メニュー31 伝説の料理長
ひとあし先に春休みとなったのりこ先輩は、ある日の夕方、私の働くカフェ・プリマヴェーラに来ていた。
本人が居ないのでまたまた呼び名をお兄さんに戻したあの人は、すでにフランスの地を踏んでいることだろう。
のりこ先輩は、気の抜けた顔で春子さんが作ったチーズケーキをちびちびと崩しながら、ロイヤルミルクティーを飲んでいた。そのあまりにも魂の抜けた様子が少し心配になる。
「のりこ先輩、空港までお見送りに行ってきたんですよね」
どうでした?
のりこ先輩は突然夢から覚めたみたいに、はっとして、それから元気なく笑った。
「うん。いつもの調子で……ね。『それじゃ、いってくる』って、行っちゃったよ」
右手を肩まで上げて誰かさんの真似をするのりこ先輩。
あまりにあっさりとした別れに、のりこ先輩の中の何がが揺らいでいる、そんな気がした。
失恋したわけでなく、お互い片想いのままのこの距離は余りにも遠い。お兄さんものりこ先輩の事が好きなはずなのだから、一緒に付いてきてくれはともかく告白とか約束とかあるもんだと思っていたのに。
ああもう! こんなにお兄さんのこと思ってくれる素敵な人はもういないんですからね!
のりこ先輩が短大に行ったら、きっとまたモテモテなんだから!お兄さんなんてのりこ先輩に振られちゃえばいいんだ。余裕があるのかなんだか知らないけど、いつまでものりこ先輩の気持ちがお兄さんに向いてる確証なんてないんだからね!
こんなに苦しい思いをするならお兄さんなんかやめて金剛寺先輩と付き合って欲しかった。あの先輩なら何だかんだでのりこ先輩の事を大事にしてくれそうだし。
でも、恋はそんなに単純なものじゃない……ううん、むしろ単純。あの人でなくちゃダメなんだ。どんなにたくさんの人に好きだと言われても、あの人しか選べない。
その気持ちが分かるだけに、何にも言えなくなってしまう。
「遠いなぁ……」
のりこ先輩がテーブルに突っ伏して一言呟いた。
胸がシクンと痛んで、かける言葉も見つからず、そっとテーブルを離れた。
◇◇◇◇◇
春休みに入り、いつもは入らない平日の昼間もシフトに入る。そんなある日【カフェプリマヴェーラ】に新しい店員さんが来た。20代の男のひとだ。
「美晴ちゃん、新田寿です。色々教えてね。よろしく」
「よろしくお願いします」
人懐っこそうな笑顔で新田さんの目が細くなった。白いシャツと黒いパンツの制服が似合っていて、茶色のギャルソンエプロンを低い腰の位置で締めている。腕まくりした白いシャツの袖から覗く腕が太くて……たくさん載せた重いトレイを運べるんだろうなぁと羨ましく思う。手も大きくてゴツゴツしていて、男っぽい。そんな手で……。
「美晴ちゃん、ちっこくて可愛いね」
のわっ!
子どもにするみたいに頭に手を置いてぽんぽんとされる。私、高校生なんですけど!
でもその優しい笑顔にちょっとだけお兄ちゃんとかいたらこんな風なのかなと考えてしまう。なんだか恥ずかしいような、胸がくすぐったいような気持ちになった。
新田さんは大学生なのかな。いつシフトに入っても新田さんがいる。軽食の調理も手際がいいし、ホールもスマートにこなす。それに人懐っこい笑顔と接客が見事で昼間は主婦さん、夜はOLさんと新田さんのファンが出来てきているようでお客さんも増えていた。
「美晴ちゃん、おうちは飲食店やってるの?」
「いえ。……どうしてですか?」
「うん? お客さんをよく見てるなぁと思ってね。お冷やも切れさせないし、注文の順番も誰が頼んだオーダーかも覚えてるみたいだし」
「そうですか……? あまり意識してなかったんですけど」
「お冷やもレモン水にしたり、ミント水にしたり美晴ちゃんがアイデアを出したって聞いたけど?」
「あ、はい。浄水なのでカルキ臭消しは要らないんですけど、楽しいかなと思って。春子さんにアイデアを採用して頂いたので」
「将来はカフェをやってみたいの?」
「し、将来ですか?」
「そう。高校生ならもう将来の進路は照準合わせていかなきゃいけないお年頃だろ?」
なんとなく大学を出て、と思っていた曖昧な考えを舌に乗せるのをなんとなく躊躇してしまう。だから、伝票を手に立ち上がりかけたカップルの行動に正直助かった、と感じた。
「……っと。わ、私、レジしてきますっ」
「俺が行くからいいよ。テーブル片付けておいてくれる?」
「はい。分かりました」
にこやかに私の動きを制してさっさと新田さんがレジ前に立ったので、トレイとテーブル拭きを手に片付けに向かった。
カラカラ、カラン。
新たな来店を知らせるベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
ピラティス帰りと思わしきマダムの団体が来店し、日替わりランチ10人前のオーダーが入った。しかもデザートセットで。おかげでホールも厨房もただしくなって、進路の話はうやむやとなった。
新田さんが片手にランチプレートを二枚、もう片方に一枚持ち、颯爽とマダム達のテーブルへと運ぶ。
私は精々片手に一枚ずつが関の山だ。
新田さんは、デザートプレートなら片手に三枚は持てるよ、と言っていた。
新田さんがサーブすると、商店街の中の喫茶店が、表参道のカフェかパリのカフェのような錯覚を覚えるから不思議だ。
見習いたいけどどこから見習ったらいいのか、見当もつかない。とりあえず溢さない、崩さないように堅実にこなそう。身の丈に合わない挑戦をするのは今じゃないはずだから。
カラカラ、カラン。
新たに来店を知らせるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
声をかけるとそこにいたのは咲くん。入り口近くのソファに座った咲くんにお冷やとお手拭きとメニューを持っていった。知っている人が来ると、お店の人の顔をしなきゃいけないだけに面映ゆい。彼氏ならなおさら。
「いらっしゃいませ、咲くん。今は休憩中?」
「そう」
春休み中はお店のお手伝いに駆り出されまくっている咲くん。おうちでも昼食を出して貰えるはずなんだけど、二日に一度はこうしてお昼ごはんを食べに来てくれている。
「日替わりスパゲティ、ドリンクセット、コーラーで。美晴は今日何時に終わるの?」
「えっとね」
伝票に注文を書きながら、答えようとしたら声が重なった。
「お客様、ナンパは遠慮願います」
「新田さん」
この人は違うんです! と言い訳しようとしたけど、新田さんは咲くんを見てにやにやしているし、咲くんは新田さんを見て驚いた顔をしていた。どうやらお互い面識があるみたい。さっきのは冗談……だったのかな。
「お久しぶりです。新田さん。伝説の……料理長」
「ははっ。その呼称懐かしいね」
咲くんが腰を上げながら挨拶するのを新田さんはやんわり座ったままでいるように促して、くすぐったそうに笑い声をあげた。
咲くんが話に付いていけていない私を見て、興奮を隠せない口調で言う。
「新田さんは料理倶楽部の歴代部長のなかでも伝説になってる人なんだ」
「昔の話だよ。それに社会に出たらどれだけ井の中で蛙の王様をしていたか、思い知らされたよ」
ともかく店員が固まって話をしているのも何なので、カウンターに先に戻った。話し込みながらゆっくりペースでお食事していた団体さんに、食後の飲み物をお出しする頃合いだったのでお湯を沸かし始める。
ふわりとコーヒーの香りが店内を包む。同時に茶葉を入れたティーポットに沸かしたてのお湯を注ぎ、グラスには氷を入れてコーラーを注ぐ。コーヒーをカップに注ぎ分け、団体さんに給仕するとカウンターに新田さんが戻っていて、日替わりパスタの注文の調理を始めていた。
それを見てサラダ用の小鉢にちぎって洗ってあるサラダを盛る。パイナップル果汁を使ったドレッシングは新田さんレシピなのだそうだ。味見させてもらったけどとても美味しかった。それにカリカリのジャコと胡桃をトッピングする。
「玉野君と何の話をしていたか、気になる?」
新田さんが茄子とベーコンのトマトパスタの皿を手ににっこり笑う。
思ってもいなかったことなので首を横に振った。
「そうなんだ? ま、いいや。さ、日替わりパスタあがったからよろしくね」
笑顔で見送られ、週刊漫画雑誌を読んでいる咲くんのテーブルへ注文の品を運んだ。




