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蛇寄セの嚆矢2/2


 集合的無意識――人々の無意識の土台であり、夢の根幹。そして、人々の夢を繋いでいるもの。

 事ここに至っては、やはりいつまで経っても慣れる気がしない。

 縦にも横にも限りが無い空間に、まるで脈略の無いものが存在しているこの混沌とした光景は、いつ見ても気分が悪くなってくる。

 そう思ったのはどうやら僕だけではなかったようで、隣にいた篠倉と那須美の二人も同調した。

「私はこの空間を行きかうようになってからずいぶん経つが……、君と同じで全く慣れないな。ここに長い間居座っていると、なんだか酔ったような感覚に襲われる」

「俺は今日が初めてだけど……、だいたい二人と似たような感想だな。なんか、幻覚でも見せられてんじゃないかって思えてくる」

 ……ま、僕らが見ているのは夢、すなわち夢幻なわけだからな。那須美の言っていることはあながち間違いでもないだろう。

「いつまでも幻に捉まっていても仕方がない。さっさと夢魔を倒して、野々宮を悪夢から解放しよう」

 僕は瞑目して、野々宮のことを頭に思い浮かべる。

 弓道――生徒会――優等生――なんか怖いやつ……等々、それらのことを数珠つなぎに列挙して、野々宮扇を『検索』する。すると、例によって目の間には光の道が出来上がり、その道がある一枚の扉を示した。

「それじゃあ行きますか」

 先に説明していた所為か、さして驚く様子も見せずに那須美が歩み始めた。僕と篠倉も、黙ってそのあとについて行くのだが、何だか那須美に先導されているようで癪だった。

 那須美は先に扉の前までたどり着くと、何の前振りもなくいきなり扉を開けた。

「おいちょっと待て那須美! そこから先はもう野々宮の悪夢なんだぞ! もうちょっと慎重にみんなで足並み揃えてだな……」

「どうせ最後には夢魔と戦わなくちゃなんねぇんだ。いくら慎重になったところでそう変わんねぇよ」

 先んじて野々宮の悪夢に這入る那須美。僕と篠倉はそれを追うように、扉の先へと進んだ。


「おい那須美! ここじゃあいつ危険な目にあってもおかしくないんだから、軽率な行動は慎め!」

 扉を開けるなり、僕はそう大声で怒鳴る。しかし那須美の耳には、そんな僕の叱責はいっさい入っていなかったようだ。キョロキョロと辺りを見回して、へぇー……と長い息を漏らしていた。

「ここが野々宮さんの夢の中か。他人の夢は初めてだからよく分かんねぇけど……、意外と普通、なのか?」

 扉の先は、どこか公共施設のような場所のエントランスだった。

 ロビーに入る自動ドアの前には、各団体の活動予定が掲示されたボードが立っている。

ロビーは凸型になっており、左と右に繋がる通路が上がり框によって仕切られていた。

 入り口のすぐ左に受付窓口があり、カウンターから来客を覗けるようになっている。向かって左側の通路と右側の通路には多目的ホールや市民交流室といったいくつかの部屋があり、上り框の先には階段、そしてその正面奥に大きな両開きの扉が二つ隣りあっていた。

あの扉の先には長方形の大きな体育館があり、これまたバカでかいスライディングウォールによって、第一道場、第二道場と仕切られている。

 なぜ僕が、まだ調べてもいないのにこの場所について詳しいかといえば――

「ってか普通も何も、ここ市立体育館じゃないか。確か正式な名称は、市立武道交流館だっけか。一年のときに何回か部活で来たことがあるから、よく覚えているよ」

 そういうわけだった。

 なるほど……。野々宮が言っていた体育館とはうちの高校の体育館ではなく、ここのことを指していたのか。

「私も何度か来たことがあるな。確かここの二階には……、弓道場があったはずだ」

 篠倉の言葉で思い出す。確か、弓道部はここの弓道場で練習していると、いつだったか座頭橋先生が言っていた。

「ともあれ、まずは野々宮を探し出すことが先決だ。一通り野々宮のいそうな場所を探して回ろう」

 コクリと頷く二人を一瞥してから、僕は歩きだす。

 まずはそうだな、武道場あたりを探してみるか。


 ロビーの奥にある二つの武道場。両方とも天井は吹き抜けになっており、二階の観客席から試合を眺めることができるように作られている。また床に特殊なユニットがあり、ねじで木枠を床に固定しそこに畳を敷き詰めることで柔道をすることができる。

先ほども少し触れたが、加えてこの武道場にはスライディングウォールを収納すれば一つの大きな会場になるというギミックもあり、市立にしてはなかなか凝った作りになっているのだ。

「へー……、懐かしいな。ここの体育館、建物自体がキレイだから私は結構好きだったよ」

 篠倉が、道場の扉を撫でながら呟いた。

「僕らが小学生ぐらいのとき建てられた体育館だからな、そりゃキレイなはずだよ」

 それこそ、築ウン十年の古ぼけた僕らの高校とは比べ物にならない。

うちの校舎、ホント汚いからな……。クーラーはかび臭いし武道場は雨漏りすることがあるし、旧校舎に至っては虫が湧くこともある。そのクセに、なまじ偏差値が高いおかげで授業やテストはなかなかにハードだ。

キツイ汚いくさいでマジ3K。転職、もとい転校を考えた方がいいかもしれない。

「ま、とにかく武道場の中に入ってみようぜ」

 那須美が武道場の扉を開け、中に入る。しかし僕は、そのまま中へ入るのを少し躊躇ってしまった。

「武道場の中に土足で上がるのはさすがに……、マズイかな?」

 篠倉はこちらを向いて、少し困った表情で僕に尋ねる。

どうやら彼女も、土足で武道場に上がり込むことに抵抗があるようだ。

「おいおい篠倉さん、ここは夢の中だぜ? そんなこといちいち気にする必要なんてないだろ?」

 一足先にずかずか武道場へと入ってしまった那須美は、扉の敷居を隔てて僕らを諭す。

「分かってるよ。ただ、武道をやっている人間はみんな、『道場を大切に扱うようにしろ』ってくどいほど教えられるからな。それがクセになってんだ」

「……ふーん。そんなもんなのか」

 たいして興味無さげに、那須美は適当な相槌を打つ。

 那須美は武道経験者ではないのでそれはもっともなことなのだが、そこまで無関心だとちょっと悲しい。

「確かに、何かあったときに素早く移動できるように靴は履いておいた方がいいか……。では失礼して、土足で上がらせてもらうことにしよう」

 篠倉は扉の前で一礼してから第一道場に上がる。一礼は武道場に入るときの作法なのだが、那須美の言ったようにこれは夢だ。そこまで畏まる必要もないかなと思い、僕は礼をせずにそのまま中へ入った。

「いやぁ、こうして久しぶりに見てみると……、ずいぶんと大きなものだなぁ!」

 篠倉は手をいっぱいに広げてくるりと回りながら、武道場を見渡す。

 たかが武道場がそんなに嬉しいのかと思ったが……考えてみれば、篠倉は病によって彼女の大好きな運動を取り上げられてしまい、ここを訪れたくてもそれができない状況なんだ。

そんな篠倉にとって――擬似的にではあるが馴染みの体育館で体を動かせられるというのは、例えそれが悪夢でも感慨深いものなのだろう。

「……ま、その有り余るテンションは夢魔にでもぶつけてやれ」

「ああ!」

 気合十分にシャドーボクシングをする篠倉。

 僕はそんな篠倉を尻目に、道場の下座にある倉庫へと向かった。

「あっ、おい荻村、どこいくんだよ。一人で勝手に動き回るのは危険だぞ」

 それをお前が言えた口か、那須美。

「……武器の調達だよ」

 武道場向かって左下端の倉庫には、マットや柔道用の畳、折り畳み式の長机や掃除用具が収納されている。そこを探せば、武器として使えるものがいくつかあるはずだ。

 僕は倉庫の重い扉の取っ手に手を掛け、両手で強く引っ張る。金属製のローラーがレールと擦れ、キキィーと嫌な音が静謐な武道場に響き渡った。

「那須美、お前も来い。いくらお前のビジョンでも体一つで戦うことは無理だろうからな」

「わーってるよ。そう急かすなって」

 那須美は適当に返事をすると、こちらに駆け寄ってくる。よく分からんけど何だかその姿にイラッときたので、倉庫で見つけたモップを投げつけてやった。

「痛ってぇ! 何すんだよお前!」

「悪い、わざとだ」

「知ってるよ!」

 ぶつくさ文句や罵倒を浴びせる那須美を無視して、僕は自分の分のモップを手にとり刀へと変える。

 刀を何度も握り直して手に馴染ませていると、視界の端に、何か長くてうねったものが映った。

「なんだあれ? ロープか?」

 そう思ったのだが、何しろ暗くてよく見えないのだ。

近づいてよく目を凝らしてみると、そのロープのようなものは、とぐろを巻いて、黒い鱗を不気味にテカらせて、赤い舌をチロチロと出していた――

「……へびだ」

 繰り返すが、蛇だ。それもサイズが尋常じゃない。

とぐろを巻いているので全長はよく分からないが、胴回りが人のウエスト以上はある。なぜロープなんかと見間違えたのか、疑問に思えてくるほどの大きさだった。

「………………」

 突然のことで混乱し、しばらく蛇と見つめ合う。

 まさに灰吹きから蛇が出たと言ったところだが、とりあえず音を立てずに静かにして、急に動き出さなければなんとかなるだろう。

 そう思っていた、のだが――

「おーいトミシ! 見てくれ、ムーンサルトキックだー!」

 篠倉が倉庫の中のマットに大技をかます。倉庫内の物がガラガラガッシャーン? とんでもない音を立て、雪崩のように急激に崩れさった。

これが麻雀なら役満だ。大量の点棒が篠倉の懐に入っていることだろう。

だが僕はその場の光景を見て思い直す。

これは麻雀じゃなくて……、スロットだ。今まで隠れていた幼蛇の大群が、マットの影や隙間から、まるでスロットから溢れるコインのようにわらわらと現れた。

「うわああああああ? なんだこれはー?」

 さしもの篠倉も、さながら波のように押し寄せる蛇の大群に仰天する。

 あまりのことに腰を抜かしたのか、篠倉はその場と呆然と立ち尽くしてしまった。

「おい篠倉! 気をしっかり持て! こんなところで気絶したら大変なことになるぞ!」

 僕は篠倉の両脇を後ろから抱えながら、足元に蔓延る蛇の大群を蹴散らし倉庫から脱出する。

「なんだどうした? そんなに慌てて何かあったのか?」

 金棒をバットのようにスイングしていた那須美が、すっとんきょうに聞いてくる。

「夢魔だよ夢魔! 倉庫の中に蛇の形をした夢魔がいたんだ、それもちっこいのが何匹も……!」

「夢魔? ……って、うわっ……ホントだ。きめぇ……」

 見ると、まるでダムの放流のように、倉庫が大量の幼蛇を吐き出している。倉庫内はもはや蛇で埋め尽くされていて床が見えない。

「篠倉! おい篠倉、しっかりしろ! ……ダメだこいつ、気ぃ失ってる」

 僕は篠倉の頬をペチペチと叩いてやるのだが、まるで反応がない。

「……仕方ない。篠倉はとりあえずどっかその辺に寝かしておいて、僕らだけで夢魔を始末するか」

「えっ、何? こいつら一匹ずつ駆除していくわけ? さすがにそれは……」

げっ……とうんざりしたような顔をする那須美。

「違ぇよ。たぶん、こいつらの方は放っておいてもどうにかなる。まだ幼くて臆病だからそれほど害も無い。ただ……、あいつはそうはいかないだろうな」

 言いながら、僕は倉庫の奥を指さす。 

倉庫には、赤い目を爛々と光らせた巨大な蛇が鎮座していた。

「あー……、そういうことね」

「そういうことだ」 

蛇のようなしつこさとよく言うからな。このまま僕らを見逃してくれはしないだろう。


蛇の夢魔は、鎌首をもたげながらこちらへぬるりと這い寄る。

一見するととろくさい動きだが、蛇が獲物を捕らえるときの速さたるや尋常ではない。

対して僕らは速さに関してはまるで普通の人間と変わらない。唯一、蛇の速さに対抗できるのは篠倉だが、肝心の彼女は気絶してしまっている。

決して良い状況とは言い難かった。

「どうすんだ荻村。あんなでっかいのに咬まれたらひとたまりもないぞ。ましてや毒蛇だったら……」

「……まぁ、ただじゃ済まないだろうな。こんなところに血清なんてないし」

 もちろん検閲の力で血清を作り出してしまうという手もあるにはある。……が、夢魔の毒にそれが通じるとは限らないし、第一僕は血清というものがどういう物かいまいちイメージできないので、ちゃんとしたものが出来上がるかどうかさえも分からない。

 となれば最悪の状況を考えて、あの夢魔に咬まれてしまえばそれで終わりと、そう思って行動した方が良さそうだ。

 ――そうさ、咬まれなければ問題ない。幸いなことに、それが可能なやつが今ここにいる。

「那須美。お前、あの夢魔に突っ込め」

「……は?」

 那須美は僕の言った言葉の意味がよく分からなかったのか、間抜けな顔をしてこちらを向いた。

「だから、お前があの夢魔の気を引き付けろって言ってんだよ。お前のそのビジョンで強化された体なら、例え咬まれたとしても牙なんて通らないはずだ。無論、毒の心配もいらない」

「いやいやいやちょっと待てくれよ! それって俺に囮をやれって言ってんの?」

「だからそう言ってるだろ。なんだ? 何か不満なことでもあるのか? お前自分の悪夢のときはよろこんで囮役を買って出たじゃないか」

「いやそうだけど! 万が一のこともあるだろが!」

「なんだお前、ビビってんのか?」

「そりゃビビるだろ! 大蛇だぞ、大蛇! しかも毒蛇! でかい! ヤバい! こわい!」

 お前、前回蛇なんかよりよっぽど不気味なもん相手にしてたけどそれは構わないのか。

 ひょっとしてこいつ、爬虫類とかが苦手なタイプのやつか? 

 冗談交じりにそんなことを考えたのだが、案外間違ってもいなかったらしい。那須美は足元に先ほど倉庫から逃げ出した幼蛇が近づくたび、小さく悲鳴を上げていた。

 気の毒だが……いやそれほど気の毒でもないが、これも野々宮のため。那須美には犠牲になってもらうしかない。

 僕は那須美に心の中で詫びてから、一芝居打つ。

「……ま、考えてみればそりゃそうか」

「……お?」

 那須美は眉をピクリと引くつかせて聞き直す。

「今回の件はお前にとっては他人事だもんな。いくらお前でも他人を、それも今日たまたま偶然成り行きで知り合ったような全くの赤の他人を、命張って助けてやることなんて到底できないよなぁ……。や、頼んだ僕がバカだったよ」

「っ……! このやろう言わせておけば……!」

ことさら挑発的に言ってやると那須美は、顔を真っ赤にし、肩をプルプルと震わせ、ギシギシと歯ぎしりをする。那須美は直情的なタイプだからかなり分かりやすい、効果覿面といった様相だ。

ただここで喧嘩をしたってしょうがないことはこいつも分かっているのか、那須美は黙ってやり場のない怒りを抑えつける。

「いやー……お前、あれだけ意気込んでたから少しはやってくれるかなと思ったんだけど……。とんだ期待外れだったな――」

 その一言で、那須美の中で何かが弾けたらしかった。

「そこで黙って見てろやクソヤロォォォォォ?」

 那須美はそう叫びながら思いっきり地団駄を踏むと、まるで猛牛のように鼻息を荒くして夢魔に突っ込んでいった。

 ……が、その勢いも虚しく、あっさりと夢魔に捕まる那須美。あっと言う間にぐるぐると巻きつかれ、パクリと頭から咬みつかれてしまった。

 しかし、どうやら出血はしていないようなので、幸いというか狙い通りというか、那須美の体に大蛇の牙が突き刺さりはしなかったみたいだ。

「――? ――――――? ―――?」 

 那須美は必死に叫んで助けを乞うが、もう半分ほど呑みこまれてしまっているのでもはや何を言っているのかはほとんど聞き取れない。何か誰かの悪口を言っていたような気もするが、それはたぶん気の所為だ。

「那須美ー、今助けてやるからなー」

 おそらく今那須美の頭があると思われる大蛇の腹部分に顔を近づけて、語りかけるようにして言ってやる。

誤って那須美まで傷つけてしまわぬように彼の頭を避け、僕は夢魔の首より少し下の部分に刀をあてがった。大蛇は獲物を上手く呑みこもうと首の一部を支点にして那須美を持ち上げるように頭を少し浮かせているので、その視点は夢魔の体と那須美の体が接触していない。

僕は刀を上段に構え、ゆっくりと大きく息を吸う。ギチギチと音がするほど刀を強く握りしめ、それから一気に振り下ろした――


 七 


「ったく……、冗談抜きでマジで死ぬかと思ったぜ……」

 ロビーと第二道場を繋ぐ細い通路。その途中にある小さな給湯室で、那須美は夢魔のよだれでベタベタになった頭を洗いながら呟いた。

「別にあのまま丸呑みされたってよかったんだぜ。赤ずきんよろしく、腹掻っ捌いて助けてやれたんだからな」

 ついでに言っておくと、那須美を呑みこんでしまえばその分夢魔の動きは鈍くなって隙だらけになっていただろうから、那須美を助けてやれる可能性は十分にあった。

「いやそれはそうかもしれないけどさ……、気持ちの問題だろ……。俺、蛇に喰われてたんだぞ?」

「まぁその結果、夢魔は無事倒せたしお前も助かったんだからいいじゃないか。終わりよければすべてよし、これでこの話は終わりだ」

 僕は無理やり話を打ち切る。那須美はまだ何か言いたそうにしていたが、今後那須美を、このような無茶な囮作戦には使わないという条件で黙らせた。

「……ん、ううん……、あ……れ? 蛇はどうなった……?」

 給湯室の壁にもたれさせて寝かしていた、篠倉が目を覚ました。

 どうやら倒れた際に頭を打ってしまったらしい、篠倉は、後頭部の辺りをしきりに触っては痛みに顔を歪ませている。

「これから野々宮さんを助けにいくっていうときに……、面倒を掛けてすまなかったな……」

「まぁあんな状況を目の当りにしたら卒倒してもおかしくは無いからな、気にするな」

「そうか……、そう言ってくれると助かる」

 篠倉はゆっくりと立ち上がり、大きく深呼吸をする。それから自分の顔をパンと叩いて気合いを入れた。

「あの、倉庫の奥にいたバカでかい蛇はどうしたんだ?」

「ああお前……、あの夢魔に気づいてたんだな。……安心しろ。あの蛇型の夢魔は僕らだけで何とかなったよ」

「そうか、それならよかった。倒れるときにチラッと見えたぐらいだが、それでもハンパではない大きさだったからな。少し心配になったんだ」

 言って、篠倉は胸を撫で下ろす。その横で那須美が、何だか釈然としなさそうな顔をしていたが、僕は気づかないフリをした。

「お前こそ大丈夫か? 頭以外にもどっか怪我している場所とか、気分が優れないとかそういうことはないのか?」

「うーん特には無いが……強いて言えば、蛇が少しトラウマになったくらいかな……」

 篠倉はげんなりとして言う。

まさに、蛇に咬まれて朽ち縄に怖じるといったところか。

「……さて、じゃあそろそろ休憩は終わりにするか。篠倉の目も覚めたことだしな」

「えー……、もう出発するのかー……。俺だってかなり精神的にまいってんだぜ?」

 探索の再開を渋る那須美。

『だって』を強調している辺り、篠倉との扱いの差に何か思うところあるらしい。

「そうしてやりたいのはやまやまだけどな。こうしている間にも野々宮が夢魔に襲われているかもしれないんだ。ゆっくりしている時間は無い」

 僕がそう窘めると、那須美は「あー……、そういやそうだったな……」と頭を掻きながら呟く。びしょ濡れになっている髪をかき上げて、那須美は言った。

「……それじゃ、うかうかしてらんないな。行こうぜ」

 やはりなんだかんだ言っても、他人のピンチには弱い那須美だった。

 

 僕らは給湯室を出て、その足ですぐそばの第二道場を調べる。

第一道場とシンメトリーになるように作られている第二道場。ここにも蛇型の夢魔がいるだけで、野々宮の姿はどこにも見当たらなかった。

「いったいどこで何してんだろうな野々宮さんは……」

 第二道場にいた夢魔の最後の一体を倒し、那須美は夢魔の頭を砕いた金棒を担ぎ上げながらやれやれとばかりに呟いた。二、三匹と連戦が続いたためか、少し疲れたような表情をしている。

「まぁ、一口に探すと言っても野々宮の居場所はまるで見当もつかないからな。面倒だけど、この体育館を順に回って虱潰しにしていくしかない」

 ただ、野々宮の方も動き回っているかもしれないので、行き違いになってしまうということも有り得なくはないのだが……。

「いや、それはないと思うぞ」

篠倉がきっぱりとその可能性を否定した。

「……どうして?」

 僕が聞くと、篠倉は得意げに胸を張った。

「こうなることを見越して、寝る前、野々宮さんにひとこと言っておいたんだ。夢の中ではあまり動き回らないように、とな」

「あぁ、そういうことか。それはナイスアドリブだった篠倉。よくやってくれたな」

 その言葉に調子を良くしたのか、篠倉の体は一層反り返る。もうなんか反り返りすぎてブリッジのような姿勢になっていた。

 ふと――さかさまになった視界に何かを見つけたのか、篠倉は突然ハッとする。

「……ふふ、どうやら私のファインプレーはそれだけではないらしいぞ」

「……? どういうことだよ?」

 篠倉は、くるっと姿勢を元に戻して二階の観客席の辺りを指さした。

 彼女の示した先を見てみる。観客席の左側、ここの倉庫の真上にあたる位置の壁に、一つの扉があった。

「……あんなところに部屋なんてあったっけ?」

 その扉は、本来ならデッドスペースになっているであろう場所に設置されている。

 しかも扉の外観が他とは少し違うというか、なんとなく小汚い印象を受けた。まるで長年使い古されてきたかのような年季の入り具合は、この場所の内装にはひどく馴染まない。

 この体育館の佇まいとはミスマッチな扉が、何の脈絡もなく突飛な場所に存在するその光景――それは極めて異質なもので、違和感が凄まじかった。海の上に木造建築の平屋が建てられているかのような不調和だ。

「……ま、調べてみる価値はあるか。他にあても無いしな」

 もう一度あの不自然な扉に目をやって、僕らはその場から立ち去った。


 扉――目の前には、妙に年季の入った古い扉。

 そこには、ピンクの丸い文字で『女子弓道部』と書かれていた。

 ああ、そうか。このやたら年季の入った古い扉、弓道部の部室の扉だったのか。

何だか妙に納得がいって、一人で頷く僕。そう言えば、僕の夢のときもこんなことがあったな。つくづく僕は、扉というものに縁がある。

 少しいびつな形をしているドアノブを握り、僕は他の二人に視線を送る。二人が首肯するのを確認してから、僕は扉を開けた――


 扉を開けると、まさしくそこは弓道部の部室だった。

 長方形の部室には、ロッカーと胴着の掛けられたハンガーラックがそれぞれ壁際に設置されており、小さな本棚には雑誌やマンガが並べられ、その上には制汗剤や手鏡などの小物が置かれている。

 そしてその奥には、小さなソファに膝を抱えて座っている、野々宮の姿が確かにあった――

「あ、あなたたち……。なぜ……この場所に……」

野々宮は僕らを見て愕然とした表情を浮かべるが、すぐに冷静さを取り戻してぼそっと呟く。

「そうよね……。これは夢だもの、きっと荻村君の印象が(悪い意味で)強すぎて……、それで夢にまで出てきたんだわ……」

僕らはホラー映画か何かかよ……。ってか、夢の中まで僕に悪態をつかないと気が済まんのかお前は。

「おおおお、野々宮さん! やっと見つけたぞー!」

 後から入ってきた篠倉が、野々宮の元に駆け寄った。

「いったい何が……どうなってるの……?」

跳びかかるような勢いで抱きつく篠倉に、野々宮はおろおろと困惑する。

「おお! 弓道着姿も似合っているな! 白の胴着が眩しいぞ!」

「分かったから……、少し離れてちょうだい……」

 篠倉の言うように、野々宮は白の胴着と黒の袴に身を包んでいる。

 和装をあまり見慣れていない所為か、那須美が野々宮の弓道着姿をねばついた視線でチラチラ見ていてキモいヤバい。

 僕の冷ややかな視線に気がついたのか、那須美はわざとらしく咳払いをして茶を濁す。

「……それより篠倉さん。例の話、しなくてもいいのか?」

「……む。そうだったな、すっかり忘れていたよ」

 那須美に言われて篠倉は、そっと野々宮から離れる。それから野々宮の隣に座り直して、

「いいか野々宮さん。これから話すのは、紛れもない真実だ。現実ではないが、事実だ。夢ではあるが、夢想ではない」

 と、いつか聞いたようなことを言って話を切り出した――


 ――すっかり恒例行事となった一連の流れを終え、篠倉は満足げに息を漏らす。それとは対照的に、野々宮はというと終始難しい顔をして一言も話さなかった。

「……ま、俺も最初にこの話を聞いたときは信じられなかったんだけどさ、妙に現実味があって……って、ああ、現実ではないのか。そうじゃなくてつまり……、理にかなってるっていうかその……」

「黙って」

 フォローに入る那須美を野々宮は一蹴し、あごに手をやり目を伏せて、考える。

 それから僕らの顔をなぞるように一瞥したあと、ゆっくりと口を開いた。

「つまり……、こういうことかしら。私たちが現実の世界で不満やストレスを感じると『夢魔』という化け物が生まれて、夢魔が夢を作り変えてしまう。その改変されてしまった夢が、私たちが今いるこの場所……つまり、『悪夢』。そしてその悪魔から解放されるためには、夢魔の大本である『母体』を倒すしかない」

「まぁ、かいつまんで言えばそういうことになる」

 もっともその辺りは僕らにも分かっていないことが多いので、はっきりとしたことは言えない。特に夢魔の成り立ちについては推論と言うよりも想像と言った方が正しいくらいで、実際のところ夢魔が何をきっかけにして僕らの夢に現れたのかは謎だ。

 少し間をおいてから、野々宮は続ける。

「……あなたたちの言っていることが正しいと証明できる物や方法は?」

「あるにはある……が、今すぐには提示できない。……だけど、お前が今自分で言った通り、悪夢から解放されたいのなら無条件で僕たちを信用する他ない」

少し脅すような言い方になってしまうが、仕方ない。ここで僕らを信じてもらえなければ、あとで困ったことになるのは野々宮だ。

 悪夢による弊害は計り知れない。それは、僕らが夢魔に夢を侵された人の末路をいまだ知り得ていないということでもあるのだが、それだけに先の見えないトンネルを進んでいくような怖さがある。

「……そう。荻村君の言い回しは夢の中でもズルいままね。……いじわる」

 野々宮は僕の瞳をじっと見つめて静かに言う。

 ソファに座っている野々宮よりも立っている僕の視線の方が高いので、彼女のそのセリフは上目使いになり、ちょっとドキリとしてしまう。

 おかげで話し出すタイミングを逃してしまい、それをきっかけにしてこの場に長い沈黙が訪れた。

 幾ばくか経って、そうだな、具体的には篠倉がジッと座っていられなくなる辺り……つまりはそれほど時間は経過していないのだが――その沈黙を破ったのは意外にも野々宮だった。

「……いいわ。あなたたちに騙されてあげる」

「本当か?」

 がばっと立ち上がり、体制的にも気持ち的にもぐっと前のめりになる篠倉。それを軽くあしらいながら、野々宮は続ける。

「ここであなたたちを疑っても何も始まらないでしょう? 悪夢から解放される可能性が少しだってあるなら、私はそれに賭けてみるわ」

 じっと、野々宮は部室の扉を見据える。野々宮がその先に何を見ているのか僕には分からないけれど、ただ一つだけ確かなことは――彼女が現実と戦う覚悟を決めたということだ。

「……私の悪夢のルーツ、だったわね」

 野々宮は立ち上がると、先んじて扉の方に向かう。そこはさすがの野々宮だ。これからすることも、先ほど篠倉が話した内容だけで理解したらしい。

 ふと野々宮は扉を半分だけ引いたところで止まり、揺れるような不安定な声が僕の耳朶を打った。

「私のこと……、ちゃんと守ってくれるのよね……?」

 こちらを振り返りもせずに言ったのでそれが誰に向けられた言葉か分からなかったが、でしゃばりを承知で僕は答えた。

「……当たり前だ」

「当たり前だ!」

「あたりめぇだ!」

 三つの声が重なって、僕らは顔を見合わせる。野々宮が小さく微笑むような気配を感じた。

「……そ」

 片手で目を擦りながらそれだけ言って、野々宮は先に部室を出ていってしまった。


 僕たちが向かったのは――ちょうど一階ロビーの真上にあたる場所に位置する弓道場だった。

 昔、外から中の様子を少しだけ覗いたことがあるが、こうして改めて見てみるとけっこう広い。

 これは野々宮から聞いた話だが、射場から的場までちょうど二八メートルあるらしく、こんな広いスペースが体育館の中に納まってしまうのかと驚いた。矢道に人工芝が敷かれているのは、途中で落ちた矢に傷が付かないようにするためのクッションだそうだ。

 だが上座に日章旗が飾られているところは他の武道と変わらないようで、入室の前に一礼をするといった作法も共通していた。

「おー……、ここが弓道場か。前にテレビか何かで見たことあるけど……、そのまんまだな」

「当たり前でしょ……、どこの道場もちゃんとしたルールに沿って作られているのだから。道場によって的場が遠かったり、審判席や看的所が無かったりなんてことはないわ」

 ツッコまれて那須美は「……看的所ってなんだ?」と首を捻っていたが、野々宮はそんな那須美を放って、射位――つまりは矢を放つ地点へと立った。

「……薄々気がついているとは思うけど、私が悪夢を見ることになった嚆矢はたぶん……弓道部のことよ」

 野々宮は足構えを作り、そこに何かを思い出すように、前方の的を見据える。

 それから、胸につかえたものを静かに吐き出した。

「……私、昔から人に過大評価されることが得意だったの――」

「自分で言うのも何だけど……、意外だって思うでしょ? でもそうだったの――」

「テストの成績は良い方ではあったけれど上位ではなかったし、弓道だってベスト8までは入賞したことだってあるけれど、それ以上はない。いつも中途半端だったの……私って――」

「それでもまとめ役にされてしまうことが多かったのはたぶん……、割と物事をよく考える方だったからかしらね。それに、そこで自分の考えたことをはっきり言えてしまう性格だったから……。要するに、察しが悪くて空気の読めない……無神経な人間ってことよ、私は――」

「クラスの委員長ぐらいならそれでも良かったのかもしれないわ、あれは誰でもできる雑務を任されているだけだから。……でも、過大評価されたのはそれだけじゃなかった――」

「荻村君は知っていると思うけど、毎年五月の頭ごろに県大会があるでしょ? ……そう、三年生の引退試合の大事な大会。私――その団体メンバーに選ばれてしまったの――」

「と言っても、三年の一人が怪我をしたからその補員として選ばれただけなのだけれど……、それでも良く思わなかった人もいたらしいわ。二年の中には私より大会でいい結果を残せている子も少なくはなかったしね。直接口には出さないものの、いろいろ不満はあったみたい――」

「……でもバカな私は、やっと自分の実力が正当に認められたと舞い上がって、そのことに気がつかなかったの。まして自分の所為で部内の空気が悪くなっているなんて……、考えもしなかったわ。それがいけなかった――」

「うちの弓道部は指導者がいないから、部員がお互いにつどつどアドバイスをしながら練習をするの。それでさっきも言ったと思うけれど、私は理屈屋だから……自分の考えを相手に押し付けるようなことも多かった。それがレギュラー選抜をきっかけにますます顕著になってね、部内の空気はどんどん悪化していったわ――」

「そんなピリピリしたムードの中、ついに大会を迎えた弓道部はあと一つ勝てば全国というところまで進んだ――」

「……勝てば全国、負ければ引退。先輩の高校最後になるかもしれない大事な試合で……、私の矢は全く的にあたらなかった――」

「何が原因かは分からない。緊張の所為かもしれないし、コンディションが悪かったのかもしれない。練習では的中させられていたものが、本番になって全くあたらなかったの――」

「結果――うちの弓道部は僅差で敗退。その僅差は私が外した分だったわ――」

 見ると、ここの審判席の奥にはトーナメント表が貼ってあった。城野高という文字から伸びた赤い線は、まるでそこでせき止められてしまったかのように途中で途絶えてしまっている。

「大会って……、この道場で開かれたのか」

 僕が呟くと、野々宮がこちらを向いてそれに答えた。

「そうよ。大会が開かれたのも――大泣きする私を先輩が慰めてくれたのも――それに嫌らしい視線を投げられたのも――同輩に嫌味を言われながら練習をしたのも……全部ここ――」

 野々宮は両拳を持ち上げ、徒手のままエアで弓を構える。そしてゆっくりと、肩の震えを誤魔化すように、弦を引き絞った。

「大会が終わって程なくしてから、顧問はみんなの前で私に言ったわ――野々宮に部を任せる、これからはお前が弓道部をしょって立つんだって。失敗を取り戻すチャンスを与えられたことに私は正直嬉しかったし、来年こそは優勝して先輩たちの悲願を果たそうとやる気にもなった。だけど……、みんなの顔をふと見たら、私のそんな感情は一気に冷めてしまったわ……」

 そのとき部員たちがどのような表情をしていたのか、野々宮は深く語らなかった。しかし、それは想像に難くない。

 部員たちの表情は、妬みや僻みによってひどく歪んでいたことだろう。それこそ、蛇のように。

「そのとき私は初めて思ったの――私に足りないものは、実力でも土壇場の集中力でも何でもない、空気を読むことなんだって。……私は今までずっと、独りで練習してきたのよ。誰の意見も聞かずに――誰の気持ちも考えずに――たった独りでがむしゃらに……」

 野々宮は一度深呼吸をしてから、ゆっくり狙いを定めて、掴んだ(くう)を解き放つ。

それと同時に、透明の矢に空間が引き裂かれるようにして――視界が大きく歪んだ。


 ――瞬間、視界が傾いた。

 いや、そうじゃない。急に足場が水面になって、僕の体が沈んでしまったのだ。

 しかし、あまりに突然のことで僕は頭が真っ白になり何もできなかった。水面を掴むようにして必死にもがくが、僕の体は全く浮上しない。

 水が肺の中に侵入し、胸がしめつけるように痛む。水面が遠く、暗闇が僕を誘う。

 ついに酸欠で意識が朦朧とし始めたそのとき――脳裏の端に、優雅に泳ぐまるで人魚のようなものを見た――


「――がぁぁぁぁっ! ごほっ、げぇっ……!」

 気がつけば、僕は篠倉に支えられて陸地に上がっていた。

 彼女に背中を擦られながら、僕は四つん這いになって必死に息を吸う。せき込むたび、口から飲みこんだ水がこぼれた。

「がっ、げほっ……! はぁはぁ……! いったい……何がどうなって……。僕……今溺れてたのか……?」

 激しくむせながらも何とか冷静さを取り戻す僕。おかげでやっと周りが見えてきた。

「落ち着いたか?」

篠倉が心配そうに僕の顔を覗き込む。どうやら、溺れた僕を助けてくれたのは篠倉だったようだ。篠倉は僕と同様全身ずぶ濡れになり、前髪が顔を隠すように垂れ落ちていた。

「まじで……助かった……。ありがとな……」

 僕はふらつく足で立ち上がる。

 見渡せば、辺りは一面――水水水。広がる景色は海そのもので、そのど真ん中にある鉄筋コンクリートの瓦礫の島に僕らはいる。まるで、島流しにでもあったような気分だ。

「おーい! 大丈夫か荻村ぁー!」

 遠くの方から、那須美が野々宮を連れて駆け寄って来る。どうやらあの二人は、不測の事態にも適切に応じることができたらしい。つまるところ、溺れたのは僕一人だけだったということだ。……情けない話だが。

「僕のことなら大丈夫だ。それより……母体だよ。母体はどこにいるんだ……?」

 いくら探しても、母体の姿が一向に見当たらない。今までの母体は悪夢が崩れると共にその姿を現していたが……、今回はその限りではないのだろうか?

 ――と、そこで野々宮が、

「右から……来る……」

 唐突に、まるで自分の意志とは関係なく自動的に口が動いたように、ぼそっと虚ろに呟いた。

「え? 野々宮。お前、今何か言っ――」

 聞き返す暇も無く、僕の右前方の水面が破裂した――蛇が、跳ねたのだ。

「……ウミヘビ、だ」

 豪快に水を巻き上げて飛び跳ねたウミヘビは、僕らの頭上を越えて着水する。飛び散った水が滝のように僕らに降り注いだ。

「……おい。見たか今の……」

 那須美が青ざめた表情で、すがるように僕の肩を小さくゆする。

 無理も無い。今僕らが見たウミヘビは、先ほど倉庫に現れたそれとは比べ物にならないほど巨大だった。巻き上げられた水に紛れてよく見えなかったが、頭だけでも那須美なんか一気に五人は呑みこめるんじゃないかという大きさで、まるでクジラのように大きい。

もはやウミヘビというより……、リヴァイアサンだ。

「あんなものと戦うのか……、俺たち……」

 半ば絶望したような表情で呟く那須美。開いた口からそのまま魂が抜けていきそうなツラだったが、それをちゃかす気にはなれなかった。

「それだけじゃあない。相手はデカい上に水中にいるからな、私たちの攻撃をどうやって母体にあてるのかという問題もある。……そうとう手強い相手だぞ、アレは」

 ……篠倉の言う通りだ。母体が水中に潜んでいる限り、僕たちは手出しをすることができない。水中は、呼吸ができない、動きが鈍くなる、加えて上下左右から敵が襲ってくる可能性があるので視界の確保もままならない……、この三重苦だしな。

……というかそもそも、ただでさえ彼我の体躯には比べ物にならないほどの差があるというのに、わざわざ相手の土俵で戦うなんてことは自殺行為だ。

となると、やはり――

「さっきみたいに母体が飛び跳ねた瞬間を狙うしかないな。……その一瞬に母体を倒せるほどのダメージを負わせられるかどうかは話が別だけど」

 半ば投げやりに言って、僕は先ほど母体が着水した辺りを見やる。

水面が少し――揺れていた。

「……また来るわ――正面から、今度は私たちを狙って」

「……へ?」

 出し抜けに、野々宮は僕が見ていた場所よりももっと前を指さした。見ると、水面を引き裂くように水しぶきがVの字に上がっている。

何かが――こちらに向かっているみたいだった。

「ヤバいっ……! 母体がこっちに突進してくるぞ!」

 僕らは急いでその場から離れようとするのだが、野々宮だけはぼっーとしてしまって動かない。さっきから野々宮の様子が少し変で気になるが声をかけてやってる暇もないので、僕は彼女の手を引いて、それから走り出した。

 地面が激しく揺れ、瓦礫を砕く大きな音が鳴り響く。振り返れば、砂礫が舞い上がって砂嵐のようになっていた。きっと母体が、勢いそのままに陸に上がって這いずったのだろう。何という推進力だろうか。

 母体は、またぞろ水しぶきを上げて水中へと帰っていく。地面には小さな亀裂が走り、水しぶきと砂礫も相まって、辺りはまるで大災害にでもあったかのようなありさまだ。

「はぁはぁっ……はぁ……。どうする荻村……、こんなんじゃいつまでたっても母体を倒すことなんてできないぞ……」

 全力疾走で乱れた呼吸を整えながら、那須美は「くそっ……!」と地団駄を踏む。何もできないこの状況、そして自分が歯痒いらしい。

「……僕らだけの力でこの状況を打開するのは少し厳しいな。……おい野々宮」

 呼ばれてやっと我に返ったのか、野々宮は僕に握られた手をさっと引っ込める。そしてその手を庇うようにしながら、顔を伏せて邪険に答えた。

「……何よ?」

「お前、さっきから様子が少し変だよな? どうかしたのか?」

「……別に何でもないわよ。ただ……」

「ただ、何だ?」

「……さっきから、あのバケモノのしようとしていることが分かるのよ。どこから来るのか、何をしかけてくのか、頭の中に一瞬だけよぎるような……そんな感覚」

 野々宮が言うのを聞いて、僕を含めた他三人は顔を見合わせて確信する。

間違いない……、ビジョンだ。まさかと思って聞いてみたが、やはり野々宮にも超明晰の力が目覚めていた。

――ふと、それであることを思いついた僕は、野々宮に確認する。

「それは……、相手の行動を先読みできるということか?」

「……たぶん、そういうことだと思う……はっきりしないけれど」

「そうか……、よし分かった――」

これで何とか……、活路が見出せそうだ。

僕は帯刀していた刀を抜きとる。さらにベルトに引っ掛けたままの鞘も抜いてしまい、まず刀の方を野々宮に差し出した。

「『検閲』の話はさっきしたよな? これ、それぞれ弓と矢に変えてくれ」

 まさか自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったのか、急に言われて野々宮は当惑した。

「無理よ……。私にはそんな妙な力、使えっこないわ」

「お前のその予知みたいな能力は間違いなくビジョンによるものだ。ビジョンが使えて検閲が使えないなんてことは絶対にない」

「でも……、その検閲って荻村君にもできるんでしょ? だったらあなたがやればいいじゃない……。わざわざ私がやる必要は……」

「僕は弓矢なんて触ったこともないからな、うまくイメージできない。だから、弓矢に慣れ親しんだお前にやってもらうしかない」

「でも……」

「……これはお前の悪夢だ。お前がケリつけないでどうする」

 強い語気のまま、僕は続ける。

「夢世界のことを知ってからいろいろ僕なりに考えたんだけどな。僕が思うに、悪夢ってのは今まで自分が現実から目を逸らしてきた代償みたいなもんだ。それを誰か他人に解決してもらおうなんてのは筋に合わない。僕らができるのはその手伝いぐらいで……、畢竟ケジメをつけなきゃならないのはお前なんだよ、野々宮」

 その言葉が効いたのか、野々宮は黙ってしまった。俯いて表情は分からないが、頬からぽろっと涙の粒が落ちた。仮にも女の子に少し言い過ぎてしまったかと思ったが、……そこが野々宮扇の違うところだった。

 野々宮は顔を真っ赤にして俯き、唇を噛み、手を強く握って、それから目をゴシゴシと擦る。そして一度落ち着くために深く息を吸ってから、野々宮は言った。

「……そう、ね。これは私の問題だもの、あなたたちに頼ってばかりじゃいけない。私が現実と向き合うために、私は悪夢と決別する必要がある。……覚悟が足りなかったわ、私」

 ――ああ、今はっきりと分かった。野々宮がリーダー役として推薦される、その理由が。

 野々宮は――誰に対しても平等で正直だ。相手と自分の立場はいかなる場合においても対等で、どちらか一方を贔屓することも卑下することもない。自分が正しければそれは決して曲げないし、間違っていれば素直に非を認め相手の意見を尊重する。当然のことのようだが、それができる人間はほとんどいない。

野々宮は、リーダーにもっとも必要なのは実力だと勘違いしているのだろうが、実はそうではない。平等で正直であること、すなわち「正義」を地で行く人間こそが、もっとも長にふさわしいのだ。それこそが、今まで野々宮がリーダーとして選ばれてきた理由――決して過大評価などではない。

「……やってみるわ」

 僕の目を真っすぐに見つめて、野々宮は手を差し出す。僕はその手をとるように、野々宮の覚悟に応えた――

 真剣に触れるのが初めてだからか、野々宮はたどたどしい手つきで刀を受け取る。

責任の重みをそこに感じたのか、どこか緊張しているようにも見えた。

「大丈夫だ野々宮さん! 俺にだってできたんだ、野々宮さんにできないわけがない!」

 横から心配そうに見ていた那須美が、耐えかねて、野々宮に声をかけた。そのおかげで緊張が少し解れたのか、野々宮はニッコリと微笑む。

「そう言われると……、確かにそうね。何だか急にたいしたことでもないように思えてきたわ。ありがとう那須美君」

「……お、おう。そりゃよかったぜ……うん。……何だか釈然としないけど」

 僕らに見守られる中、野々宮は刀をもう一度強く握り直す。そして見えない何かに祈るように、野々宮はゆっくりと目を閉じた――

しばらく経ってからおそるおそる目を開ける――すると、野々宮の真っ白な手の中で、刀は見事に和弓に変わっていた。

「すごい……。これが……検閲……」

「悪いけど関心している暇はない。次はこっちの鞘だ」

「ええ……、やってみるわ」

 一度成功して自信がついた野々宮は、今度はすぐに鞘を矢に変える。僕が追加で那須美の金棒を渡しても躊躇うことなく、同様に矢に変えた。

どうやら、野々宮はこれからやることをすでに理解しているらしい。二本の矢はどちらも競技用の矢ではなく、矢尻が鋭く尖ったものになっていた。

「……本当に大丈夫なのか?」

 篠倉が顔を寄せてきて、野々宮には聞こえないぐらいの声でそっと僕に耳打ちした。

「君は野々宮さんが母体を討つことに期待しているのだろうが、そう上手くはいかないと思うぞ。足場は決してよくないし、矢も二本しかない。あまつさえ、動きまわる的を一瞬のタイミングを計って狙い射つことなんて、そうそうできることではないだろう。というか、普通に無理だと私は思う」

 確かに篠倉の言うことはもっともだ。それだけの悪条件の中、矢を的中させることは師範代クラスの人間にだって難しい。ましてや野々宮は、ただの高校生。部活レベルの弓道で、決して強い選手というわけでもない。奇跡でも起きない限り、野々宮の矢が母体を捉えることはないだろう。

 だがしかし、それはあくまで現実世界での話。夢の中では――そのような道理は通用しない。

「大丈夫だ、勝算はある。確実ではないけれど、これが最善手なはずだ」

「ならいいんだが……」

 僕と篠倉の見守る先には、なるべく足元が平坦になるように、転がっている瓦礫をどけている野々宮がいた。那須美も一緒になって、それを手伝っている。

「ちょっといいか?」

 作業が終わるのを待って、僕は野々宮に話しかけた。

「……何かしら?」

 野々宮はこちらを向かずに、揺れる水面を見つめながら返す。

 遠くの方で大きな波が立ち始めている。どうやら、もうそれほど時間は残されていないらしい。

「さっきはああ言ったけど……、こんな責任重大なことをお前一人に任せてしまって、すまないと思ってる。本当なら僕も最後まで手助けしてやりたいんだ。だけど今は……、お前に頼るしかない状況だからな」

 言うと、野々宮は呆れたように苦笑する。

「あら、本当にさっきと言っていることが全く違うわね。もっと自分の言葉に自信を持った方がいいと思うのだけれど」

そして、「……ま、それが悪いことだとは私は思わないけれどね」と――優しく微笑みながら、ぽつりと小さく呟いた。

野々宮の意外な言葉と表情に、僕の心臓が小さく跳ねる。

一瞬自分が何を野々宮に言いたかったのか忘れそうになってしまったが、慌てて思い出して、その鼓動を誤魔化すように僕は言った。

「いろいろと心配なことはあるだろうし、ひょっとしてダメで元々みたいな諦めの気持ちもあるのかもしれないが……安心しろ、お前の矢は必ずあたる」

「……そ。どうしてそう言いきれるのか分からないけれど……。ま、やってみるわ」

 野々宮は両足を大きく開いて構えをとり、重心を腰に置きそこに上体を乗せる。さらに丹田に力を加え呼吸のリズムを整えると、全身のブレが消える。素人目にも、美しい立ち姿に映った。

「……来る」

 野々宮が呟くと同時に、遠くの水面が逆巻き始めた。やがてそれは渦となり、水上に浮かぶ瓦礫をまるで蛇のように呑みこんでいく。

「……あなたの言葉、信じるわよ」

 呼吸と共に矢が引かれ、大きくしなる弓。そしてゆっくりと、野々宮は目を瞑った――

「野々宮さん? それはさすがにマズ――もごっ……!」

 僕は、驚く那須美の口を無理やり押えて黙らせた。本人がそれで落ち着けるというのなら、僕らが口を挟む必要はない。

 その場は静謐な空気に包まれ、ただ波の音だけが辺りに響き渡る。

 ふと、空気がわずかに震えたような気がした――


「射ちますっ……!」

 矢が野々宮の手元を離れるとほぼ同時に、母体が――渦の中心から母体大きくくねらせて、まるで天へ昇るように現れた。

 矢の軌道、母体の頭、それら二つが見事に重なって、野々宮の放った矢は母体の眼を穿ち、脳髄を引き裂き、頭の反対側の皮膚から飛び出した――

「やった!」

 的中を確認して、思わず僕は感嘆の声をあげる。しかし野々宮はと言えばそんな僕には目もくれず、さっと二射目の矢を継いだ。

「シャァァァァァァァァァァ!」

 本来、声帯の無いはずの蛇が悲鳴をあげながら、水面を蹴散らして悶える。

 その所為で余計に波が立ち、水が跳ね上がる。母体が暴れまわるのも相まって、そうとう狙いをつけにくいはずだ。

 だが野々宮は、

「あなたがさっき言ったことの意味、やっと分かったわ」

 妙に落ち着き払って、また目を瞑り、そして矢を放った――

 放たれた矢は、行く手を阻む波の網目を通り抜け、母体のもう一方の眼を確かに貫いた。

 まるで矢の通り道が見えているかのような素晴らしい射に――僕はただ息を呑むだけだった。

「そうよ、見えたの。矢の通り道がね」

 母体が天に腹を向けて沈んでいくのを見ながら、野々宮はそっと弓をおろした。


 九


 翌日、昼休み――

 僕の机は、購買の菓子パンと二つの弁当箱に占領されてしまっていた。

「いやぁそれにしても……、昨日は大変だったな。なんかまだ疲れが体に残ってる気がするわ……」

 那須美はさっきからずっとこの調子でグチばかりだ。だが、それは無理も無い。

聞くところによると那須美は、朝起きると自分の体に毛布がぐるぐると巻き付いていたと言うのだから、寝覚めはさぞ悪かったことだろう。

「私も……、しばらく蛇のことが忘れられそうにないな……。夢にでも出てきそうだ……」

「ま、夢に出てきた結果があの夢魔なんだけどな」

 言って僕は、購買で買ってきたパックのオレンジジュースに口をつける。

 ふと、あることが気になって僕は、ストローを咥えながら呟いた。

「……なんでそれが蛇だったんだろうな?」

「あ? どういう意味だ?」

 那須美が、「いきなり何言ってのお前大丈夫?」みたいな感じで聞き返した。正直、軽く殴ってやろうかと思った。

「篠倉。前にお前、夢は無意識から意識へのメッセージみたいなもんだって言ってたろ?」

「ああ、確かに言ったが……それがどうかしたのか?」

 篠倉は僕の言いたいことが分からなかったのか、首を捻る。

「夢魔だって一応は夢の一部なんだ、何か意味があってもおかしくないと思わないか?」「それはまぁ……、そうだな。確かに」

 今までそんなことは考えたこともなかったと、篠倉は頭を捻る。すると、那須美が横からちゃかすように口を挟んできた。

「俺は蛇っていうと、なんとなく性格の悪い女のイメージがあるぜ」

「……性格の悪い女、か」

 確かに蛇には、女の嫉妬のイメージがついてまわることが多い。怪談や妖怪関連の逸話には、そんな話をいくつも聞いたことがある。

 例えば――蛇帯。これは女の嫉妬心が帯に憑りつきやがて蛇のようになると言われている妖怪だ。

「蛇帯と言えばこんな一節があるな。人帯を藉きて眠れば蛇を夢む――早い話、枕元に帯を敷いて眠っちゃうと蛇の夢を見るよということだ」

「へー……。篠倉さん、よくそんなこと知ってんな」

 篠倉の話を聞いて、那須美が感心するように言った。

 そういや以前篠倉は、夢について関わるものを片っ端から調べまわったことがあるんだったな。おそらくその中に蛇帯の話もあったんだろう。

「妬める女の三重の帯は、七重にまはる毒蛇ともなりぬべし――おそらく他の弓道部員たちは、野々宮さんに嫉妬していたのだろうな。先生や先輩からの信頼、それだけは実力や成績だけでは決して手に入らないものだから」

 弓道部員たちの嫉妬心が、野々宮さんの夢の中に蛇を生んだのだと、篠倉は続ける。

蛇――すなわち(じゃ)。蛇帯とはそのまま、邪体のことだ。

「……俺らの夢魔も、何か意味があったりするのかな?」

「さぁ……、どうだろうな」

 那須美の悪夢も僕の悪夢も、篠倉だって過去に僕らと同じように悪夢を見たんだろうけど、それはもう全部終わってしまったことだ。今さら考えたって仕方がない。

 そう思って僕は話を切り上げようとしたのだが、

「……ん? おい荻村。なんか呼ばれてるみたいだぞ」

 と那須美が、教室の扉辺りを顎で指した。

 見ると、クラスメイトの女子が控えめに手招きをしている。

「……僕?」

「君以外に誰がいるんだ。早く行ってあげろ」

 篠倉に言われて慌てて駆け寄ると、その女子生徒は扉の外をちょいちょいと小さく指差した。

「荻村君にお客さん」

「僕に? いったい誰が……」

 廊下の方を覗くと、そこに立っていたのは野々宮扇だった。

 野々宮は確かめるように僕を一瞥したあと、その女子生徒に「ありがとう。助かったわ」と礼を言って、それからまた僕の方へと視線を戻す。見定めるようなその鋭い眼光に、僕は思わずたじろいでしまう。

「……よ、よう。その後、調子はどうだ……?」

 その後も何もあれからまだ一日も経過していないのだが、そんな言葉が口をついて出た。

 野々宮はなぜだか安心するようにため息をつくと、それに答える。

「全快とはいかないけれど……、以前よりも体が軽くなったような気がするわ。あと一週間もすれば、元の調子を取り戻せると思う」

「別にあと一日休んだところでそうたいして変わんないだろ。てっきり僕は今日一日ゆっくり体を休めて、また明日から学校生活に戻るもんだとばかり思っていたけどな」

「そのつもりだったのだけれどね。どうしても一つ確認しておきたいことがあって」

 確認しておきたいことってのは……、やっぱり夢世界のことだろうな。

「そのことなら篠倉が説明しなかったか?」

 今回は電話をするまでもなく篠倉が野々宮の家に泊まっていたので、昨夜見た夢の話を野々宮と共有するだけで十分だと思っていたのだが、そうではなかったのだろうか?

「ええ。朝、篠倉さんからいきなり核心に迫るようなことを聞かされて驚いたわ。でもそれだけだとただの偶然や当てずっぽうということも有り得なくはないから、あなたたちにも確認をとっておきたいと思ったのよ。……ま、その感じだと昨日の出来事は単なる夢だってことはなさそうだけれど」

「……何て言うかお前、すっげぇ頑固なやつだな」

 言うと野々宮は、「よく言われるわ」と鼻を鳴らした。や、そんなことで得意げになられても困るんだけど。

 ふと思い立ったように、野々宮が尋ねてきた。

「……そう言えばあなた、あのとき私が絶対に矢を外さない確信めいたものがあったようだけれど……それはなぜかしら?」

「それはアレだ。お前、自分のことを空気が読めない人間だと言ってたろ? 察しが悪いとか何とか。それって裏を返せば、お前はそういう人間になりたかったってことなんじゃないかと思ってな」

「……それってつまり、どういうこと?」

「ビジョンだよ、ビジョン。ビジョンは自分が思い描く理想の力だって篠倉が説明したろ? お前のその理想ってのが、察する力なんだよ」

 野々宮は自分のことを――空気の読めない、察しの悪い人間だと自嘲していた。それは裏を返せば、自分が周りの空気に敏感な人間だったならこうはなっていなかっただろうという後悔の表れだ。

 自分の意地を頑として貫く野々宮は、他人の意思を理解できる人間になりたかったのだ。だから野々宮のビジョンは――察する力なんだ、と僕は思う。

「相手がどこから来るのかどこにどのタイミングで射てば矢があたるのか察せるんだから、外れるわけがないだろ?」

 野々宮は僕の推論、っていかほぼただの勘みたいなもんでこじつけもいいところだったのだけれど、それを聞いてしばらく考える。

 それから、納得したように頷いて言った。

「ダメ、そんなオカルトじみたことはいくら考えても私には理解できそうにないわ。そんな無駄なことに時間をさくより、弓道部の改革に頭を使った方がよほど有意義ね」

 野々宮らしいその言い様に、僕はちょっと笑ってしまう。

 僕にも夢世界の摂理についてはいまいちよく分からないが、野々宮扇のことは少し分かった気がした。

「……とは言うものの、弓道部の立て直しに加えて生徒会の仕事もあるし、放課後のことを考えると気が滅入るわね……」

「や、弓道部のことなら心配はいらないと思うぞ」 

「……?」

 野々宮がキョトンとした顔を浮かべてまた分からなさそうにするので、僕は言ってやった。

「これはさっき篠倉と話しているときに思いついたことなんだけど……。お前、星座については詳しいか?」

「まぁ人並みには……」

「じゃあ、蛇つかい座のアスクレピオスの話は聞いたことあるか?」

「ええ、知っているわ。確か死人を蘇らせるほどの医術を持った彼は、ゼウスに罰を受けて星になったのよね? その星が蛇つかい座で、蛇はアスクレピオスの化身、または象徴と伝えられてるようになったとか……」

「そうだ。そしてアスクレピオスをそこまで育てあげたのが、他でもないケイローン、つまりいて座なんだよ。要するにだ、何が言いたいかと言えば……」

 さっきも言ったように、これはただの思いつきのこじつけなのだけれど――少しでも野々宮の肩の荷がおりればと思って、僕は続けた。

射手(いて)のお前が蛇の部員たちを立派に育てあげるってことだよ」

 僕が無理やりそう締めくくると、野々宮の表情がくすっと綻んだ。

「……何それ、ただの屁理屈じゃない。しかも、その理屈でいくと弓道部の子たち、最後には星になっちゃうし」

 野々宮はおかしそうにそう言ってから、教室の中に入っていく。

さっきから気になっていたが、野々宮はずっと後ろ手に弁当袋を下げていたので、たぶん最初から篠倉たちといっしょに弁当を食べるつもりで来たのだろう。

「まぁでも……嫌いじゃないわよ、そういうの」


 ――野々宮とのすれ違い際、そんな言葉が耳に残された。

 これはあとで気づいたことだけれど、野々宮の弁当箱の中身は――僕が篠倉から渡された弁当のおかずと同じものだった。



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