蛇寄せの嚆矢 1/2
第三夜 蛇寄せの嚆矢
一
五月も中旬に差し掛かり、久しぶりの雨がこの町を包んだ。
その雨音はしとしとというよりはざーざーといった感じで、いつもならはっきりと聞こえてくる吹奏楽部の無秩序な旋律も打ち消されている。
放課後――僕は雨が地面を打つ様子を窓から眺めながら、いつもの特別教室である人物のお説教を受けていた。
「荻村君、今日はなんでここに呼び出されたか分かってるよね?」
座頭橋先生の声音はいつもとは違い、ややトーンが低かった。
同様に、僕のテンションもこの雨のおかげで頗る低い。
「あー……、たぶん進路調査票のことですかね?」
僕は窓の外に向けていた視線を、目の前に座っている先生に移して答える。
先生は無言で頷くと、諭すように僕に言った。
「君以外の調査票はもうみんな出そろってるの。難しいことだから本当はもっとゆっくり考えてって言いたいところなんだけど、もうとっくに期限も過ぎちゃってるし、これ以上遅くなると進路主任の先生にご迷惑をおかけすることになるから……」
言われてみれば、進路調査票を配られてからもう軽く二週間は経っているな。
それだけの時間が経過しているのであれば、逆にもううやむやにしてしまってもいいんじゃないかという気さえしてくる。
さすがにそういうわけにもいかないので、先ほど座頭橋先生から再び渡された進路調査票の空欄をなんとか埋めようと頭を捻るのだが、不思議なことに全く何も浮かんでこない。
「まだ二年の五月で受験までは期間があるし、今はそう難しく考えなくてもいいんだよ。とりあえず、県内の無難な国立にしておけばいいんじゃないかな?」
そう、城野学園高校は進学校なので、進路といえば無条件で進学ということになる。
しかし僕の場合はその特殊な家庭環境から、国立にしろ私立にしろ、学費や受験勉強に掛かる費用を捻出することが難しい。父親に連絡がつかないこともないので、その費用について相談することもできなくはないが……、何だかそれは憚られる。
もちろん進学校だからといって就職が許されていないというわけではないのだろうが、さりとて就職となった場合、誰からも就活についてのアドバイスを受けることができない。
就職について何の知識もない僕が、単身で仕事を探したところでうまくいくはずがないというのは分かりきっていることだから、これについてもいまいち決め兼ねる。
僕の進む路はどの路にも大きな壁が立ち塞がっていて、八方塞がりだ。そんな状況でさっさと進路を決めろと急かされても、こちらとしてはどうしようもない。
僕がシャーペンでトントンと机を突っついているのを見て、先生は困ったようにため息をつく。それから僕にこんなことを言った。
「荻村君には将来の夢ってある?」
「夢、ですか?」
「そう、夢。ただ単にどこの大学に行くのだとか、どこの会社に就職するのだとかじゃなくて、自分の夢を叶えるための道のりが進路ってことだと私は思うの。だから、荻村君の将来の夢を一度考えてみればいいんじゃないかな?」
……将来の夢、か。
そんなこと今までに一度も考えたことはなかった、ってことも実はない。僕だって小学生くらいの頃には、自分の夢やこうなりたいっていう将来像みたいなものがあった。
でも、段々と大人に近づくにつれて現実を知っていって、そんなものは空想的なファンタジーに過ぎないと思い知らされた。学校の教科に『現実』って科目があったら余裕で学年トップの成績を叩きだせたていたことだろう。
それに今の僕には、夢を語って前に進めるほどの余裕はない。今このときをしっかりと踏みしめて踏ん張って生きることが精いっぱいで、前を見ることすらできない。
「……やっぱり今すぐに結論を出すのは難しいですね。今はとりあえず近場の大学に進学ってことにしておいて……、あとから変更するってのは構いませんかね?」
「大丈夫だよ。進路調査はこの一回限りじゃないからね。三学期にまた調査するらしいし、最終的に進路を決めるのは三年になってからだから。それでも生徒が進路についてどの程度の意識を持っているか確認しておきたいから、やっぱり進路調査票は提出してもらわないと困るんだけどね」
「そっすか。んじゃまぁ、適当に県内の国立大学書いて出しましょうかね」
僕は殴り書きで調査票に大学名を書いてから先生に手渡す。先生はそれを受け取ると、クリアファイルにしまった。
「そうだ。話は変わるけど荻村君。最近、那須美君と仲いいよね? あれから何かあったの?」
あれからというのは、那須美のことについて先生に相談したときのことを指しているのだろうか?
まさかバカ正直に夢世界のことを話すわけにもいかないので、僕は適当に話を誤魔化す。
「いや別に何があったってわけじゃあないんですけれど……、でもまぁ例の悪夢については一応解決したらしいですよ。それでやっと肩の荷がおりてほっとしてるんじゃないですかね?」
「……ふーん。そっかぁ……、解決したのかぁ……」
先生は前髪を弄りながら呟く。
そして、笑って僕にこう言った。
「昔何があったのかはよく知らないけど……、あの子、ずいぶん思い詰めていたみたいだし、これで私も一安心だよ」
「ま、那須美の悩みの種だったのはただの悪夢ですからね。そんなものは時間が経てば勝手に解決することです。先生はいちいち大袈裟なんですよ。その所為で僕もいらぬおせっかいを焼くはめになってしまったんですから……」
実際は全くそんなことはないのだが、しかしこうでも言っておかないと先生の言及を避けることができないので、まぁそこは勘弁してほしいものだ。
ともあれ、当初の目的であった進路調査票の提出は済ませたのだ。雑談に興じるつもりは毛頭ないし、これ以上この教室に拘束される筋合もない。
僕は教室の壁に掛けられている時計をチラリと一瞥し、言外に帰宅を促した。
「……それじゃあ、調査票も出してもらえたことだし今日はもう帰ってもらっても構わないけど……、今後はこんなことがないようにしてください。提出物はきちんと期限日までに提出する、いいね?」
「努力します」
僕はそう一言だけ告げると、鞄を抱えて早々に教室を出た。
二
教室を出て少し先に行ったところにある渡り廊下。そこの窓に肘をついて外を眺めている一人の少女がいた。
最初は篠倉が教室の外でずっと僕を待っていてくれたのかと思ったが、すぐにそうではないことに気がつく。篠倉は今日、定期健診で学校を休んでいる。
それによく見てみると、その少女は篠倉とは全く似ていなかった。
首元まで伸ばされた髪には寝癖がついており、二重のたれ目が彼女を実際の年齢より幼く見せている。何より彼女の気怠そうな雰囲気は、篠倉と言うよりはまるで――いや、さすがにそれは彼女に対して失礼か。
こんなところで何をしているのか気にならないこともないが、だからと言って知らない生徒に声を掛けるというのもおかしな話なので、黙ってその横を通り過ぎようとする――と、不意に彼女が口を開いた。
「――人の夢とはこの雨のように儚いものだ。人の心にひとしきり降り注ぐと間もなくやみ、現実という日差しが後に残った水たまりを干上がらせてしまう。泡沫の夢とはよくいったものだな。お前が将来の夢について路頭に迷うのも無理はない」
「別に路頭には迷ってねぇよ。進路を迷ってんだよ僕は。……ってかなんだお前、僕と先生の会話を盗み聞きしていたのか?」
「もっともお前の場合は雨でも晴れでもなく、深い霧のようなものが心を覆い尽くしているのだろうが。ふふふ……、まさに五里夢中というわけだ」
だめだこいつ……、こっちの話をちっとも聞いてねぇ。
これは真面目に反応するだけ時間の無駄だ。こんな痛い子はほっといてさっさと家に帰ろう。
僕は軽く会釈をしてその場から立ち去ろうとしたのだが、彼女は壁にもたれ掛ったまま僕の行く手を片手で遮った。
そして、飄々と言う。
「おいおいちょっと待ってくれよ、釣れない奴だな。もうちょっと僕の話に付き合ってくれたっていいだろう。そうやって人の話を聞かないのはお前の悪い癖だぜ?」
「……お前が僕の何を知っているんだよ。いいからそこをどいてくれ」
僕が彼女の手を払いのけようとした瞬間――ふわっと、僕の鼻腔を甘い香りがくすぐった。僕の肩には真っ白な手が添えられ、蠱惑的な小さな唇が僕の耳元までそっと寄せられる。そして――零れるような囁き声が、僕の脳髄を舐めた。
「――知っているよ」
「っ……!」
それに驚いた僕は、両手で彼女を突き放してしまう。
けれど彼女は、そんなことはいっさいお構いなしだ。僕との間に開いた距離を一歩一歩詰めながら、なおも続ける。
「二年六組、荻村富士。お前のことを僕はよぉく知っている。お前はどうだ? 僕のことを知っているか?」
「………………」
僕はその問いに無言をもって答えた。
「そうか、なら教えてやる。僕の名前は白日芙蓉。生徒会副会長を務めているお前と同じ二年生だ。よろしくな」
「……生徒会副会長? その割に僕はお前のことを見たことも聞いたこともないぞ」
「そりゃそうさ。お前は選挙演説の時間、保健室で居眠りをしていたからな。投票も信任投票だったから適当にまるつけて終わりだ。僕のことを覚えていないのも無理はない。……仕方がないとは言わないがね」
……確かに僕は生徒会役員選挙があった日、演説を黙って聞いているのが億劫だったので、体がだるいとか何とか言って集会をバックレた。
しかし、なぜそれをこの白日とかいうのが知っているんだ? こいつは生徒会副会長らしいが、それならばこいつも他の役員と同様、集会で演説をしていたはずだ。故に、彼女には僕が保健室でさぼっていたことを知るすべはない。
「……お前、いったい何者なんだ?」
僕が問うと、彼女は手を顎にやって少し考えたあと、不気味な微笑みを浮かべて言った。
「その問いに答えるのは簡単だが、それでは少しばかり情緒に欠けるというものだ。……そうだな、僕の頼みごとを一つ聞いてくれれば何でも好きな質問に答えてやるがどうだ?」
何でも? いや待て、それはあれか? 法律や条例に引っかからない範囲でなら何でもという意味か? それとも言葉通りの意味での何でも、すなわちセクハラまがいのことまで何でもお聞きしちゃってもよろしいということなのか? 前者と後者では大きく話が変わってくるし、あとから話が違うということになってもいけない。それだけははっきりさせておかなければ……。
いやそうじゃない。確かさっきまで真面目な話をしていたはずだ。ここらで閑話休題といこう。
僕は一つ咳払いをしてから、彼女に尋ねる。
「……で、お前のその頼みごとってのは何なんだよ? それを言わずに交渉のテーブルにつこうってのはフェアじゃないぞ」
「おっと、こいつは失礼した。僕はどうにも人に頼るということが苦手でな。ま、許してくれ」
白日はそう言って僕の肩をぽんと叩く。どうでもいいけど、初対面のくせにさっきから馴れ馴れしい。馴れ馴れしいと言えば篠倉や那須美もそうなのだろうけど、彼女らとはまた違った種類の馴れ馴れしさだ。
「それで僕の頼みごとというのはだな、有体に言えば生徒会行事のことだ」
「生徒会行事? なんでそんなものをわざわざ初対面の僕に頼むんだよ。お前ら生徒会で勝手にやればいいじゃないか」
「それがそうもいかない事情がある。来月、この学校で何があるかお前は知っているか?」
来月っていうと六月だな。去年の六月頃の学校行事といえば確か……。
「……文化祭か」
ここ県立城野学園高校では、六月の中頃、地元自治体や有志団体の力を借りて三日間に及ぶ大規模な文化祭が開かれる。
全てのクラスがみな一様に模擬店を出展し、体育館では有志団体のバンド演奏やサッカー部による漫才大会S1グランプリが開かれる。また、一般客の参加も認められているので、当日は人でごった返すことになりうるさいくらいの賑わいを見せる。
まさに、城野高校きっての一大イベントというわけだ。
「それで文化祭を運営するにあたって人手が必要ってことなのか? でもそれだったら、実行委員が各クラスから一人ずつ集められるはずだろ? 何も、わざわざ僕が手伝う必要はないんじゃないか?」
「まぁ、お前の言う通り実行委員は実行委員でまた別に集められる、が――問題は生徒会役員の方にあるんだよ」
「……なんだよ、生徒会のやつらが揃いも揃って役立たずとかそんなか?」
白日のいちいち回りくどい物言いについイライラしてしまい語気が強くなってしまうが、彼女はそんな僕の様子などどこ吹く風にそのままの調子でのたまう。
「いや、そういうわけじゃない。生徒会役員の一人が、最近学校を休みがちになってしまっていてな。生徒会に一人、欠員が出ているのさ。その穴埋めをお前にはしてもらいたい」
なるほどな、そういうわけか。
いくら実行委員が集められると言っても、この文化祭は生徒会が主体となって運営されるものだから、そこに欠員がでると指示系統の一角が麻痺をすることになる。そうなると、当然他の役員にその分の負担が掛かるわけで、生徒会はてんてこまいになるはずだ。
指示以外の業務も然りだ。特に地元自治体や有志団体など関係各所への打診は人手が少ないとなかなか進めることができなくなる。全体を把握することが困難になり、対応が遅れるからだ。
パッと思いついただけでもこれだけある。文化祭運営のため、実行委員以外にも協力を募る理由としては十分すぎるだろう。
だがしかし、それで僕が手助けをしてやる理由にはならない。
ならないのだが……。
「お前が今、何を考えているのか当ててやろう」
彼女は、人差し指を僕の額にあてがって言った。
「その顔は、この僕がわざわざ手助けをしてやる理由はないとか何とか、そんなことを考えている顔だ」
……これだ。この知ったような口が、僕の判断を狂わせる。
「……お前の頼みごとを聞けば、どんな質問にでも答えると言ったよな?」
「ああ、言ったよ」
「……分かったよ。お前の頼みごと、聞いてやる。生徒会でも何でも手伝ってやるよ。ただし、無事に文化祭が終わったそのときにはお前が何者なのか答えてもらうぞ」
「いいよ。約束しよう」
白日はさして驚く様子も見せずに、僕がそう答えることを分かっていたかのように、ただクスリといたずらっぽく笑うだけだった。
僕らの教室がある校舎から一旦外に出たところにある、文化部の部室が集まった古臭い木造建築の、湿気の所為かどこか重苦しい空気が漂う旧校舎。そこの入り口近くにある生徒会室へと、僕は白日に連れられてやってきた。
彼女はノックも無しに生徒会室の扉を開くと、ずかずかとその中に入っていった。
「何をしているんだ? 遠慮はいらないから、さっさと入れ」
白日に促され、僕は「失礼しまーす……」と軽く挨拶をしてから中に入った。
生徒会室は、僕が想像していたものよりずっと殺風景なものだった。普通教室ほどの大きさの部屋には無駄な物がいっさい無く、非常にさっぱりとしている。
部屋の角にはスケジュールの書かれたホワイトボードがあり、その隣には様々な備品が収納されている大きな棚と役員それぞれのロッカーがあった。部屋の中心にある折りたたみ式の長机を四つ組み合わせて作られた長卓には、生徒会役員と思われる三年の男子生徒が二人いたが、どうやらこちらに気づけるほどの余裕はないようだ。一人は書類整理、もう一人は電卓を使って必要経費の計算に追われていた。
そして何よりこの部屋に入って真っ先に目についたのが、生徒会室の上座に位置するデスクでパソコンを使っている、メガネをかけたオールバックの男子生徒だった。
「会長、つい先日から欠席している書記の代理を連れてきたぞ。文化祭が終わるまでの一か月間、ここで僕らの手伝いをしてくれるそうだ」
「ども、荻村富士です。よろしくお願いします」
白日にそう紹介されてまさか黙っているわけにもいかないので、とりあえず僕は名を名乗る。するとその男子生徒はこちらへと視線を向けて、目を細め僕を見分するようなしぐさを見せた。
「……ふん。そう言えばそんな話もあったな。俺一人いれば全て事足りるというのに……」
男子生徒は不服そうにそんなことを呟くと、パソコンをパタリと閉じて、今度は白日の方を向いてから言った。
「副会長、目上の者と話すときには必ず敬語を使えと何度言わせれば気が済むんだ? 学生のうちはそれで通用するかもしれんが、社会に出ればそうはいかない。関係各所へのご挨拶のときにはそのようなことが無いように肝に銘じておけ」
「努力しよう」
白日の態度に苛立ったのか、彼の左目の目じりがピクッと動く。
自覚があるかどうかは分からないが、どうやら彼は感情が表情にでやすいタイプの人間らしかった。
「……まぁいい。おい、荻村とかいったな」
中指でメガネをくいっと押し上げながら、男子生徒は僕を睨む。
「俺は生徒会長の煙草谷光揮だ。まぁ初対面とはいえ、俺は君が一年の頃からずっと生徒会長を務めているからな。一応、俺のことは知ってはいるはずだ」
いや知らん。初めて見た顔だ。
「最初に断っておくが、君には他の役員と同様に仕事をしてもらう。いくら経験が無いからといって、できないやらない分からないは許さないからそのつもりでいろ」
えー……。好意で手伝ってやるのに何なのその扱い? いくらなんでも真っ黒すぎるでしょ。ブラック企業の方が、給与が出るだけまだマシなレベル。
とは言え、ここまできて今更断るわけにもいくまい。とりあえず、今のところは首を縦に振っておこう。
嫌な仕事を断る権利すらないなんて学校ってのはつくづく社会の縮図だよなぁ……。
「さて、本来であれば早速君の働きぶりを見せてもらうところなのだが……、残念ながらすでに日も傾いて完全下校の時間が近づいている。そういうわけで今日はもう帰ってくれても結構だ。明日、放課後に定期ミーティングが開かれるからそのときにまた来てくれ」
言われて窓の方を見てみると、分厚い雲の所為でほとんど真っ暗だった。大雨で視界も悪いし、さっさと帰った方が無難だろう。
「そっすね。ここに残っていても仕方がないし、僕はお先に失礼します」
生徒会室から立ち去ろうとしたそのとき、壁に掛けられたある写真が目に付いた。
生徒会役員一同が写っている写真、そこに見覚えのある人物がいた。
「煙草谷先輩、帰る前に一つだけ質問してもいいですか?」
「……なんだ? 手短に頼むぞ」
「欠席している生徒会役員って……、この人ですか?」
僕はその写真に写っている一人の女子生徒を指さして尋ねる。
「ああ、そうだ。君らと同じ二年の、野々宮扇という人物だ。なんだ? 彼女と知り合いなのか?」
「ええまぁ……中学が一緒だったんで」
艶やかな黒髪をうなじの辺りで一本に束ねた、釣り目で涼しい顔立ちの女子生徒。
間違いない、彼女だ。
あいつ……、生徒会に入ってたのか。確かに昔から人に頼られるタイプの人間ではあったが……。
「聞きたいことというのはそれだけか?」
「あっ、はい……。すいません変なこと聞いちゃって。失礼します」
あまり長居しても先輩たちに悪いので、僕は今度こそ生徒会室を後にした。
「彼女のことが気になるみたいだな?」
扉を開けてすぐそこに、不敵な笑みを浮かべた白日が僕を覗いていた。
「……白日っ! お前いつの間に……」
「お前が写真に気をとられている隙にだよ。驚かしてやろうと思ってな」
口元を押さえながらけたけたと笑う白日。
彼女が楽しそうで僕は何よりです……。
「気になるっていうかまぁ……、アレだ。あいつ、中学んときからずっと弓道やってたからな。高校でも弓道部に入ったと思ってたんだよ」
「いや、お前の言う通り彼女は確かに弓道部に入部している。しかも、そこの部長を務めているそうだ」
「ん? なんだこの高校、生徒会と部活を兼ね持っても大丈夫だったのか? 今まで生徒会になんて興味がなかったから知らなかった」
「一応、兼部を禁止している校則はない。ただ、部活動と生徒会を両立させることは難しいからな、それが許されないような風潮はある。現に、彼女は部活動内で風当りが強いそうだ。教師陣からの評判は良いんだけどな。彼女、成績は優秀だし」
「ふーん……。ま、ちょっと気になっただけで別にどうでもいいんだけどな。……それじゃあ白日、僕もう帰るから。また明日、生徒会でな」
僕は白日にそう告げて、さっさと帰路につこうと白日に背を向ける。すると白日は、くるりと僕の目の前に回り込んでまたぞろ不気味に微笑んだ。
「ここまで付き合ってくれたお礼に、お前に少しヒントをあげよう」
……ヒント?
「彼女がここ最近学校を休んでいる理由――それはな、『不眠症』だ」
「……え? おい! お前今、何て……」
僕は白日に問い詰めようと詰め寄るのだが、それを彼女はするりと躱して言う。
「そうだ。これから僕のことは白日じゃなくて芙蓉と呼んでもいいぜ。お前に苗字で呼ばれるのは……、なんだか心地が悪いからな」
彼女はそれだけ言うと、てててと廊下を駆けていった。
あとに残された僕は、消化しきれずに胃酸が喉を逆流したときのような不快感に苛まれていた。
三
昨日からずっと考えを巡らして、巡らしたけど何もまとまらなかった翌日の昼休み。
まわりのやつらがさっさと弁当を用意している中、僕は机にうな垂れてぼけっーと昨日のことを思い出していた。
進路のこと――白日芙蓉のこと――生徒会のこと――野々宮扇のこと。いろいろありすぎた所為で、様々な感情が頭の中で交錯して中々結論には至らない。
……こういうときは、少し落ち着いて整理した方がいい。結局、今の自分が真っ先に考えないといけないことは何なんだ? まずそれを検討しよう。自分にとっての優先順位をそれぞれに付けていくんだ。
まず進路についてだが、それについては今考えても答えが出る気がしないし、今すぐに結論を出す必要も無い。よって保留。
そして白日芙蓉についてだが、彼女には謎が多すぎるから考えたところでどうにもならない。だから、生徒会の業務を手伝えば僕の質問に何でも答えるという提案に乗ったわけだしな。とりあえず保留。
では、今から放課後の生徒会のミーティングに備えるというのはどうだろうか? いや、それも他二つと似たようなものだ。なぜなら僕は、生徒会業務をするにあたっての何の資料ももらっていなければ、自分が何をすればいいのかさえ教えてもらっていない。これでは備えようにも備えようがないので、ぶっつけ本番でミーティングに挑むしかない。これも保留。
では野々宮扇についてはどうだろう?
野々宮扇――偶然にも中学の三年間ずっと同じクラスだった女子生徒。僕の記憶では確か、野々宮は三年間続けて委員長を務めていた。ただ前にも言った通り、人から頼られることが多いタイプの人間だったので、自分から立候補したというよりは周りのやつらに煽動されて仕方なく委員長になった――そんな感じだった。
教師陣からの評判が良いと白日は言っていたが、今回も人に勧められて生徒会役員に立候補したのだろうか?
「しかし、不眠症ねぇ……。あいつにもやっぱりストレスみたいなもんがあんのかな?」
僕は手元にあったシャープペンシルをクルクル回しながら視線を宙に投げる。
するとちょうど教室に、小さな手提げかばんを後ろ手に隠すようにして持った女子生徒が入ってくるのが見えた。……うん、まぁ篠倉なんだけどね。
篠倉は教室をざっと見渡して僕を見つけると、大袈裟に右手を振ってこちらへ寄って来る。そのおかげで僕は教室中のみんなの視線を独り占めしてしまった。
ははは、人気者だなー僕。んなわけない。
「や、トミシ。一日ぶりだな」
言いながら、篠倉は開いている椅子を傍まで持ってきてそこに座る。
「何お前、突然どうしたの?」
「トミシ、昨日一日私がいなくてさぞ退屈していたことだろう」
「いや別に……、割とそんなことはなかったけどな」
逆に昨日はいろいろとありすぎて、あっという間に時間が過ぎていったような気さえする。
「まーた、強がっちゃって。君にとって、親友の私がいない学校生活など灰を噛みしめるように空虚なものだろう? まったく、素直じゃないんだからなぁ君は」
え、何こいつ。ウザいこわい。
定期健診とはこんなにも人を変えてしまうものなのか……。更生施設か何か?
「で、そんな君に少しサプライズを用意したんだが……、これだ」
篠倉はそう言って手提げかばんをドンと机の上に置くと、その中から可愛らしい包みを出した。
「実を言うと、検診は午前中に終わってしまってな。その後何もすることが無くて暇だったんで、久々に料理をしてみたんだ。それで君がいつも購買でお昼を買っていることを思い出して、弁当を作ってきたというわけだ」
言われて包を開けてみると、確かにお弁当が入っていた。
……使い捨ての折箱だったが。
「これなら相手に弁当箱を洗わせる気遣いをさせなくて済むしな。軽いし大きいから実用性にも富んでいる」
いやお前確かに実用性はあるかもしれないけどさ……。その分他の、色気や情緒はカケラも感じないよな……。いや別にいいんだけどさ。
「ま、箱の話はどうでもいいさ。問題は中身だ。さ、早速食べてみてくれ」
「お、おう。そんじゃまぁ……、いただきます」
僕は弁当箱からいったい何が出てくるのかと内心恐ろしかったが、意外にもその中身は見栄えのいいものだった。
玉子焼きに鶏の唐揚げとオーソドックスなものに加え、ミニトマトの中身を少しだけくり抜いてそこに小さく刻んだチーズとレタスを入れたサラダ、ツナと水菜の和風パスタや、ハムで巻いたポテトサラダと、見た目にも鮮やかで実に手の込んだものだった。
おかずを作るのに夢中になっていたのか、心なしかご飯のスペースが少なくなっているのも、まぁ彼女らしいといえば彼女らしい。ホント、これで弁当箱が折箱じゃなければ完璧なんだけどなぁ……。
僕はまず、弁当のおかずの中でも割と好きな玉子焼きに箸を伸ばす。
これは僕の持論だが、その人の料理の腕はその人が作った玉子焼きを食べれば分かる。 いや、僕は別に料理ができるってわけじゃないから分かんないんけど。何となくね。
「……うん、まぁ普通にうまいな。家庭的な味で良いと思う」
「ふふん、だろう? 私は小さなときからずっと母さんに料理を教わっていたからな、かなりの腕前だと自負している」
篠倉は得意げにそう言うが、おそらく上手くできているかどうか内心では不安だったのだろう、机の下で小さくガッツポーズをするのが見えた。
「……ってか、アレだ。ジロジロ見られてると食いにくいんだよ。お前もさっさと食え」
ただでさえ衆目の中一つの机で一緒に飯食ってもういろいろとヤバいというのに……、弁当の味が分からなくなるだろうが。
「ああ、すまんすまん。何しろ、家族以外の人に私の料理を食べてもらったのが初めてだったから……。それじゃ、私もいただくとするか」
篠倉が自分の分の弁当箱を開けるのとほぼ同時に、購買に昼食を買いに行っていた那須美が菓子パンをいくつか抱えて戻ってきた。
那須美は教室に入るなり僕らを見て驚いたような顔を浮かべ、こちらへ寄ってくる。
「おーっす、篠倉さん。健診、お疲れ様」
「おっ、那須美君じゃないか。一日ぶりだな」
那須美は僕の隣の席に座ると、そこに買ってきたパンを広げる。
……どうやら、僕らと昼食を共にするつもりでいるらしい。
「お前らが仲良いのは知ってたけどさ、昼メシ一緒に食ってんのは珍しいよな。なに? 二人ってそういう関係だったの?」
那須美は僕に向かって出し抜けにそんなことを言うと、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべる。
そういう関係ってどういう関係だよ。
「お前が考えてるようなことじゃねぇよバカ。あと勝手にそこ座んな」
僕はイラついて、那須美が座っている椅子を軽く蹴る。
那須美はそれをズリ戻しながら、「悪い、冗談だって」と平謝りした。
「珍しいといえば荻村、お前、今日は弁当なんだな。ちょっともらってもいいか?」
「嫌だ」
「いいじゃんか別によー。一口、一口だけだからさ、な?」
「無理だ」
「そこまで頑なに拒否らなくてもいいだろ……」
にべもなく僕がそう言うので、那須美は若干引き気味に苦い顔をする。そして、しばらく小声でぶつくさ文句を言ったあと、思い出したように話題を変えた。
「そいやさ、駅の近くに新しいラーメン屋ができたらしいんだよ。放課後にみんなでよってかない?」
メシ食ってるときにメシの話すんのかお前は……。
「せっかく誘ってもらったところ申し訳ないが、私はあまり脂っこいものはダメなんだ。体を壊してからどうも食が細くてな」
「あー……、それなら仕方ねぇな。や、聞いた俺が悪かった!」
篠倉がきまり悪そうに断るのを見て、那須美は少し大袈裟に弁解する。
それから一つ咳払いをして、ついでとばかりに今度は僕に対して尋ねる。
「お前は大丈夫だよな? 放課後、どうせいつもみたいに暇してるんだろ?」
「悪いな。僕は今日、放課後に生徒会の仕事がある」
「「生徒会?」」
篠倉と那須美は声を合わせて驚くと、しばらく互いの顔を見合わせた。
「いやいやいや、その断り方は少し苦しいんじゃないか? あまり学校に出ていない私でも生徒会メンバーは把握しているし、第一、君はそういう委員会に参加するようなタイプじゃないだろう? 生徒会なんて言ってみれば慈善事業のようなものだ。そんな何の利益にもならない、無駄に体力を消費するだけの活動に……君が? ふっ、ありえないな」
どうやら篠倉は、那須美の誘いを断るために僕が嘘をついたのだと思っているらしい。ぶんぶん手を振って、僕が言ったことを否定した。
「それが案外、慈善事業ってわけでもないんだよ。……まぁ確かに、上手いこと乗せられたって感じはするけどな」
「……? 私には君が何を言っているのかさっぱりだ」
「ま、お前には関係のないことだから気にすんな。……あっ、そうだ。そういうわけでしばらくの間は家まで送ってやることができないから」
僕の突き放すような言い方が気に入らなかったのか、篠倉はむっーとふくれる。
すると、その様子を横から面白がって見物していた那須美が、篠倉にぼそぼそと耳打ちをした。
「――で、――だから、―――ってのはどうだ?」
「……ふむ、なるほどな。うん、確かにそれは良いアイデアだ」
篠倉はうんうんと大きく頷きながら那須美の話を聞いている。
僕はそんな二人に訝しげな視線を送り、那須美に一言いってやった。
「……あんまり篠倉に余計なこと吹き込むなよ、那須美」
「あー、分かってる分かってる。心配すんなって。別に何にも企んじゃいないからさ。な? 篠倉さん」
「おう!」
そう返事をする篠倉は何だかやる気に満ち溢れているというか……、何だかバックに轟々と燃え盛る炎が見えてきそうな勢いだった。
四
時刻は午後四時一〇分――掃除終了のチャイムが鳴り、僕は掃除場所の生徒指導室前からさっさと引き上げる。それはこの後に用事が控えているからというより、場所が場所なのであまり長いこと居座る気にはなれないからだ。生徒指導の先生に捕まってしまえば、掃除の甘さを指摘される可能性も無くは無い。……なにそれ姑か何か?
そのまま教室に戻ることなく僕は生徒会室に直行する。
外に出て、旧校舎に続く道を歩いていると、弓道部の連中が少し開けた場所で、所謂ゴム弓と呼ばれる物を使って練習している風景が目に付いた。
しばらく立ち止まって眺めていると、ある不自然な点に気がつく。
と言うのも彼ら、武道場で弓を使って練習をしていない辺りおそらく新入部員と思われるが、指導をしている人間が見当たらないのだ。
彼らは十人ほどで練習をしているのだが、それを取りまとめている者さえもいない。彼らは互いにアドバイスをするわけでもなく、個人が個人の思うように練習をしているし、挙句の果てには、練習に飽きてしまって他の部員たちとお喋りをしている者がいる始末だ。
これでは弓道部の崩壊は目に見えているようなものだ。何せ、あと二年後にはこいつらが部を受け継ぐわけだからな。その頃までに今の体制を見直さなければ、部の存続さえ危ういだろう。現部長の苦労が忍ばれる。
そう言えば……、今の弓道部の部長って野々宮だったな。あいつはここしばらくの間ずっと学校を休んでいるらしいし、それが原因で部内の統率が乱れているのだろうか?
「……おっと、いけない。今はそんなことより生徒会だ」
弓道部の内情なんて所詮僕には関係の無いことだしな。
気を取り直して、僕はまた歩み始める。
彼らが練習していた場所からすぐのところにある入り口から旧校舎の中に入り、廊下に響き渡る吹奏楽部の笛の音に耳を傾けながら僕は生徒会室を訪ねた。
昨日見たばかりの扉を、コンコンコンと――三回ノックする。
すると、中から女性の声で、「どうぞ」と一言。
「失礼します」
僕は律儀にも礼をしながら室内に入ったのだが、中にいた人物はそれにぞんざいに答えた。
「お、やっときたな。待ちかねたぞ」
生徒会室にただ一人、白日芙蓉は会長のデスクの上に脚を組んで座っていた。
「待ってろ。今、茶を入れてやるから」
言って、彼女はデスクから跳び降りた。
「僕はお前のその不遜な態度にツッコミを入れた方がいいのか?」
「おいおい、面白いことを言うな。僕は何もウケを狙ってやったわけじゃないさ。言ってみればそうだな……、今のは僕の会長に対するささやかな反抗だ」
はーん……、こいつもそういう感情をも持つことがあるんだな。いつも飄々とした振る舞いをするもんだから、あまり他人のすることを気にしないタチなのかと思っていた。
ま、あの会長ならそれも分からなくはないな。あの人、周りの人間に対してかなり高圧的だし。
「緑茶と紅茶とコーヒーがあるが、どうする?」
「あー……、じゃ、紅茶で」
「ちょうどいい、僕も紅茶の気分だ。コーヒーは少し苦手だからな」
彼女は、戸棚からティーポットと四つのカップを取り出し、慣れた手つきでティーポットに紅茶の葉と電気ケトルの熱湯を注いだ。
「そう言えば……、今日はお前一人か? 他の役員はどうしたんだよ」
「会議室で実行委員たちとミーティング中だよ。ちなみに、今日はもう生徒会室には戻ってこない」
「……は? おいおいちょっと待ってくれ。確かにミーティングとは聞いていたけれど、会議室で、それも実行委員を交えての会議とは一言も……」
「部外者のお前にいきなり重要な生徒会業務を任せられるわけないだろ。分を弁えろ」
ポットの中をティースプーンで軽く混ぜながら、彼女は言い放つ。
「いや、だってさ……。あの会長、僕には他の役員と同様に仕事をしてもらうとも言ってたぜ?」
「それはアレだ。経験が無いことを言い訳に仕事を断ることはできないって意味だ。早い話が、『俺の命令には絶対服従』ってことだな」
……つまりなんだ、あの野郎は僕のことを都合の良い雑用係と思ってるということか?
あのクソメガネ……、自分を王様か何かと勘違いしてるんじゃないか? 一度、僕が分からせてやる必要があるらしいな……。
「……まぁいいや。それじゃあ何だ。今日の僕の仕事は、文化祭開催に向けての議論をすることではなく、簡単な雑務整理ってことか?」
「そういうことだな。もっと具体的に言えば、各模擬店の企画書類の審査だ。受理したものには生徒会許可印を押捺し、非受理のものは再提出させる。お前の言う通り、猿でもできる簡単な仕事だよ」
「なるほどな。じゃあお前は、その猿の飼育委員に選ばれたってわけだ」
「選ばれたわけではない、僕から申し出たんだ。僕がお前を生徒会に連れてきたんだからな、最後まで責任を持って面倒をみるのは当然だよ」
コ、コイツ……ああ言えばこう言いやがって……、ホント可愛げがないな。減らず口は友達減らすぞ。
思わず苦い顔をする僕はお構いなしに、白日はティーカップに紅茶を注いでいく。そしてそのそれぞれを、またぞろスプーンで軽くかき混ぜた。
「……それよりお前。さっきから気になってたんだけどさ、ティーカップ多いぞ。何杯飲ませる気だよ。胃液まで紅茶になるぞ」
「いや何、そこで見ている客人たちにもふるまってやろうと思ったのさ」
ふふふと笑って、彼女は窓の外に視線を送る。
つられて僕も外を見てみると、窓枠の下から頭だけ出して、見慣れた顔がこちらを覗いていた。しかも二人だ。
「何やってんだお前ら……」
二人は不意に声を掛けられて驚いたのか、ビクッと肩を震わせてからモグラのように頭を引っ込めた。
「そこにいるのはもう分かってんだよ。大人しく出て来い」
僕が言うと、篠倉と那須美の二人はそーっと遠慮気味にまた頭を出した。
二人は誤魔化すように乾いた笑みを浮かべてこちらを見る。
僕は小さくため息を吐いてから、彼女らに再び問うた。
「お前らそこで何してんだ?」
「あー……まぁ何と言うか……、な? 散歩……、とか?」
「そうそう散歩だ! 散歩で偶然! たまたま! 期せずして! 生徒会室前を通りかかって君を見かけたのだ!」
口をついて出た那須美の嘘に、篠倉が大きく首を縦に振って同調した。
「……とりあえず、そこじゃなんだからこっちまで上がってこい」
「違うんだトミシ! 私は那須美君にそそのかされたんだ! 私は悪くない!」
生徒会室に入るなり、いきなり仲間を売る篠倉。
その姿にさすがの那須美も、ただただ目を丸くするだけだった。
「お前さっきは偶然とか何とか言ってたじゃねぇか……」
顔がマジだから本気で言ってんのかギャグで言ってんのか分かんないし……。
とりあえず言い訳して自分の無罪を主張するとか小学生かよ……。良い意味でも悪い意味でも……、本当に子どもみたいなやつだな、こいつ。
「なんか腑に落ちねぇけど……、だいたい篠倉さんの言う通りだ。や、悪かった! 冷やかすつもりは無ければ二人の間を邪魔するつもりも無かった。もちろん悪気なんてさらさら無かったんだ! この通り! 許してくれ!」
まくし立てるように謝罪の言葉を並べる那須美。
そうまでされると、言葉の裏に何か別の意味を孕んでいるような気もしなくはない。
「……お前、何か勘違いしてないか? 白日とは別にそういう関係じゃ――」
「白日、じゃないだろ? 芙蓉と呼べと言ったはずだ」
僕が言い切る前に白日……もとい、芙蓉が割って入ってきた。
篠倉はそれを聞いて、むっとした表情で拗ねたように言う。
「……まぁ彼女が生徒会役員だということは知っている。生徒会副会長の白日芙蓉さんだろ? 生徒会役員は人目に触れる機会が特別多いからな、知らない方が不思議なくらいだ」
俺は知らなかったけどな……。
「だが私は、君がいったいどういう成り行きで生徒会業務を手伝うことになったのか不思議でならない。話を聞いている限りだと、生徒会というよりは彼女個人が君に手助けを頼んだらしいということは察しがつくが……、私に分かるのはそれぐらいだ」
「あ、それは俺も思った。さっき篠倉さんも言ってたけどお前は面倒事を自分から引きくけるようなタイプじゃないし、誰かの推薦ってのも考えられないからなぁ……」
篠倉と那須美はもっともな疑問を僕にぶつける。
正直に言ってしまうのも何だか憚られるしどう答えようか考え倦んでいると、意外にもそれに答えたのは芙蓉だった。
「生徒会役員の一人が、最近、学校を休みがちになっててな。その穴埋めをしてくれる人間を探していたらたまたま富士が目に留まった。聞けば彼は、その役員――野々宮扇という女子生徒なのだがな、彼女と中学が同じで知らない仲じゃないとのことだった。知り合いであれば業務の引き継ぎを円滑に行うことができるし、彼女も安心して後を任せることができる。そう考えた僕は、ちょうどいいから富士に手伝いをお願いすることにしたんだよ」
芙蓉は滔々と、もっともらしい嘘をつく。一応、僕との取引のことは伏せておいてくれるそうだ。
まさかそれは違うぞと否定して話をややこしくするわけにもいかないので、白日の嘘に僕も便乗する。
「そういうことだ。お前らが何を邪推しているのか知らないけど、決してそんなことはないから安心しろ」
篠倉はそれでもまだ納得がいかないのか、眉をひそめてこちらをじっと見つめる。
僕はつい目を逸らしそうになってしまうが、それを見兼ねた芙蓉が横から助け舟を出してくれた。
「そうだ。提案なんだが……、お前たちも富士と一緒に生徒会の手助けをしてくれないか? 一人より三人いてくれた方がこちらとしては心強いし……、どうだろう? いい暇つぶしにはなると思うよ」
それを聞いて篠倉は少し考えてから白日に問う。
「そうすることによって生まれる私にとってのメリットは何だ?」
「そう言われると返答に困るが……、そうだな、お前たちに放課後のたまり場とおいしい紅茶を提供できる。あとセットで富士の小粋なトークが付いて来る」
なんで僕がそんなホストみたいなマネをしなくちゃいけないんだよ。なに? ティーカップでシャンパンタワーでも作るの?
「ふむ、魅力的な提案だな。欲を言えば茶請けも欲しいところだが」
「お望みとあらばご用意しようじゃないか。何、茶菓子代くらい会費をちょろまかせばいくらでも捻出できる」
「であれば文句ない。私も体が良くないので不定期になるかもしれないが、それでよければ協力しようじゃないか」
……自分へのリターンをしっかりと要求する辺り、意外とちゃっかりしている篠倉だった。
昼休みに慈善事業が云々と言っていたが、あれは案外、篠倉自身がボランティアをしない人間だったから信じられなかったのかもしれない。
芙蓉は助かると一言だけ篠倉に礼を言うと、一応那須美にも確認をとった。
「お前もそういうことでいいか?」
「……あっ、俺? 俺はその……、事務作業みたいなのは苦手だから……できるだけ避けたいって言うか……」
もごもごとはっきりしない態度がうっとうしかったので、僕はバッサリ言ってやった。
「お前は問答無用で強制労働だよ。篠倉にいらんこと吹き込んだ罰だ」
「あー……、まぁそうなるよなー……うん。返す言葉もない」
そう言ってため息を吐く那須美を見て了解と受け取ったのか、白日は会長のデスクに置かれていたプリントの束を手に取った。
「よし、それじゃあ二人の助力の合意も得られたし、さっそく業務に移るとしようか」
芙蓉からそれぞれ五枚ほどずつプリントを受けとって、僕たちは企画書類の審査に取り掛かった。
あれから一五分ほど経って、作業にも段々と慣れてきた僕らは、着々と審査を済ませていった。
「一年五組はやきそばの模擬店か。ありがちで新鮮味の欠片もないけど、ま、出展としては問題ないな」
「そうだな。ただ、火を通す料理を扱う模擬店は保健所の許可が必要だ。これは一年五組に限ったことではないが、キッチン担当者には検便検査を受けるようにおって指示をだそう」
そう言って芙蓉は手元にあるノートに、『1‐5 検便検査の必要あり』とメモ書きした。
「おっ、三年二組はお化け屋敷かー。何て言うか、これぞ文化祭って感じだよなー」
隣に座っていた那須美が書類を見ながらそう呟いたので、僕も三年二組の企画書類を横から覗いてみる。
「……使用資材は大量の段ボールと机に、発砲スチロール、遮光カーテン、毛布、マネキン、血糊、ペットボトル……エトセトラ。えらく多いな。机はある程度学校で貸し出せるし、段ボールや発泡スチロールはスーパーなんかでタダで貰えるとして、それ以外はどうするつもりなんだろうなこれ。クラス全員でカンパでもすんのかな?」
高校生にもなって、しかも受験が控えているこの時期にこんなくだらないことに金を使うなんて馬鹿らしくはないのだろうか? そりゃあ、提案者やそれを煽った連中は言い出しっぺなんだからノリノリかもしれないけれど、僕みたいに教室の隅でことの成り行きを黙って見守る系男子にとってはこれほどおもしろくない話もない。
だったら最初から話し合いに参加しろよってか? でもアレだろ? 「僕、こんなことなんかにお金使いたくないし……」って言ったら言ったで空気が読めないだの何だの散々に言われちゃうんだろ? みんな盛り上がってんのに僕一人でその空気を壊すわけにはいかないから、僕はその様子を黙って白眼視で見守ってんだよ。で結果、僕はなけなしの生活費から金を払うことになる。それっておかしくね? これが流行りのone for allってやつ?
「まぁ確かに全員が全員お化け屋敷に賛成というわけではなかっただろうからな、君の言わんとしていることも分かる。が、思い出をたかだか数百円程度で買うことできると考えれば、これほど安い買い物は無い」
そんなことを言って、篠倉は那須美に、「どれ、私にも見せてくれ」と一言断ってから三年二組の企画書類を受け取り、目を通す。
「……ふむ。これもだいたいは問題ないが、入り口付近に注意書きを掲示するように指示した方が良いな。特に入場者にはスタッフの案内に必ず従うようにさせなければ、真っ暗な室内では何かしらのアクシデントが発生してしまうことも十分に考えられる」
「なるほど、確かにそうかもしれないな。三年二組の代表者には後日、その旨を伝えておこう」
篠倉の指摘を受けて、芙蓉は再びノートにメモ書きをする。
これはさっき芙蓉が一年五組の件についてメモしていたときにも何となく思ったことだけれど、彼女はの字は――いつもどこかで見ているような慣れ親しんだ感じがした。
あれからまた少し経って――作業もそのほとんどが終わり、未審査の企画書類は片手で数えられるほどとなった。
そのおかげで余裕ができたのか、那須美は片手間にこんなことを言った。
「そういやさ、今休んでるっていう書記の人って、なんで学校休んでるわけ?」
その唐突な質問で、全員の目が那須美に集中した。机にしなだれるようにして書類を読んでいた那須美はギョッとして、居住まいを正してから皆に言う。
「あ、いやさ、もう何週間も学校に来てないし、この先いつ学校に来れるようになるかも分からないんだろ、その子。だからこそ俺らみたいな助っ人が必要だったわけで」
それを聞いて白日はなぜだか意味深な微笑をたたえ、ゆっくりと腕を組んで尋ねる。
「ふふ……そうだな、お前の言う通りだ。それで? 出し抜けになぜそんなことを?」
どうやら芙蓉は、その質問を待ちかねていたらしい。
全てが予定調和とばかりに、やれやれやっとかと言わんばかりに、あらかじめ用意していたかのような返答をする。
「だってアレじゃん、そう何日も休むようなことって限られてんだろ? 長い間入院するような病気や怪我とかさ。こんなこと言いたかないけど、不登校ってのもあり得なくは無いしな……」
那須美は言いながら何かを思い出しているのか、語尾はどんどんと弱まっていく。どうやら、野々宮を昔の友人と重ね合わせているらしかった。
「不登校ねぇ……。ま、お前の考えているようなことはないと思うが、しかしどうだろうな? 人間関係に起因するものと言えばそうなのかな?」
芙蓉は楽しそうにくすくす笑いながら首をかしげる。
そして、何かを期待するようにこちらへ流し目を送った。
「……あいつが学校を休んでいる理由は不眠症だって、しらく……芙蓉、お前が言ったんだろ。それが何で人間関係云々の話になるんだよ」
僕が言うと、今度は口を押えてくくくと含み笑いをする芙蓉。どうやら僕はまた、彼女が予想した通りの反応をとってしまったらしい。
「不眠症? なんだ、野々宮さんはそんなことで学校を休んでいるのか?」
意外な顔をして、そう言ったのは篠倉。
自分が行きたくても行けない学校を、その程度の理由で休んでしまうことが理解できないらしい。
「いくら何でも、寝不足ですんごい眠いから今日は学校休みまーす、ってそんなレベルの話じゃないだろ。学校を連日休んでいるからには、それなりに逼迫した事情があるはずだ」
少し大袈裟かもしれないが、睡眠をとることができずに衰弱して、彼女は学校に行くような余裕がないとも考えられなくはない。たかが不眠症と言ってしまうにはいささか早計だ。
何より――『不眠症』というのがどうにも引っかかる。
彼女はいったいどのような理由で、夜眠れなくなってしまったのだろうか?
「そりゃあストレスとか、生活習慣の乱れ……例えば昼夜が逆転してしまっているとか、普通に考えるならその辺りだろうな」
「体内のホルモンバランスの乱れが不眠症を引き起こすとも聞いたことがあるぞ」
那須美と篠倉は、次々と野々宮が不眠症を患っている原因をあげつらっていく。何やら致死性家族性不眠症とかいう聞き慣れない病名もでてきたが、いまいちピンとこないというか、どうにも話の焦点がずれているような気がする。
――はたとある考えが思い浮かぶ。
そもそも野々宮は眠れないのではなくて、眠りたくないないんじゃないか?
「眠れない理由じゃなくて眠りたくない理由、か。どこかでそんなことを聞いた覚えがあるな」
篠倉の呟きを聞いて、僕は「……あっ」と頭を上げた。
「……那須美。お前、座頭橋先生にこう相談してたよな? 悪夢が怖くて眠る時間が段々と少なってきているって……」
「したけどそれがどうし――って、あっ……!」
僕と、篠倉と、那須美の呟きが――重なった。
「「「――悪夢だ」」」
そんな僕らの様子を愉快そうに眺めていた芙蓉は、満足げに頷いて、企画書類の中からある一枚を僕らに手渡した。
「そこまで気になるなら、ほら。お前たちで確かめてきたらどうだ? ちょうどいいタイミングだしな」
何がいいタイミングだ。これも全部……、お前の思惑通りなんだろう。
五
時計の短針はすでに真下を指し、空の果てでは藍と真紅が混ざっている。昨日の大雨の所為だろうか? もう五月だというのに冷たい風が肌を撫で、僕はぶるっと身を震わせた。
いつもならこの時間帯にはすでに家に帰宅している頃だが、今日は違う。僕は電車を降りると帰路から外れ、とある人物の家を目指していた。
「弓道部の出展は茶店か。普通こういうのは茶道部がやるもんなんじゃないか? ……まぁこの学校に茶道部なんて無いけどな」
僕はそんなことをぽろっと溢しながら、手元の空白だらけの企画書類に目を落とす。先ほど芙蓉から、僕たちが預かり受けたものだ。
見ると、弓道部の企画書類には大雑把な企画内容は記されているのだが、必要資材や経費、段取りなどの細部にいたってはそのほとんどが無記入だった。そのくせ、責任者の欄にははっきりと、野々宮扇と記されている。
この書類の空白部分を埋めさせろと、芙蓉は僕らを使わしたわけだ。
「一応、期限日までに提出しなければいけないという意識はあったようだが……、これではまるで意味がないな。いかに弓道部の連中が野々宮さん一人に頼り切りになっていたか……、それがよく分かる」
「弓道部のみんなは、『あー、それかー……どうだったかなー……』みたいな微妙な反応するだけだったもんな。野々宮扇さんだっけ? あれじゃあ相当苦労してるはずだぜ」
篠倉は呆れるように嘆息し、那須美は苦く笑う。
那須美の言う通り、あのあと二年生が練習している市立体育館を訪ねたのだが、彼ら弓道部員の反応は芳しいものではなかった。もっとも、僕は事前に新入部員の練習風景を目にしていたので、はなから期待はしていなかったのだけど。
「……ふむ。白日さんに聞いた住所だと……この辺りのはずなんだが、何か目印になるようなものはないかな?」
篠倉はスマートフォンに表示されている地図を何度も確認しながら、背伸びをするようにして辺りをキョロキョロと見渡す。
そして、すぐ正面にあった、少し広めの公園に隣接している公民館を指さした。
「アレだ。あのすぐ近くに野々宮さんの家はあるらしい」
「なんだ。もう、すぐそこまで来てるじゃん。さっさと行こうぜ、なんだか雲行きも怪しくなってきたしな。
那須美が言うので空を見上げてみると、確かに雲が厚くなりつつあった。
生憎僕らは誰一人として傘を持ち合わせていない。したがって、ここで雨に降られてしまうとみんなしてずぶ濡れになってしまうので、こいつの言う通り急いだ方が賢明だろう。
どこか遠くの方で風がごろごろと鳴るのを聞きながら、僕たちは真っすぐ野々宮の家に向かった。
「えーっと……、野々宮……野々宮……野々宮っと」
篠倉は野々宮の住所が書かれた紙と家々の表札を交互に見比べながら、指で差すようにして一つずつ確かめていく。
すると、丁寧に手入れされた少し広めの庭のある家で立ち止まった。
それは特に変わりだてのしない、二階建ての白い家だった。
「おっ、ここだここだ。ここが野々宮さんのお家で間違いない」
最後にもう一度だけ住所を確認して、篠倉は僕らにそう告げる。
言われてしばらくの間、僕は野々宮家の佇まいを眺める。確かにここは野々宮の家なんだろうけど……、何だかインターホンを押すのが躊躇われる。
人づてに聞いた住所だからいまいち自信が持てなかったというのもあるし、ましてや篠倉たちは野々宮とは赤の他人だし、僕だって知り合いと言えるかどうかさえ怪しい仲だ。いきなりどんな顔して野々宮と会えばいいのか分からなかった。
しかし、そんな僕の躊躇いをいっさい忖度しないのが篠倉だった。
「? 何をぼーっとしているんだ? 君が押さないなら私が押すぞ」
「あっ、おい! まだ心の準備が……」
ピンポーンと、ねばつくような機械的な音が、ゆっくりとやや長めに響く。
少し待っても、反応はない。
「たぶん留守なんじゃね? ほら、車止まってねぇしさ」
那須美の言う通り、駐車スペースには車が止まっていなかった。しかし、体調の悪い娘を無理やり連れまわしているとも考えにくい。家の人が仕事か何かで家を出ていて、野々宮自身は留守番をしているというのが自然だろう。
何より、夢世界でのこともあってつい忘れてしまいそうになるが、体が悪いのは篠倉も同じだ。その篠倉をここまで付き合わせておいて、簡単に引き返すわけにはいかない。
玄関扉を門扉から少し覗き、少し待ってから今度は僕がインターホンを押した。
応答は無い。
僕ははぁと息を吐いて、篠倉の方を見る。篠倉は、僕の隣でしゃがみこんでいた。
どうやら、庭に咲いているカスミソウが気になったらしい。柵の隙間から覗き込むようにして眺めていた。
その様子を見て僕は少し顔が綻ぶ。これで誰も出なかったら仕方が無い。今日のところはもう帰ろう、そう思って――僕は三回目のチャイムを鳴らした。
――ザザッと音が走り、スピーカーから気配を感じた。
『………………はい』
少し間隔を空けて、女性のくぐもった声が聞こえてきた。
突然のことに驚く僕ら。カスミソウを見つめていた篠倉も、黙って立ち上がる。
そして篠倉は僕の肩を肘で小突き、君が応答しろと言外に示した。うんざりしながら後ろにいる那須美を見やると、すでに門扉から引き下がっていたので、どうやら僕が応じる他ないらしい。
僕は観念して、一つ咳払いをしてから応えた。
「あのー……、すいません。城野高生徒会の荻村富士という者ですが、野々宮扇さんはいらっしゃいますか?」
正確に言うと僕は生徒会役員ではないのだけれど、便宜上そう名乗る。
『……今出るから、少し待っていてちょうだい』
女性は確かにそう言ったはずなのだが、家の中から少しの物音も聞こえてこない。
少し心配になって門扉から首を出して中を覗こうとした瞬間――ガチャコン? と大きな音を立てて玄関が開き、慌てた僕は亀のように首を引っ込める。
そしてまた、そーっと首を出して玄関の方を覗いてみると――野々宮扇がそこにいた。
少しだぼついた白のカーディガンに黒のキャロット、そのどちらもルームウェアのようだったので、彼女が今日一日ずっと家にいたことが窺える。
だぼっと開かれた胸元から覗いている肌は病的なまでに青白く、まるで生気が感じられない。もともと涼しい顔立ちをしている所為か、さながら雪女のようだ。加えて目元には大きなくまができているので、何というかもう……これでもかというほどに彼女が憔悴しきっているということが伝わってくる。
つい先日、生徒会室で見た写真の野々宮とは……まるで別人みたいだ。
「………………」
野々宮は門扉の前まで出てくると、少し高い位置から、沈黙を守ったまま僕を一瞥する。それから僕の隣に立っている二人に目線を移して、また僕を、その鋭い三白眼がねめつけた。
「あなた一人で尋ねてきたのかと思えばぞろぞろと……、いったい何の御用かしら?」
その冷たい刃のような語気に、僕の背筋はぞっと氷つきそうになる。寝不足で気が立っているのだろうか? いや、以前からこんな感じだったかもしれない。
「あー……まず、僕のこと覚えてる?」
「覚えてるも何も……、同じ高校でしょう? バカにしないで荻村君」
いや、別に何も、お前の記憶能力を疑ったわけじゃないんだ。単に僕は影が薄くて忘れられやすい存在だから……、いやよそう。
「ま、覚えてくれてんだったらそれでいいんだ。こいつらは僕の……」
何だか友人と言ってしまうのも気恥ずかしいので、
「知り――「親友だ?」
知り合い、と――そう答える前に篠倉が被せてきた。胸を張って嬉しそうに主張する篠倉を見て、僕は眉根を押さえてため息を漏らす。
「……このバカが篠倉美鷹。で、あっちの男子が那須美誠一だ」
よろしくと快活に笑って手を差し出す篠倉。さしもの野々宮も篠倉の雰囲気に呑まれてしまったのか、黙って握手に応じた。
同様に那須美も野々宮に握手を求めるのだが、そちらは無視をされる。
「……それで、結局あなたたちは何をしに私の家を訪ねてきたの?」
野々宮は腕組みをして指でトントンと腕を叩きながら、若干イラつき気味に問う。
「まぁ順を追って話すと……、僕たちさ、芙蓉に生徒会の手伝いをさせられてんだよ。お前が学校休んでるから人手が足りなくてさ、その穴埋めだ」
言うと、それまで高圧的に僕を睨みつけていた野々宮の視線が逃げるように逸らされた。
「……そう。それであなた、さっき城野高校生徒会の――と名乗ったのね。てっきり新手の詐欺か何かだと思ったわ」
……少し引っかかるけど、まぁ野々宮の言う通りだ。
いくら同じ学校とはいえ、中学以来全く付き合いのない男子がいきなり家を訪ねてきたんだ。不審に思わない方がおかしい。少し引っかかるけど。
「……まぁ事情はだいたい把握したわ。あなたたちは今日、私から生徒会役員書記の引き継ぎ作業を行うためにやってきたのね」
「ま、それもあるんだけどな。主題はこっちだ」
そう言って僕は、制服の横ポケットに折りたたんで入れていた件の書類を取り出した。
怪訝そうに見つめていた野々宮だったが、その書類の文面を見てすぐに気づいた。
「それ……弓道部の企画書類よね、文化祭で出展するものを生徒会に報告する……」
「そうだ。見て分かる通り、この企画書類はそのほとんど無記入で白紙もいいところ。このままでは当然出展は認められないから、責任者のお前にお鉢が回ってきたわけだ」
「……そう。それで……、他の弓道部員の子たちには確認したの?」
企画書類を受け取った野々宮は、その文面に再び目を通しながらに問う。
「……したはしたけど、何ていうか……微妙な反応だったよな?」
後ろを振り返って、一緒に弓道部を訪ねた二人に同意を求めると、那須美が大袈裟に首肯して言った。
「こっちがいろいろ質問しても、あいつら曖昧なこと言って誤魔化すだけだったし……、奥の方でくすくす笑ってるやつもいたもんな。とても真面目に考えてるようには見えなかった」
「……そうでしょうね。あの子たちはその場のノリと、こうなったら楽しいという願望だけで物事を決めてしまうから……。それで後のことは全て私に任せっきり。今回のお茶屋のこともそれに然りよ」
野々宮はうんざりするように額を押さえると、「いつものことよ」と、吐き捨てるように呟いた。
ポツリと――頭の上で冷たいものが跳ねた。
「……雨か」
篠倉は手で受け皿を作り、空を仰ぐ。釣られて僕も空を見上げると、さっきまで夕焼け色に染まっていた空がいつの間にか雲に覆われて、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「……夕立ね。この様子だとじきに本降りになると思うけど……、あなたたち大丈夫なの?」
「大丈夫って何が?」
聞くと、野々宮は呆れるようにため息をついて言った。
「そこの二人のことよ。あなたの家は近所だから構わないかもしれないけれど、二人はわざわざこんなところまで寄り道してきたわけでしょう?」
「まぁ、そうなるな。篠倉に至っては家が学校の近くにあるから、とんぼ返りすることになるし」
自分で言って気づいた。
今から篠倉を帰すとなると、大雨の中家路をたどらせることになる。虚弱体質の篠倉が長時間雨に打たれてしまえば、体調を崩してしまうことは目に見えている。
どうするか考えているうちに、雨粒はどんどん大きくなって、その感覚はどんどん短くなっていく。
「……仕方ないわね。このままここで立ち話をするわけにもいかないし、雨がやむまでうちで雨宿りしていきなさい。その間に企画書類への記入も済ませるわ」
「ありがとう、助かるよ」
彼女の言葉に甘えさせてもらい、僕たちは野々宮家にお邪魔させてもらった。
野々宮家の玄関はベージュやクリーム色が基調の広々とした空間だったが、今日は曇っていて光が十分に届かない所為か、少しだけ暗い印象を受ける。
「すまない。タオルを貸してもらえないだろうか? さすがに濡れたままでお宅にあがらせてもらうのはちょっとな……」
雨に晒されたのはほんの少しの間だけだったので言うほど濡れてはいなかったのだけれど、篠倉の下着を浮かせるぐらいには濡れていた。ピンクだ。
辺りを二度三度見回すフリをして、さりげなく流し目で篠倉を見る僕。そしてゴミを見るような目で僕を見る野々宮。全然さりげなくなかった。
「だったらそうね。そのままの姿で風邪を引いてもらっては困るし……、シャワーを貸すから浴びてきなさい。その間に制服も洗濯してしまって乾燥器にかけてしまいましょう。着替えは私のジャージを貸してあげるから」
「……そうだな。それなら悪い、そうしてもらえるかな?」
済まなそうに手を合わせる篠倉を見て野々宮は無言で頷く。
「それじゃあ私は体を拭くタオルを持ってくるから、少しだけ待っていてちょうだい」
野々宮はそう言って体を翻すのだが、ふと立ち止まってこちらを向き直した。
「荻村君、彼女に上着を貸してあげるくらいしてあげたら?」
彼女の去り際、そんなことを突然言われてビクッと体を跳ねらせる僕。当の本人の篠倉はといえば、キョトンと不思議な顔をして僕を見つめている。
篠倉の下着はあいかわらず、柔らかく女性的なピンク色を主張していた。
「……篠倉、とりあえず今はこれ羽織っとけ」
「ん……」
僕は自分の着ている学ランを脱いで、篠倉に着せてやる。
すると篠倉は、学ランの襟元に頭を潜らせるようにして鼻をすんすんとひくつかせた。
「うーん、アレだな。君のニオイがするな。さっき庭に咲いていたカスミソウのような……、地味だけど優しい香りだ」
「………………そうか」
僕が顔を逸らすと、篠倉が僕の顔を覗き込んで、「なんだ、寒いのか?」と一言。
確かに雨が降っていることもあってシャツ一枚ではなかなか寒いが、頭を冷やすにはちょうどよかった。
篠倉を浴室に連れていったあと、僕たちが案内されたのは少し大人な雰囲気の漂うリビングだった。対面式のキッチンと一緒になったリビングには、モノクロのローテーブルにクリーム色のソファが二つL字に置かれていて、その前で大きめの薄型テレビが存在感を放っている。
他には食卓テーブルにチェストが二つ置かれているくらいで、よく言えばシック、悪く言えば簡素なイメージを受ける部屋だった。
「適当に掛けてもらって構わないわ」
言われて、僕と那須美はソファに並んで腰掛ける。野々宮は座らずに、そのままキッチンへと向かった。
「今、コーヒーを入れてくるわ。あなたたちも雨にあたって冷えたでしょうから」
「あ、僕が代わりに入れ……て、って……行っちゃったよ」
「野々宮さん、疲れ切っているはずなのになー……。これから企画書類の始末をお願いするわけだけど……、なんか申し訳ないな……」
那須美は先ほど借りたタオルで頭をわしわしと拭いながら、キッチンでお湯を沸かす野々宮の姿を眺める。
確かに、さっきから野々宮の手を煩わせてばかりで申し訳が立たない。だがしかし、これも野々宮の『不眠症』を解決するためのことなので、彼女にはもうしばらく我慢してもらう他ないだろう。
しばらくすると、キッチンからコーヒーの渋い香りが漂ってきた。
人数分の小洒落たコーヒーカップとスプーン、そして砂糖の入った小瓶、ミルクピッチャーが乗った盆を、野々宮が運んでくる。
「どうぞ。インスタントで悪いけど」
僕は軽く礼を言うと、入れてもらったコーヒーに角砂糖を二個とミルクを少し入れてかき混ぜる。
「お前、意外とお子ちゃま舌なんだな」
那須美が半笑いでちゃかしてきた。
「……悪いかよ。僕はコーヒーのえぐみがあんまり得意じゃないんだ」
「あら、それならそうと言ってくれれば違うものを出したのだけど……。恥ずかしくて言いづらかったのかしら?」
野々宮はコーヒーを飲んで口元を隠すのだが、その皮肉めいた笑みは隠しきれていない。
どうして僕の周りの女子はみんなして辛辣なやつばかりなのだろう?
「そんなことはどうでもいいから、遅くならないうちに早いとこそいつを処理してしまおう」
僕はすっかり甘ったるくなったコーヒーを一口あおり、机の上に置かれた企画書類を顎で指す。
それを受けて野々宮は、「そうだったわね」と書類を自分の方に引き寄せた。
「心配しなくても、大まかな方針は弓道部の中でお茶屋の企画が上がったときからある程度考えてはいたことだし、この書類を埋めるのにさほど時間はかからないわ」
そう言って、野々宮はいつの間にか襟元に下げていた赤色のメガネをかけた。
「ペン、貸してくれるかしら?」
「おう」
僕は鞄から筆箱を取り出し、野々宮にそれをまるまる貸してやる。
「妙に軽いと思ったら……、シャーペンと三色ボールペンに赤のサインペン。それに消しゴムしか入っていないのね……。これだけであなたの授業態度が目に浮かぶようだわ……」
たぶん野々宮の想像は間違っていると思う。なぜなら、僕は授業中ノートをいっさいとらないので、その四つの筆記用具さえも使っていないからだ。
「老婆心で言わせてもらうけれど、授業くらいちゃんと聞いていなさいよ。あとで痛い目を見ることになっても誰も助けてくれないわ」
そりゃもっともな話だ。ご高説痛み入る。
頂きました貴重なご意見は今後の弊社のサービスの参考とさせていただきます。
「野々宮さんってさ、いつもそんな感じなわけ?」
那須美が、出し抜けによく分からないことを質問した。
「……そんな感じって?」
案の定、訝しげな顔をして聞き返す野々宮。
「いやさ、文化祭で茶店を出そうって言いだしたのは野々宮さんじゃないんだろう? それなのに面倒なことは全部押し付けられて……、言葉が悪いけど、貧乏くじ引かされてるって言うかさ……」
「貧乏くじ……」
野々宮は文字を書く手を止めて、那須美が言った言葉を繰り返す。
「確かにそうかもしれないわね。弓道部の部長も生徒会役員も……、私がやりたくてやっていることじゃないし……」
やはりそうだったか。
前にも言ったが、こいつは自分から進んで人の前に立つようなタイプの人間ではない。しかし、他人からそういった役割に斡旋されることが多いので、仕方なくそれを引き受けているだけなのだ。
「ま、それだけ他人から信頼されてるってことだと思えば、案外悪いことでもないんじゃないか?」
「そう? 信頼と期待はまったくの別物だと思うけど。いえ、この場合は期待と言うよりも……、依存と言った方が正しいかしらね」
自嘲気味に笑う野々宮に、僕は何も言えなくなってしまう。
依存――確かに今の弓道部は、野々宮に依存している。彼女抜きでは自分たちが言いだした文化祭企画について議論することもできず、練習や後輩の指導すらまともに執り行うことができない。練習も大会も議論もその他諸々……全て野々宮頼りなんだ。
言ってみれば、野々宮は弓道部のマザーコンピューターだ。あらゆる機関に指令をだす核がやられてしまえば、中枢部分以外の場所まで途端に瓦解してしまう。
「顧問が部員たちに指導することはないのか? さすがに、何もしないでただ傍観しているだけということはないはずだ」
僕の言葉を、野々宮は一蹴する。
「顧問の先生は弓道を経験したことがないのよ。おまけに、弓道部の顧問を受け持つのは今年が初めてときているわ」
ああ、なるほど。それじゃあ生徒たちに遠慮してしまって、まともに指導することなんてできないだろうな。
「でも最近は教育実習の先生が練習にいらっしゃるからまだマシな方ね」
教育実習って……、ああ座頭橋先生のことか。そう言えば以前、うちの弓道部のOBだと言っていたな。
でも確かあのときは、弓道部の子たちはみんなしっかりしていると、そう言っていたはずだが?
「それはそうね……、たぶんその頃はまだ私が学校を休んでいなかったからじゃないかしら? 自分で言うのもなんだけど、私さえいればあの子たちはまともに練習できるから」
「ああなるほど……。その頃はまだ不眠症じゃなかったんだな」
「……何よあなた。私が学校を休んでいる理由……、知っているの?」
野々宮は眉根を寄せて、あからさまに不快そうな視線をこちらに送る。気の所為か、さっきよりも僕との距離が遠のいているような気がする。
「……それも芙蓉から聞いたんだよ。別にお前の身辺調査をしたとかそんなことはないから安心しろ」
「そう……、白日さんから。変ね。私、不眠症のことは身内以外の誰にも話していないのだけれど」
「そんなこと言われても実際に芙蓉がそう言ってたんだから仕方がないだろ」
怪訝そうな表情のまま野々宮は那須美の方を見て、言外に言葉の真偽を尋ねる。
慌てて那須美は、大袈裟に首を縦に振った。
「……まぁいいわ。ただの不眠症で学校を休んでいるなんてみっともないから、本当は誰にも知られたくなかったのだけれど……」
「まぁそう思ってしまうのも分からなくはないな。現に僕たちだって初めは、不眠症で学校を休むってのがいまいちイメージできなかったから」
だからこそこうして今、野々宮の家を訪れているのだ。
――そうだ。僕たちには生徒会の仕事の他に、もう一つ大事な要件があった。
僕は残っているコーヒーを一気に飲み干してから、ずっと気になっていたことを野々宮に問う。
「バレてしまったついでに一つ教えてほしいんだけどさ、不眠症になった理由って何かあんの?」
聞くと、野々宮は「っ……」と息を詰まらせて、それから目を伏せた。
「今、知られたくないって言ったばかりなのに……、あなたって案外いじわるなのね……」
「そう言わずに話してみろよ。ひょっとしたらお前の力になってやれるかもしれないだろ?」
僕は精いっぱい頼りになるふうを努めたのだが、野々宮は僕の空になったカップに視線を落としながら、にべもなく言い放った。
「……興味本位でそんな無責任なことを言っているのなら、私、さすがに怒るわよ」
「まさか。僕がそんな理由でこんなことを聞くような人間じゃないってのは、お前もよく知ってるだろ? なぜなら僕は、基本的に他人に興味を示さないからだ」
「そう言われると……、確かにそうね。あなた、自分以外の人間なんて背景ぐらいにしか思っていなさそうだし」
「何か引っかかる言い方だが確かにそうだ。したがって、今回僕がわざわざ他人事であり面倒事に首を突っ込むのは、興味本位でも何でもなく、何か特別な事情があるからということになる」
「特別な事情って?」
「話すと長くなるが……、簡単に言うと、だ。僕も那須美も――お前と似たような経験をしたことがある」
その言葉に驚いたのか、野々宮はコーヒーを飲もうとした手を止める。
それを好機と捉えたのか、那須美が僕に加勢した。
「俺もつい最近まで、まともに眠ることができなかったんだよ。野々宮さんほどひどくはなかったけどな」
「………………」
野々宮は顎に手をやって考えるようなしぐさを見せたあと、黙って僕の方を見た。どうやら、お前はどうなんだと言いたいらしい。
「僕もだいたい似たような感じだ。少し大袈裟に言えば、以前、眠ることに怯えていた時期があった」
よく知っている。だからもし野々宮の不眠症が悪夢に起因するものだというのなら、夢魔を倒し悪夢を乗り越えた僕らが手を差し伸べてやらなければいけない。
それが知ってしまった僕らの責任というものだろう。
僕の知らないところで誰がどうなっても構わない。だけれど、一度知ってしまった以上、黙って見過ごすことはできない。これは以前、篠倉に聞かれたときにも少し触れたことだが。
「……そう。あなたたちも……」
それだけ言うと、再び野々宮は黙りこんだ。沈黙が続き、聞こえてくるのは外の雨音と時計の針の音だけ。
しきりに僕と野々宮の目線がかち合う。そのたび野々宮の口は開きかけるが、出かけた言葉はため息と共に呑みこまれた。
淀んだ空気が息を詰まらせる。
ふいに、僕の肩がぽんと軽く叩かれた。
「心配しなくともこの男、案外頼りになるぞ。私が保障する」
まるで暗い海の中のような静けさを破ったのは、やはり篠倉だった。
なぜだかさっき僕が貸してやった学ランを、いまだにジャージの上から羽織っている。
「つらいことがあるなら吐き出してしまわないとな。呑みこんだ言葉は腹の中でわだかまりに変わってしまうから」
にっと笑いかける篠倉に釣られて、野々宮もふっと破顔した。
リビングにはふんわりとした石鹸の匂いと、新しく入れ直したコーヒーの香ばしさが漂っていた。
頭の中を整理する間、間をもたせるように篠倉にコーヒーを差し出してから、野々宮はようやくそのまごつく口を開いた。
「今から二週間ほど前……、五月の頭あたりからかしら。その頃から私、悪い夢を見るようになったの……」
案の定というか、もはや予定調和ではあるのだけれど、やはりこの件に関しても悪夢が携わっていた。
「悪い夢とは、具体的にはどのような夢なのだ?」
篠倉は伏し目がちの野々宮に目線を合わせて、隣から軽く覗き込むようにして問う。
「夢の中の私は――いつも体育館の中にいるの。そこには蛇みたいな黒いものがたくさんいて……、それがずっと追いかけてくる。私はその蛇から逃げまどいながら、出口を求めてさまよっているわ……」
蛇みたいな黒いものとはおそらく……夢魔のことだろう。体育館は学校の体育館のことだろうか? だとしたら、体育館には遮蔽物なんていっさい無いのだから、さまよえるほど入り組んではいないし、夢魔から逃げ切れるはずもないのだが。
まぁいずれにしろ、夢魔が自身を狙って襲い掛かってくるというのだからさほど時間は残されていない。今夜中にでも、夢魔退治に踏み込む必要がある。
念のため、僕はもう一つ確認をとる。
「野々宮。その夢の中では、妙に意識がはっきりしているなんてことはあるか?」
「……そうね。今もこうしてはっきり覚えているくらいだから……」
意識がはっきりとしている――つまり、明晰夢。
これはもう間違いない、ビンゴだ。
「あの……、やはりこんなことが治療に繋がるとは思えないのだけれど……」
不安げな面持ちでそう訴える野々宮を、篠倉がなだめる。
「そんなことはない。精神医学の治療は、そのほとんどが患者との対話によって成されている。さっきも言ったが、ストレスを表に出さずため込むことは危険だ。だから、患者には内に留めたものを吐き出さる。実に理にかなった立派な治療法だ」
「それは専門的な知識を有した由緒正しい精神科医の元に行われているからでしょ? あなたたちはただの学生じゃない」
「そうかな? 案外そうとも言えないかもしれないぞ」
ふっふっふと不敵な笑みをたたえる篠倉。真面目な野々宮は、そんな篠倉の言葉を真に受けて少し考えるようなしぐさを見せた。
「僕らは僕らでできることがあるってことだよ。あんまり深く考えんな」
ふと気になって、僕は部屋の時計を見やった。
時刻はすでに午後七時を大きく回っていた。ある程度ことは済ませたし、これ以上長居をする必要もないだろう。
「とりあえず、今はそれだけ話してくれれば十分だ。それで僕らも行動に移ることができる」
「行動って……、あなたたちは何をするつもりなの?」
「それはあとで分かるよ。具体的には今夜、な。……あっ、そうだ。気が進まないかもしれないが、何があっても今夜だけは必ず寝ろよ」
「できることならそれは避けたいのだけれど……、何かそうしないといけない理由でもあるの?」
「それもあとで分かるよ。お前が僕らを信じてくれさえすれば、な」
野々宮は不安と不審がないまぜになったような複雑な表情をする。
「だったらあれだ。篠倉」
「ん? なんだ?」
手持無沙汰だったのか、篠倉は僕の筆箱からシャーペンを二本勝手に取り出して、クリップの部分を引っ掛けて遊んでいた。人の物で何やってんだ、こいつは。
「……お前、今日野々宮ん家に泊まってやれ」
「……えっ?」
その提案に、野々宮は珍しく小さく声を上げて驚いた。
「藪から棒になぜそんなことを……」
「なぜってそりゃあ単純に、独りで寝るより誰か傍にいてくれた方がお前も心強いんじゃないかと思ってな」
「っ……! バカにしないで。私は小さな子供じゃないのよ」
「嫌なのか?」
眉を八の字にしてしゅんと落ち込む篠倉。
野々宮は慌てて両手を胸の前で大袈裟に振って、「そうじゃないのよ」と弁解した。
「私は別に構わないのだけれど……その……、篠倉さんの方が気を遣ってしまって落ち着かないかもと思って……。ほら、私たち、今日知り合ったばかりなのだし」
「そんな奥ゆかしい女じゃねぇよ篠倉は。そうだな?」
「ああ! 私はそのような小さいことをいちいち気に掛けるような狭量な人間ではないぞ!」
……僕は、篠倉はもっと図太くて馴れ馴れしいやつだってことが言いたかったんだが……。なんでもポジティブに変換できる日本語ってすごい!
「……まぁ確かに、こんな時間に女の子を一人で帰らせるのは不用心にもほどがあるわね」
「だろ? それに言いそびれていたが、篠倉はこう見えて病弱なんだ。そんなやつにとって、雨で冷えきってしまった外は体に堪える」
野々宮は掃出し窓から外の様子をチラリと一目する。雨はすでにやみ始めていたが、風の勢いが先ほどよりも少し増している。日もとっくに落ちてしまっているし、外気温はそうとう低いはずだ。
「……仕方ないわね。寒さが体に障ってはいけないし……、特別よ」
「わーい、やったー! お泊りだー!」
「今のうちにご家族の方に連絡しておきなさい。遅くなると心配されるだろうから」
バ……、もとい無邪気にはしゃぐ篠倉を、野々宮は柔らかい表情でたしなめる。まるで実の親子のようだった。
「……んじゃ、話もまとまったことだし僕らはそろそろお暇させてもらおうかな」
「そうだな。もういい時間だし、あんまり長居してもあれだから」
僕と那須美はテーブルの上を片付けて身支度を済ませるのだが、あと一つ、何か忘れているような気がした。
「あぁそうだ、篠倉。僕らはもう帰るから、学ラン、返してくれ」
「ああ……、そういえばそうだったな」
篠倉は羽織っていた学ランをのそのそと脱ぎ、何だか名残惜しそうに抱え込む。
……え、なに困る。いろいろ血迷いそうになるからそんな顔しないでほしい。
「男子の制服が珍しいのも分かるけど……、な? 僕、上はその一着しか持ってないし」
僕が頭をわしわしと掻きながら言うと、篠倉はそっと控えめに僕の学ランを差し出した。
それを受け取ると、僕らは立ち上がり玄関に向かう。その途中で、僕は学ランを羽織り直した。
「……それじゃ、野々宮。篠倉のこと、よろしく頼んだぞ」
「ええ、それは分かってるわ。だけど……」
段々と声が小さくなっていくので語尾が聞き取りにくかったが、野々宮の言わんとしていることは十分に伝わってきた。
「……悪夢のことなら心配すんな。僕らが必ず何とかしてやるから。信じろ」
それだけ言うと、僕は軽く手を挙げて会釈をしてから野々宮家を早々に出た。
「なぁ荻村」
「……あんだよ?」
玄関先で那須美が、雲に覆われて星一つ見えない夜空を見上げながら聞いてきた。
「篠倉さんが羽織ってた学ラン、どんな感じだ?」
僕は那須美を殴った。
夜一二時――自宅。
僕は歯磨きをしながらさっきまでのことを思い出す。
僕は家に帰ってから一度、篠倉と那須美の二人に電話をかけた。何時ごろに就寝して、どこで落ち合うかを確認するためだ。加えて篠倉には、野々宮をなるべく不安にさせないように努めてくれとも頼んだ。野々宮の悪夢に対する恐怖心を拭い去らなければ、このあとの展開に支障をきたすかもしれないと思ってのことだ。
篠倉は二つ返事で「任しておけ!」と応えたが、あのテンションだと疲れ切って野々宮よりも先に眠ってしまうのではないかと心配になる。
歯磨きを終えると、僕は自分の部屋に向かう。
途中、二階の物置に使っている部屋から毛布を一枚だけ取り出した。ここ最近は暖かい日が続いていたのでタオルケット一枚で眠っていたのだが、今日はそれだけだとかなり厳しい。
タオルケットの上に毛布を敷き整えてから、僕は電気を消して床に就く。
あいつらは今頃どうしているだろう?
篠倉は野々宮とうまくやれているだろうか?
那須美は僕の言ったことちゃんと覚えているだろうか?
野々宮はやっぱり悪夢を恐れてしまって、眠れないなんてことはないだろうか?
くどいようだが、野々宮に夢を見てもらわない限りは、僕たちは何も手出しすることができない。彼女には、たった一日、今日だけは我慢をしてもらう必要がある。
そんなことをつらつら考えているうちに、ゆるやかな波に揺られるような、心地よい眠気が押し寄せてきた――