉の頭から――先生の足が離れた。

「もらった!」

 篠倉は俯せの状態からほとんど逆立ちするように両足を高く上げ、それで先生の首を挟み込む。そしてその状態から下半身を折り曲げ先生を持ち上げると――

「でりゃああああああ!」

 篠倉は両足を大きく旋回させて、その勢いで先生を思いっきり投げ飛ばした。

 無警戒な相手から無防備な状態を狙われて、先生はまるで抵抗なく吹っ飛ぶ。そしてその先にあった家屋に激突し、その衝撃で崩れ落ちる外壁に埋没した。

「篠倉さん! 大丈夫?」

 篠倉が先生から解放されると、野々宮は急いで彼女の元へ駆けつけた。僕もそれに続いて、篠倉の傍まで走って行く。

 未だに呼吸乱れている篠倉の肩を僕らは支えて、二人で彼女を立ち上がらせてやった。

「はぁ……はぁ……、はー……。……野々宮さん、君がなぜここに?」

 篠倉は息を落ち着かせながら、野々宮に尋ねた。

「白日さんに、あなたが無事、荻村君を悪夢から連れ戻したって聞いたのよ。でも今度は座頭橋先生に遭遇してしまって、二人が大変な目にあってるらしかったから……、いても経ってもいられなくて」

「でも野々宮さんは……、まだ気持ちの整理がついてないって」

 篠倉の言葉に、野々宮は黙って首を横に振る。

 それから、僕と篠倉の顔を見比べて言った。

「確かに初めはそうだったけど……、篠倉さんが荻村君を助けに行っている間、二人の寝顔を見ていたらふと思い出したの。あなたたちが、私を悪夢から救ってくれたとき――二人は、それまでたいして関わりの無かった私を、危険を冒してまで助けてくれた。余計な理屈は二の次三の次、ただ目の前にいる困った人を助けたいという一心で、私に手を差し伸べてくれた。だったら私も、それに報いるべき。……先生が一連の事件の犯人だったとか、白日さんが何者なのかとか――そんなものは、あなたたち二人を助けることに比べたら取るに足らないことよ。いつまでもうじうじと悩んで手をこまねくのは、馬鹿らしいわ。……今更だけどね」

 だから――と、野々宮は続ける。

「私も一緒に戦うわ。篠倉さん、荻村君」

「……そうか。分かった」

 篠倉は頷くと、先生が飛んでいった方を睨む。

 野々宮さんの覚悟を確かめたことで、自分の気合もより一層強まったのかもしれない。野々宮の眼力が、今まで以上に力強くなっていた。

「……来るわ。二人とも、準備はいい?」

 僕らが無言で応じるとすぐに、先生が自分に覆い被さる瓦礫を掻き分けて立ち上がってきた。それなりに距離があるのでよく聞こえないが、小声で何かを繰り返し呟いている。

「……ろす。……ころす、ころすころすころす殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――」

 ――刹那、先生の周囲にあるいっさいのもの、電柱、街灯、車、その他残骸などが、一瞬にして細切れになった。

「――私をこんなに痛みつけて……許せない。あんたたちだけは絶対に……、殺してやる?」

 先生が手を振りかぶると同時に、先生の背中から全ての触手が飛び放った。

 こちらに向かって真っすぐに突っ込んでくる触手が、空中で絡まり合い一本の強靭な束となって、僕らの真正面から襲い掛かる。

 それが僕らにぶつかろうとする直前、先生は叫んだ。

「三人とも、ミンチにしてやるわ?」

 この大きさとスピードでは、もはや僕らに逃げ場などない。先生の言葉通り、触手が僕ら三人を切り刻むかのように思えた。

 しかし――

「どっこい、三人じゃないんだなこれが」

 突如、僕らの前にさっと人影が現れ、そいつは両腕を大きく広げて僕らを庇った。

 刃の束はそいつの体に傷一つ付けることなく全て弾かれ、その刀身をボロボロにして先生のところに戻っていく。

 先生の攻撃から僕らを守った人物――那須美誠一は、肩に担いだ金棒越しに僕の方を見流して、何とも軽い調子で声を掛けてきた。

「よっす荻村。すっかり元に戻ったみたいで安心したぜ」

「那須美……、なんでお前までここに……」

「何言ってんだよ、ここまできて俺だけ仲間外れはねぇだろ。俺たちは今までずっと一緒に戦ってきた仲間なんだから、四人いなきゃシマんねぇじゃねぇか!」

 那須美は快活に笑って、僕の背中をバシンと叩く。

「おいおい那須美……、分かってんのか? 事はそんなに甘くないんだぞ? 今までとは比較にならないぐらい危険だし、その上相手は座頭橋先生ときてる。お前はそれを理解して――」

「おうともよ。そんなことは百も承知だぜ」

 僕の言葉を遮って、那須美は言い切った。

 よく見ると、那須美の手は震えている。全身に冷や汗をかき、一見おどけているように見えてその眼差しはいつになく真剣だ。……こいつもこいつで、ここにくるまでの葛藤があったのだろう。それでもいつもの陽気な振る舞いを崩さないのは、心の底から湧き出てくる不安を抑えつけているからなのだろうか。

「……そうか。だったら、遅れた来た分を取り戻すぐらいの活躍はしてもらわないとな」「かっー、手厳しいな。その調子だとまだ余裕がありそうだ」

「お互い、な」

 言い合いを終えると、僕はスッと刀を構えた。あとのみんなもそれに続いて、それぞれ臨戦態勢に入る。

 これで役者はみんな揃った。ここからが、いよいよ……この長い夢のグランドフィナーレだ。

「………………まぁなんだ。この方がかえって都合が良かったかもしれないね」

 言いながら先生は、ボロボロに刃こぼれしたした触手を根元から全て落として、また新たな触手を背中から生やし再生させた。

「どいつもこいつも……、みんなまとめてバラバラにしてやる!」

 先生は半狂乱で叫ぶと、地面を強く蹴り、凄まじい速さで接近してきた。真新しくなった触手が左右に伸びて開き、またも翼のような形となる。そして、まずその内の右側の四本が大きくしなって薙ぎ払われた。

「みんな、俺の後ろに!」

 那須美は前へ出て自ら盾になると、両腕を胸の前でクロスさせて、先生の攻撃を受け止める。

 続いて、左側四本による二撃目――先生は那須美の防御力が厄介だったのか、一旦那須美をスルーして触手を真上に伸ばし、その後ろにいる僕らを上空から狙う。

「前へ避けて! それから二人は、先生のところまで一直線に走って!」

 ビジョンで触手の軌道を読んだ野々宮が、それから導いた最善手を僕らに伝える。僕と篠倉は彼女の言う通り前方に大きく跳んで躱し、そのまま左右の触手の中を真っすぐ抜けて直進した。

「トミシ、先行くぞ!」

 篠倉は言うと、走るスピードを上げて僕を追い抜いた。

 さすがの先生もその速さには反応しきれず、攻撃の際に伸ばして長くなった触手では、間合いをぐんぐん詰めてくる篠倉を止めることができない。

「いち、にの、さんっ!」

 篠倉は走る足を大股にして助走をつけ、先ほどのように上空に跳び上がった。そして空中で体を丸めて、落下しながらくるくると縦回転を始める。

「もらったあぁぁぁ!」

 掛け声と共に片足を開き、篠倉はそれを先生の頭上目掛けて振り下ろした――かかと落としだ。

 落下の勢いと遠心力が乗った強烈なかかと落としが、先生に直撃する。

 咄嗟に先生は腕を硬質化――つまり検閲で肘から手首にかけてを鋼のような硬さにして、それで篠倉の攻撃をガードした。先生には防がれてしまったがその威力は絶大で、先生の足場がまるで蜘蛛の巣のようにひび割れる。

「痛いって……、言ってるでしょう!」

 渾身の一撃だったが先生は耐えきった。

 そして腕を元の状態に戻すと、手首をくるりと返して篠倉の足を掴んだ。

「おわっ……!」

「さっきのお返しよ!」

 篠倉の片足を掴んだ状態で、ぐるりと一回転する先生。遠心力が振り回される篠倉の全身にのしかかり、ハンマー投げの要領で篠倉は投げ飛ばされる。

「……篠倉! 那須美、篠倉を頼む!」

「おうよ!」

 僕は後衛にいる那須美に指示を出し、篠倉が飛んでいく方向へ先回りさせる。

 凄まじい勢いで投げ飛ばされた篠倉を、那須美は全身で受け止めた。

()っー……。済まない那須美君、助かったよ」

「気にすんな。それより今は目の前の敵に集中だ」

 走りながら、那須美が篠倉をキャッチしたのを横目で確認して、それから僕は刀を八艘(はっそう)に構えた。

 先生との距離はおよそ十メートル。それにたいして先生の触手は、まだ完全には収縮しきっていない。僕の攻めを阻むのは二本の腕だけ――つまり、今の僕と先生は対等だ。

 先生に動きがないか見極めるため慎重に、それでいてこのチャンスを逃さないように素早く、僕は間合いを詰める。そして両者の間隔が十分に縮まったその瞬間――刀を右袈裟に斬り下ろし、相手の股の間を割っていくぐらいの勢いで、大きく一歩踏み込んだ。

 しかし――その決死の一太刀も、先生を捉えるには至らなかった。

 先生はすんでのところでスーツのポケットからカッターナイフ(おそらくさっきまで使っていた物だろう)を取り出し、それで僕の斬撃を防いだ。

 互いの刃が十字に重なり合って、火花を散らす。僕は限界まで踏ん張って組み合う力をさらに強めるが、貧弱なはずのカッターの刃はまるでビクともしない。僕が全身の神経を全て両腕に注ぐぐらいの気持ちで力んでいるのにも拘わらず、先生はそれを片腕だけで、しかも余裕の表情で凌いでいた。

「私がそう一筋縄ではいかない相手ってことを……、忘れてもらっちゃ困るよ荻村君」

「そんなこと……、嫌ってくらいに分かってますよ!」

 言うと、僕は左足から一歩下がって鍔迫り合いを解く。そして右足を引き付けるのと同時に、再び腕を振り下ろした。

 しかし――先生は頭を硬質化させることで、僕の斬撃を弾く。物打が滑って右下に流れてしまい、僕の上半身が釣られて少し傾いた。

 その隙に、先生は素早く僕の刀に手を伸ばし、刀身を鷲掴みにする。さらに、そこに自分の体重を乗せることで、僕の攻め手を封じたのだ。

「あれだけ迷ってたくせに……、随分と躊躇いなく斬りかかってくるんだね。それとも私のことなんて、もうどうでもよくなっちゃったのかな?」

「そんなはずありませんよ。あなたには……、いろんなことを教わりましたからね。こんなになってしまった今でも、これまでの先生の誰よりもずっと『先生』してたと思うぐらいです」

「へぇー、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 でも――と僕は続けて、顔を上げる。そして先生の目を、真っすぐ見つめ返した。

「あいつらと先生――僕の親友を命がけで守るのか、それを先生が傷つけるのを黙って見過ごすのか、そのどちらかを選ばなければいけないというのなら、僕は前者を取ります。その方が……、先生の荒んだ部分を見なくて済みますから」

 刀を持つ両腕に、僕は一層力を込める。徐々に力の偏りが傾き始め、先生に抑えられた刀身が少しずつ持ち上がってきた。

「先生があいつらに手を掛ける前に……、先生が僕にとって本当の悪者になる前に……、僕が先生を――斬り伏せます」

 僕の言葉に、先生は一瞬だけ動揺した。刀を掴む手が緩み、コンマ数秒分だけ気がどこかに逸れる――当然、僕はそれを見逃さない。刀を手前に引いて先生の手から抜き取り、その姿勢のまま形を変えずに両腕だけを伸ばして、先生の胸の中心に向けて突き上げた。

 反応が遅れた先生は胸部の硬質化が間に合わず、やむなく体を捻ってそれを躱す。切っ先が先生の腹を掠り、彼女はその傷口を指でなぞった。

 人差し指に着いた自分の血を見て、先生はしばらく硬直する。

「………………君がこんなに分かりやすく、私に対して敵意を剥き出しにするなんてね。以前の君からでは考えられないことだよ。……また私から一歩、遠ざかっちゃったんだね」

 先生が、指先をまじまじと見つめたまま、つまらなさそうに言った。それから人差し指と親指をすり合わせて血を拭うと、視線をこちらに戻す。

 その頃には伸ばされた触手のほとんどが先生の元まで帰っていたのだが、残された最後の一本だけは、ある程度の長さを保ったまま僕の足元をさながら蛇のように這いずっていた。

「……だったら、もういらないや。君も、何も――」

 先生は、小さくポツリと呟いた。

 ――と同時に、僕が言葉を返そうと口を開くよりも先に、足元の触手が僕を狙って飛びついてきた。

「うおっ!」

 大きく身を反らして何とかそれを躱すが、僕が体勢を立て直すよりも先に、二発目が飛んできた。

 片足が浮いた状態で、しかも身を捩ったままの窮屈な姿勢では、この二発目まで完全に避けきるのはどうあっても厳しい。僕は一瞬肝を冷やしたが、しかし心強いことに、それを黙って見過ごすみんなではなかった。

 野々宮が――予め先生の行動を先読みして、触手の軌道上に矢を放っていた。すると矢は見事にその触手の腹を捉え、伸長する触手を途中で分断する。

 いきなり視界の外から割り込んできた物の存在に、先生は瞬時に対応することができず、加えて気が野々宮に逸れてしまった。

 ここで僕が攻撃に転じることができれば勝負は決まっていたのかもしれないが、それがあまりにも短い間だった為に、前に出ることを躊躇ってしまった。結果、僕は後ろに下がって間合いを取り、守勢に回ってしまう。

「その棒切れ……、さっきからうざったいのよ!」

 先生の攻撃の対象が、僕から野々宮に移った。

 遠くから援護射撃をする野々宮に向けて、先生は触手を数本、そこから更に枝分かれさせて同時に放つ。篠倉は『察し』の力を使って触手を射ち落とし、それが間に合わなければ上手く建物の残骸に身を隠して防御、あるいは普通に避けることでやりすごす。

 しかしそれも、先生の多方向から数で攻める飽和攻撃に、徐々に対応しきれなくなってくる。いくら相手の打ち筋が分かったとしても、逃げ場がなければ同じことだ。このままいけば遅かれ早かれ、間違いなく野々宮は詰められるだろう。

 そうなる前に、僕ら三人は瞬時に動いた。先生を中心に三角形を作って取り囲み、三人同時に接近する。

 先生は手数こそ多いが、人数差ではこちらが圧倒している。だったらそれを利用しない手はない。前方の僕と那須美で注意を引きつけて、後方の篠倉がその隙に決定打を叩きこむ――この陣形なら、先生の注意と攻め手を分散させることができるし、なおかつこちらの攻撃の(かなめ)である篠倉を先生の視界の外に置いて隠すことができる。おそらく最善手だろうと、僕は半ば確信していた――つまり、慢心だった。

 最初に狙われたのは――那須美。先生は野々宮を攻撃したまま一本の触手を、那須美に対して真っすぐに突っ込ませた。当然那須美は受け身をとってそれを防御するわけだが……、それがいけなかった。

 先生の攻撃は、那須美の体を刃で貫通させようとする――所謂『突き』ではなかった。

 那須美は、先ほどと同様に胸の前で腕を交差させて受け身をとる。そのガードに接触した触手は、案の定那須美の体の頑強さに弾かれてしまうのだが、今度はそれで終わりではなかった。

 弾かれた触手が素早く那須美の背後に回り込んで、一周する。そしてそれはそのまま勢いを殺さず那須美の体の周りを何度もぐるぐると周回して、最後に強く縛られた。

 那須美の体が、あっという間にがんじ絡めにされてしまったのだ。

「これでまずは一人――」

 呟くと先生は、後ろを振り返ながら勢いをつけ、向かってくる篠倉に触手で拘束した那須美を、斜め上から潰すようにぶつけた。

「ごっ――」

 不意の一撃に篠倉は反応しきれず、遠心力の乗った那須美の体重をもろに受けてしまう。

 篠倉は那須美と地面に挟まって、まるで身動きができない。いくら篠倉でも、うつ伏せに潰された状態では十分に抵抗できるほどの力が出せないからだ。

「これで二人目。チョロチョロ動かれると面倒だからあなたも縛ってあげる」

「くっ……、やめろ……。離せっ……!」

 それでも篠倉は諦めずにジタバタともがくのだが、新たに伸ばされた触手が素早く彼女を捕縛した。それはあっと言う間の出来事で、僕たちに手出しさせる隙すら与えない。

「っ……! 篠倉さんっ……!」

「他人の心配してる場合? 次はあなたよ」

 これまで何とか触手の波状攻撃を凌ぎきっていた野々宮だったが、捕まってしまった篠倉に気をとられ、ついに野々宮の回避に穴ができてしまった。

 先生は、野々宮が自分から目を離したその隙に、残った全ての触手で彼女を捕らえにかかった。

 ほんの一瞬だけではあるが、気が逸れていた野々宮はそれを先読みすることができず、察しの力無しで先生の攻撃を捌くことは、篠倉の際立った身体能力や那須美のような頑丈な体を持たない野々宮には到底できない。程なくして野々宮は、自分の死角から迫ってきた触手にあえなく捕まってしまった。

「――これで三人目。なんだ、案外最後はあっけなかったね」

 先生は捕まえた三人をそのまま触手で持ち上げ、僕に見せつけるように高く掲げる。

 三人は何とかそこから脱出しようと懸命にもがくのだが、もがけばもがくほど、自分の体を縛る刃が食い込み身を抉る。

「んぐぅ、ぐぐぐ……。こ、こんなものっ……!」

 篠倉は両腕に力を込めて踏ん張るのだが、触手はビクともしない。

 そんな様子を先生は、せせら笑った。

「ははっ、もう抵抗したって無駄なのにバカだなぁ……。それひょっとして、イタチの最後っ屁ってやつ? やめなよ往生際の悪い。余計に体が傷つくだけだよ?」

「……黙れっ! 私たちはまだ……、お前のように現実を諦めちゃいないんだ……! この夢から目を必ず覚まして……、いつもの日常を……絶対に取り戻してやる!」

 身を乗り出して、先生にそう喰って掛かる篠倉。そんな彼女の言葉に、他の二人は深く頷いた。

「……ええそうね、篠倉さんの言う通りよ。もちろんつらいことだって……目を逸らしたいことだってあったけれど……、でもそれ以上に、みんなと笑って過ごした日々がある」

「現実と向き合えるだけの強さがあって……、それをくれた仲間がいて……、そんだけ持ってんのに、そう簡単に全部台無しにされてたまるかよっ……!」

 野々宮と、那須美。篠倉が発破をかけてくれたおかげか、二人とも、こんな状況でもまるで心が折れていない。

 例え身動きを封じられようと――僕らの心までを抑えつけることは、いくら座頭橋先生でも不可能だ。そして心が無事ならば、思いや願いがあるのなら、夢世界はそれに応えてくれるだろう。

 だって夢世界は――人の〝夢〟だから。僕らの望みを叶えてくれる。

「………………あっそ」

 先生は努めて平静を装って、素っ気なく返した。しかし苛立ちの色を完全には隠せず、篠倉たちを更に強い力で縛り上げる。

「ぐあっ……あ……」「うっ……ううう……ぐっ」「あああ……があっ……!」

「お前らっ……! くそっ、三人を離しやがれ!」

 僕は三人を助けようとしゃかりきになって先生へ突っ込み、首筋を狙って一太刀浴びせる。しかし先生は片手で簡単に刀身を受け止めると、僕を力任せに振り払って、刀を無理やり奪い取った。

「こんなもの……、あなたには必要ないでしょ。どうせこんなちゃちなので私を殺すことなんてできやしないんだから」

 そして先生は、刀の刃を半分にへし折って捨てた。それから僕の顔を見て、「もう諦めたら?」と言わんばかりにニコリと笑う。

 それでも僕は素手のまま、先生に立ち向かった。もはや勝機とか危険とかそんなものはいっさいお構いなし、というか考えられなくなるまで意地になっていたのだろう。何が何でも篠倉たちを助ける――その一心で、僕の体は動いていた。

 そんな僕の拳を、先生は弄ぶように避けたり受け止めたりして軽くあしらう。

 そして、退屈そうに言った。

「……分からないかな。どうあっても君たちの負けなんだよ。……残念だけどね。遊びの時間も、もうお終い」

「――ぐっ……!」

 先生が、片手で僕の首を絞め上げた。

 堪らず僕は先生の腕を掴んで必死に振り解こうとするが、まるでコンクリートで固められているかのように全く微動だにしない。程なくして僕は四肢に力が入らなくなり、足元がふらついた。背中から地面に倒れてしまうが、それでも先生は手を離そうとしなかったので、そのまま僕に覆い被さる形で一緒に倒れた。

「ふふふ……、これでもう私の邪魔をする奴はいない……。まずはあなたを先に殺してから、他の奴らもみんなまとめて始末してあげる」

 先生が、首を絞めたまま体を起き上がらせて、僕の腹の上に跨って言った。

「私の作った悪夢から逃げ出したりしなけりゃ、そのまま生かしといてあげたのにさ……。ホント、こんなことになって残念だよ」

 先生は、カッターナイフが握られた右手をおもむろに上げた。

 その刃の先にあるのは僕の胸。僕の体は先生に押さえつけられ抵抗することができず、仲間はみんな拘束されていて助けてくれる者などいない。……今度こそ、命運尽きた。

「トミシ? お前っ……! 彼に手を出したら、私が絶対に許さないぞ?」

「そうだてめぇ! 荻村を離せ!」

「止めて先生! お願いだから……、お願い……」

 三人の声になど、まるで聴く耳を持たない先生。今の先生には、僕以外の何者も、脳が認識していないのかもしれない。

「それじゃあ荻村君、さようなら。現実ではもう会うこともないだろうけど……、君のこと、夢にぐらいは見るかもね」

 微笑んで、だけれどどこか悲しそうに、先生はカッターを振り下ろした――


 四


「ああああああああああああ?」

 辺り一面に、鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴が轟いた――

 ただし、僕の悲鳴ではない。僕は確かに先生にカッターナイフで刺されたけれど、胸を刺されるすんでのところで手の平でそれを防いだ。無論、それによって僕の手は貫通されて猛烈な痛みを感じたけれど、しかし急所を庇うことはできたし、痛みに悶絶して唸り声を上げるものの、決してパニックを起こすほどではなかった。

 ではその悲鳴の主は、パニックを起こしたのは誰かというと――先生だった。

 見ると、先生の手の平と甲には大きな傷口ができていて、そこから止めどなく血が溢れている。……僕と同じだ。

「痛いぃ……! 痛い痛い痛い、痛いよ……。何がっ……どうなって……、なんで私の手が……。痛いたいたいたイたいたいたイタい――」

 先生は傷口を押さえながら、立ち上がって後ずさる。気が動転しているのか千鳥足ですぐにバランスを崩して後ろに倒れてしまい、そのまま蹲って身を捩る。深手を負った所為なのか触手が弱々しく砕け散り、篠倉たちが地面に投げ出された。

 僕はそれを横目で確認すると、深呼吸を繰り返して痛みを誤魔化しながら、先生に歩み寄る。

「っ……? く、来るなっ……?」

 先生は、さっき痛みに驚いて投げ捨ててしまったカッターを、傷口の無い左手で咄嗟に拾う。そしてそれを、ほとんど反射的に僕の太腿に突き刺した。

 それとほぼ同時に――

「――いいいいぃぃぃ痛いぃぃぃ? な、なんで……、どうして私がっ……?」

 またしても先生はガラスを引っ?くような奇声をあげて、這い蹲りのたうち回った。そして僕も、そのまま立っていられなくて立膝を突く。

 先生の、僕が刺された場所と同じ個所――右足の太腿の外側には、スーツの下から血が滲んでいる。……やっぱりそうだ、これはあのとき篠倉に教えてもらった僕のビジョン――絆だ。

「……驚いた。トミシ、そこまでされて君は……、まだ先生のことを……」

 篠倉が、体を起こしながら呟いた。

 確かにこれは、僕自身意外だ。僕は、あの悪夢から篠倉に助け出されたときに、さっぱり気持ちを切り替えたはずだった。これまでの先生は全て演じられた嘘の存在で、自分たちを手に掛けようとしている先生こそが、自分が今対峙している確かな敵なのだと、そう割り切ったはずだった。

 しかし実際には、まだ先生のことを心の奥底で慕っている部分があった、完全な敵意を向けることができていなかった。その証拠に、僕のビジョンによって、僕らの間には絆ができた。痛みや思い、感情を共有するのが絆――それによって僕の受けた傷が、先生と分かち合われた。

 ビジョンとは自分の思い描く理想の姿、言い方を変えれば、自分自身が望んでいるもの。先生との間に絆ができたということは、つまり僕はそれを望んでいるのだ。

「大丈夫か荻村? 今そっちに……」

「いや待て。ここは彼に任せよう」

 大怪我を負った僕を心配して加勢しようとする那須美だったが、篠倉はそれを制止した。

 すると、那須美に続こうとしていた野々宮が、篠倉に異議を唱えた。

「でも篠倉さん……、あんな状態の荻村君を放っておくわけには……」

「大丈夫だよ。……きっと大丈夫。彼なら心配ないさ」

 篠倉の根拠の無い自信に野々宮は物言いたげな顔をするが、僕の方をちらと見ると、最後には黙って引き下がった。絆によって僕の考えが彼女にも通じたのか、それともただ単に僕を信用してのことなのか、とにかく野々宮は僕に(あと)を任せてくれたようだ。

 ありがたい。ここで他の誰かが手出しすれば、もう二度と先生は心を開いてくれないだろう。ここで先生と相対するのは、先生と絆を結んだ僕でなくてはならない。

 カッターが突き刺さったままの右足を引き摺って、激痛に息を震わせながら、僕は何とか先生の傍にまで近寄った。

「ひいぃぃぃぃ……! や、やめて……。おねがいだから……いたいのは……」

 僕に見下ろされて、先生は異常なほど怖がっていた。

 先生は倒れたまま体育座りをするように体を竦めさせて、顔を伏せて僕から目を逸らす。きっと僕に、かつて虐待を受けていた両親の姿を重ねているのだろう。

 先生は戦意喪失した。まだ余力はあるだろうが、心がすでに弱りきっている。今なら先生に、とどめを刺すことも簡単だ。

 ――だけれど、こんな状態の先生に刃を向けられるほど、やっぱり僕は残酷になりきれない。

「……先生。何も僕は、あなたをどうこうしようってつもりはありませんよ。そりゃあなたのしたことは簡単には許せませんし、これ以上無いってくらいの憤りを感じていますけれど、だからといって先生の事を憎んでいるわけじゃない」

 言うと、先生はおそるおそる顔をこちらに向ける。

 そんな先生の手を取ろうとすると、彼女は体をビクンと跳ねらせて、「ひっ……」と小さく悲鳴をあげた。

「……僕らの手、血で真っ赤になっちゃいましたね。当然ですけど……、ここで戦うのを止めなかったら、これじゃ済まないんだ……」

 先生の抉れた手の平に、僕は同じく傷ついた自分の手を重ねた。血が抜けすぎた所為か感覚が曖昧だが、少しだけ温かいような気がする。

「……先生、僕のビジョンは絆を結ぶことです。先生のこの傷は、僕らの間にできた絆によって共有されたもので、だからつまり僕らの絆の証ってことですね。……ちょっと血生臭いですけど」

「……だったら、何よ」

「あるでしょ、先生にもビジョン。ビジョンは自分の思い描く理想の姿、自分が最も求めているもの。つまるところ、先生の望みです」

「私が……、望んでいるもの……? 私のビジョン……」

 先生は体をゆっくり起こすと、一度僕の目を見た。そしてすぐに僕から視線を外すと、俯いて少し考えてから、先生が言う。

「それを知って、あなたはどうしたいの?」

 下を向いたまま、先生が消え入りそうな声で尋ねてきた。

「僕が知りたいんじゃない、あなたに知ってほしいんです。……今の先生は、世界の全てが憎くて仕方ないのかもしれない。でも自分の望みを自己理解した上で、それを叶えようと努力すれば、世界の見え方が変わってくるかもしれないでしょ?」

「……世界の見え方が? 無理よそんなの。だってその世界こそが、私のことを嫌っているのよ? 私の目に映る全て物に、私は否定され続けたの。何も、私の存在すら認めてなんてくれない。私はいつだって独りぼっちだったし、誰も助けてくれなかった。……だから私は――」

 間を開けてから、先生は続けた。

「……だから私は、こんな世界に、自分の味方になってほしかったんだと思う。いつだって私の為に都合よく動いてくれて、私の思うままに変わってくれる、そんな世界を――せめて夢の中でだけでも望んだの。……どう? 私の望み、叶うと思う? 無理でしょ。現実の私は、今までもこれからも、ずっとみんなに嫌われ続けるんだよ」

 先生が、それがさも当然のことであるかのように、無表情で言い切った。

 彼女の望みを聞いて僕は――先生と自分の境遇が、似ていることに気づいた。

 そりゃ僕は先生ほどの苦痛を味わったわけではないけれど、僕と先生は俗にいう『家庭の事情』ってやつに悩まされていた。その中で彼女が抱いた孤独というのは、僕が悪夢を見るに至った経緯と多く共通するものがある。

 僕も、篠倉たちと出会う前は、言い様の無い孤独を感じていたものだ。自分が大きな不安や悩みを抱えて参っているというのに、誰にも頼れない、誰も助けてくれないと、自分だけがこの世界でたった独り不幸なような気がしてくる。そして終いには、自分が世界から隔離されているような錯覚を受けるのだ。

 そう考えると、僕らにそうたいした違いは無いのかもしれない。思いを共感して心を共有する絆を求めた僕と、ただ皆に自分のことを愛してほしかった先生。厳密にいえば違うのかもしれないけれど、本質的には同じものだと思う。

 なるほど、僕が先生に目を付けられた理由が何となく分かってきた。先生は、自分と似た境遇を持った僕に、シンパシーを感じていたんだ。たった独りの世界の中で、先生はやっと自分の仲間を見つけた――それが僕だったんだ。

 だったら――

「だったら話は早いですよ、先生。……僕と先生は、結構似ています。先生の気持ちが理解できる僕なら、先生の一番の味方になることだってできるはずです。それと同じで、その逆だって有り得ます。先生なら、きっと僕の親友になってくれる。夢だけでなく、現実にも僕と絆を結べるんじゃないかと思うんです。そうなれば、先生の望みも僕の望みも、ちょっとだけですけど叶うでしょ? その方が、お互いがお互いを傷つけ合うよりよっぽど良いんじゃないかと。ずっと、ポジティブですからね」

「私が……、荻村君と? 無理よ……。だって私は、あなたみたいに強くはないもの。たった一人気を許せる人がいたとしても、それ以外はみんな私を嫌ってるのよ? 私のことが嫌いで、みんなして私を散々に虐めるの。……荻村君が支えてくれたら、ひょっとしたら私は、少しだけ立ち直れるかもしれない。頑張ろうと思えるかもしれない。でも、結局そんな世界じゃ、私の心は耐えきれずにすぐ壊れてしまうわ……」

「……そうですね。確かに僕一人が、先生の(よすが)になろうってのはちょっとおこがましいと思います。……でも、先生。先生を慕ってくれている人は、先生の力になろうって人は、きっと他にも大勢いるはずですよ」

 言って、僕は篠倉たちの方を見やった。

「ほら、ここに三人もいるじゃないですか」

「……面白いこと言うのね。私はみんなを騙したのよ? みんなの弱みに付け込んで、悪夢を見せて、最後には殺そうとした。そんな奴のこと、助けてくれるはずなんてないじゃん……」

 諦めきった感じで、自嘲気味に微笑む先生。それを受けて篠倉は、「はぁー……」と深くため息を吐く。

「確かに、あなたが私たちにしたことはそう簡単に許されることじゃありません。トミシはあなたのしたことに黙って目を瞑ってくれるかもしれないが、私はそういうわけにはいきませんよ」

 言いながら篠倉は、先生の傍にまでやって来た。

 先生は篠倉の脅すような言い方にひどく怯えて、座ったまま後ずさる。

「だからあなたには、その責任を取ってもらいます」

 篠倉は先生の目の前まで詰め寄ると、拳をゆっくりと振り上げる。それに先生は体をビクッと震わせて、両手で頭を庇い固く目を閉じた。

「えい」

 コツンと、先生の頭が軽く小突かれた。

「……えっ?」

 恐る恐る顔を上げる先生。篠倉の顔を上目使いで覗いて、不思議そうに彼女の様子を窺う。

 どうやら先生は、自分の想像とは違った制裁に呆気にとられているようだ。

「よし、今の一発でチャラだ! これで先生のしたことの全てを、いっさい水に流そうじゃないか」

 篠倉はニッと笑うと、しゃがんで先生と目線を合わせた。そうすることで、先生に圧迫感を与えないようにしているのだろうか。その姿は、子供を優しく諭す母親のようだ。

「放っておいたらあなたはまた悪さをするかもしれないけれど……。なに、何度だって止めてやるさ。そうだろみんな?」

 篠倉は振り返って、野々宮と那須美に尋ねる。それに那須美が「おう!」と快活に頷き返し、野々宮は「そうね」と優しく微笑んで応じた。

 思ってもみない反応に戸惑う先生。そんな先生に、篠倉は優しい声音で説いた。

「これはトミシも言っていたことだが……、私たちは何も先生のことを憎んでいるわけでもなければ、嫌っているわけでもない。単に、先生がしたことに対して(いか)っていただけだ。それでもって、こうしてあなたと話す内に先生のことを少しずつ知って、先生がなぜそんなことをしたのか分かった。それには複雑な理由と事情があって、だけど解決策がないわけじゃないということも明らかになった。……私たちが先生に協力すれば、私たちから一歩歩み寄れば、話は全て丸く収まる。実に簡単じゃないか。それをどうして拒む必要がある?」

「篠倉さん……」

 先生は、何か言いたげに口を開きかける。思いが溢れそうになってはそれを呑みこみ、逡巡してやっとのことで先生は、言葉を紡いだ。

「……でも、私がやったことは取り返しのつかないことだよ。いくらあなたたちが許してくれようとも、私が眠りに就かせた他の生徒たちは元には戻らない。その現実は変わらずそこにあって、あなたたちは私を見る度にそれを思い出す。そんな状態で、私との関係を修繕しようだなんて土台無理な話だよ……」

「――それはどうだろうか?」

 先生の嘆きに応えたのは――僕ら四人の誰でもなく、いつの間にかそこにいた、白日芙蓉その人だった。

「芙蓉? お前どうしてここに……」

 夢の中に突如として現れた芙蓉は、何故だか制服姿だった。彼女は僕の問いかけに答えることなく、つかつかとこちらにやって来る。そして、僕と先生の手の傷を一瞥すると、「派手にやったな」と一言。

「……取り返しのつかない、か。確かに現実でならそうだったろう。しかしな、これは夢だ。現実世界でそいつが生きている限り、夢ってのは決して途絶えることがないんだよ」

 言うと芙蓉は、座って僕と先生の手を取り、それを再び重ね合わせた。更に、そこに自分の手を乗せてギュッと握る。すると、手の平が焼けるように熱くなり、何と次の瞬間には傷が塞がっていた。

「な? すぐに元通りだ。……どれ、次は足を見せてみろ」

 驚く暇もないままに、僕らは言われた通り黙って傷ついた足を出す。

 今度は両腕を伸ばして僕らの足を同時に治しながら、芙蓉は先生に言った。

「眠っている生徒たちのことは僕に任せておけ。明日の朝には、全員がいつも通りの朝を迎えられるようにする。だから次こそは、例年通りの賑わいの文化祭が拝めるはずだぜ」

 僕らの足を治し終えると、芙蓉は「ほら、これで完璧だ」と、僕の足をバシンと叩いた。

 反射的に跳び上がりそうになる僕だったが、傷はすっかり完治していたのでさして痛みは感じなかった。

「……さ、もうすぐ目覚めの時間だ。結論は出せたか?」

 芙蓉は先生の目を見据えて、問いかける。それは先生だけに質問しているように見えて、その実、僕ら四人に確かめているようでもあった。

「………………ええ」

 その一言だけだったが、先生ははっきりと答えた。それに芙蓉は力強く頷いて、おもむろに立ち上がる。

「なら結構。……互いに傷つけ合い、腹を割って話し合い、思い悩んで出した答えだ。きっとそれは間違っちゃいない。これ以上、僕が口出しする必要もないだろうな」

 芙蓉がふっと微笑んで、空を仰いだ。

 空には亀裂が入り、空間が剥がれ落ちてきている。遠くの方から、建物が一斉に崩れ出すような音が聞こえてきた。

 先生の悪夢が崩壊する――先生の現実を忌み嫌う人生が、これで終わりを迎えたのだろう。その代わりにこれから先生が見る夢は、いったいどんなものだろうか? 

「そうだ。起きる前に、僕から一言あなたに言っておこう」

 すでに淡く消えかけている先生に、芙蓉が最後に言葉を贈る。

「あなたが生徒らに向けた気持ちは嘘だったかもしれないが、生徒らがあなたに向けた気持ちはその限りじゃない。そのつもりも意識もないかもしれないけれど、あなたには案外、慕ってくれている人がいるんだ。それをよく覚えておいてくれ」

 芙蓉が言い終えると同時に、僕ら四人も目覚め始める。夢世界に長らく滞在していた意識が、徐々に現実世界へ移行していく。

 芙蓉の言葉に先生は何と返したのか――薄れてゆく感覚の中では、はっきりと掴み取ることができなかった。

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