メニュー35 好きなんです
再び文庫本の上に影がさしたとき、顔を上げると咲くんがいた。
咲くんは、はぁ……と満足そうに息を吐いて、同じレジャーシートの上に腰を下ろした。
「美晴も行ってきたら? 今度は俺が荷物番をしとくよ」
水筒のお茶を美味しそうにのどぼとけを上下させながら飲む。額にはうっすら汗が浮かんでいた。
「ううん、大丈夫。外で本読むの好きなんだ」
そばにいたいから。なんて恥ずかしくて言えないけど、でも子どもじみた独占欲が私をシートに縫い付ける。それに運動音痴なので身体を動かして楽しみたいとはなかなか思えないし、いまさらひとりでどこに行けって言うのと独りごちる。
寄り添うように並んで座るけれど、普段から寡黙な咲くんとの会話はない。会話は無いけれど、でもそんなゆっくりと流れる時間が心地よいと感じる。
春の風がときおり強く吹いてイタズラをしてシートがバサリと捲れ上がった音に驚いた。
予感めいた何かを感じて、ふと顔をあげて咲くんを見れば、ぶつかる視線がそこにあった。しかめっ面の頬がほんのり赤い……。
こんなところ、佳奈ちゃんに見られたら煩いんだろうな。
周囲を気にしながら、そっと芝生の上の影が重なってすぐ離れた。
太陽が高くなった頃、私たちは樹の陰にシートを敷いてお弁当タイムとなった。事情を知っている部員の緊張感が高まる……。
「玉野先輩っ! お弁当作ってきたんです! 食べて下さい!」
佳奈ちゃんが両手に持ったお弁当箱を咲くんに突き出す。
「俺、自分の分もあるんだけど……」
困惑しながらも迫力に負けたのか咲くんがそれを受け取った。
「私も咲くんに作ってきたの」
「美晴も? 何企んでんだお前ら」
すっごく訝しげに私と佳奈ちゃんを見比べる。佳奈ちゃんが私を牽制するように咲くんに自らのお弁当の存在を主張した。
「私の方が先ですからね、玉野先輩!」
「お、おう」
咲くんは自分の持ってきたお弁当を脇に置いて、佳奈ちゃんのお弁当を開いた。
「……!」
プリーツレタスを敷いたお弁当箱にいびつな形のハンバーグ、ポロポロに火を通されたスクランブルエッグ、そして飾り切りを施した苦労が窺える少し焦げたソーセージ。ハンバーグと卵には♡マークがケチャップで書かれていたであろう痕があった。そしてカボチャサラダとミニトマト。丸にしようか三角にしようか直前まで悩んだようなおにぎりが詰められていた。
皆が見守る中、咲くんがカボチャサラダをひとくち口に運んだ。
無言でモグモグした後、おかずを一通り食べる。そして、おにぎりを3口で食べた。
緊張感をまとわせた佳奈ちゃんが咲くんに問う。
「どう……ですか?」
目を瞑って口を動かしていた咲くんが、ゆっくりと目を開けた。
ゴクンと緊張で唾を飲み込む。
「うん、普通にうまいんじゃないか」
やった! と小さくガッツポーズをする佳奈ちゃんが視界に入る。
「ただな、お前ケチャップ味多すぎ。味が単調になるから同じ味ばかり偏らない工夫が必要だな。難しいかもしんないけどこれからレパートリーが増えていけばできるようになっから。弁当のおかずの基本は冷めてもおいしいように少し濃いめの味付けで水分は極力減らす。んで、弁当にマヨネーズは入れない方がいい」
「だって、だって! コンビニのおにぎりとかサンドイッチとか……!」
「ああ、うん。ツナマヨとか定番だよな。でも家で作って長時間持ち歩く弁当の場合、マヨネーズは痛みやすいから避けた方がいいんだよ。コンビニものは出先で買って持ち歩く時間も少ない場合が多いし、衛生管理された工場で作られている上に保存料も使われている。つまり腐りにくい工夫がされているんだよな。それでも直射日光の当たる場所に置いておいたり長時間持ち歩くのは論外だけどな。つまりコンビニ弁当のメニューが家庭料理の弁当メニューにそのまま応用出来る場合とそうでない場合があるということだけ覚えといて。うん、でも美味いよ。やるじゃん梅本」
笑みを見せて佳奈ちゃんを褒めると、咲くんは空になった佳奈ちゃんのお弁当箱を脇に置いて、私の持ってきたお弁当箱を膝に乗せた。
そのとき、佳奈ちゃんが顔を真っ赤にして言った。
「あの! 私、好きなんです……!」
その瞬間、時間が止まった。
実際時間が止まった訳ではない。視界の端に2歳くらいの男の子がお母さんと赤いボールを転がして遊んでいるし、青空には飛行機が白い線を引きながら飛んでいる。
でも、確かに私達料理倶楽部の面々がいるこの一帯だけは、空気が凍りついたようになっていた。
佳奈ちゃんは顔を真っ赤にしたまま、咲くんを見つめてその答えを待っていたし、私はそれを息を詰めて見ているだけだった。部員のみんなもその動きを止めていたし、さっきまで賑やかに交わされていたおしゃべりする声が防音壁に阻まれたみたいに消えている。そして咲くんは、お弁当箱の蓋を持った手を止めて佳奈ちゃんを見ていた。
正直私もこんな展開が待っているとは思い付きもせず、喉は凍りついてしまって何も発せられなかった。
先に表情を取り戻したのは、咲くん。
にっこりと笑うと、佳奈ちゃんの頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。その光景、まるでわんこにするみたいに乱暴。だけれども佳奈ちゃんは頬を紅潮させて小鼻をふくらますと挑戦的な目で私に視線を送った。
『これで玉野先輩は私のものね』とでも言いたそうに。
だけど、そんな佳奈ちゃんの表情は、次の咲くんの言葉で凍りついた。
「そうか、そんなに梅本は料理が好きなのか! 部長に自主練の成果を食わせるこのやる気。俺は嬉しいぜ。よし、言わずにいたが料理は見た目も大事だからな! 特訓しような!」
「えっ……」
「美晴も一緒に特訓したいだろ?」
「え……うん」
「美晴の弁当も美味いよ」
さっきお弁当一個を食べているのに、咲くんは次々と私のお弁当を食べてくれている。そして少しむくれている佳奈ちゃんをおいてみんなが自分のお弁当に箸をつけ始めた。
えっと……とりあえず私もごはんにしちゃおうかな。
リュックサックを開けて……今さら気付く。
「あ……」
「どうした?」
牛肉の野菜巻きを箸に挟んだまま、咲くんが問う。
「……お弁当、忘れちゃった、みたい」
「……」
咲くんがほぼ空のお弁当箱に気まずげに視線を落とした。
「ち、違う、それは元から咲くんにと思って作ったやつだか、ら……」
とりあえず糖分豊富なミルクティでも買ってきますと立ち上がった。間髪入れず鳴るお腹の音が恨めしい。
「俺、もう食えないから。美晴、これ食って」
咲くんが笑いを噛み殺しながら差し出してくれたのは、咲くんのお弁当。
恥ずかしさに堪えながら、それを両手で恭しく受け取った。
ひゃあああっ~!
ご、ごめんなさい。
「あ、ありがとう」
「おう。こちらこそ美味い弁当ありがとな」
そんな、お礼を言わないで~!
申し訳なくも腹が減っては……なので、お弁当を包んでいる紺の大判ハンカチの結び目を解く。
「せ、先輩、あざとすぎ!!」
な、なに!?
突然立ち上がった佳奈ちゃんは涙目で怒りに身体をプルプル震わせていた。
「お、お弁当、わざと忘れてっ! 玉野先輩の優しさに甘え過ぎなんだから!! 絶対わざとなんだから!!」
ボロボロと泣き出した佳奈ちゃん。
「え、え、わざとって訳じゃ……」
ないんだけど……。
うええええ~ん! と泣き声を上げながら、佳奈ちゃんが走り去ってしまった。
ど、どうしよう……。
「すんません、俺見てきます」
梅本くんが申し訳なさそうに咲くんと私に頭を下げた。
「待って、私が行くね」
梅本くんを引き留め、佳奈ちゃんの後ろ姿を追う。
佳奈ちゃんは結構な勾配を上がっていく。
私は、息を切らしながらも必死で追いかけた。
ようやく追い付いたときには、佳奈ちゃんはユキヤナギの植え込みに埋もれるようにしゃがみこみ、膝に顔を押し付けるようにして泣いていた。
足音に気付いたのか、佳奈ちゃんの肩が揺れる。
「笑いに来たんですか」
涙に濡れた声。それ以上近づいてくれるなとばかりに険のある言葉に足がすくんだ。




