メニュー23 はじめてのアルバイト
第29部 ねこまんま食堂のまかないメニュー10に登場したカフェ【マゼラン】の屋号を諸事情により【カフェ プリマヴェーラ】に変更致しました。
「ここ……?」
お兄さんに指定された場所は、ミツバ商店街の中にある【カフェ プリマヴェーラ】だった。
外壁に取り付けられた看板の店名を確かめると、こじんまりとしたミニケーキのようなそのお店は、確かに【カフェ プリマヴェーラ】で、二階のベランダ部分には季節の花がハンギングプランターに植えられている。あれはシクラメンだろうか。赤、濃いピンク、淡いピンク、白と華やさなドレスを着てワルツを踊っているかのように咲いていた。
艶のある焦げ茶色のドアには鈍く光った金色の取っ手が付けられていて、ドアを開けるとカラカラランと涼やかな鐘の音が鳴った。
正面には艶やかなチョコレート色の木製のカウンターがあって、左側には寛げそうなソファとローテーブル。同系色のテーブルとチェアがゆとりをもって配置されている。
出迎えてくれるのは、焙煎した珈琲の香ばしい匂いと、「いらっしゃいませ」とカウンターの向こうで微笑むお姉さん。
どこか大人の空間を感じさせる落ち着いた雰囲気の店内に完全に気圧されていた私に、「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」と、店員さんは優しい笑みを湛えた。
店員さんは銀のお盆に水の入ったグラスと個包装された布のおしぼりを載せて、私がどこかの席に落ち着くのを待っているみたい。
一人だしソファ席は申し訳ない気がして、2人掛けのテーブル席にあわあわと腰をおろした。
つい物珍しくてキョロキョロと店内を落ち着きなく見回してしまいたくなる。
シンプルで落ち着ける雰囲気の店内。壁にはさりげなく絵が飾ってあったり、雑貨が飾られていて、なんて素敵なんだろうと思う。
「待ち合わせですか?」
店員さんが笑顔で話し掛けてきてくれた。
お姉さんはメニューと水の入ったグラス、おしぼりをテーブルに置いた。
「は、はい」
「それなら注文は揃ってからの方が良いかしら」
「はい。それで……」
「かしこまりました」
にこっと微笑んで店員さんはカウンターへと戻っていった。
メニューは、小さなアルバムのようになっていて、コーヒー屋さんなのだから当たり前なのかも知れないけど、コーヒーだけでも何種類もあった。どう違うのか名前を見ても分からないけど。
まだ馴染みのある紅茶でさえ、聞いたことのない銘柄が幾つもあった。そしてソフトドリンクが続き、次のページにはランチメニュー。
挽き肉と季節の野菜カレーに、日替わりランチプレート。電話帳のようなボリュームのオムレツサンドイッチに、カツサンド。
どれも美味しそう~。
最後の見開きページはデザートのページなのだろう。日替わりケーキ、日替わりタルト、チーズケーキ。どれもドリンクとのセットメニューもあるらしい。
日替わりのケーキとタルトには写真が載っていなかった。
それにしてもコーヒー、紅茶一杯が平均500円前後だなんて!
やっぱり喫茶店って大人向けのお店なんだなぁと財布の中身を気にしてしまう。
ケーキセット食べたいけど、これを食べちゃうと帰りにお買い物ができない。
【前田青果店】で大根を買って、【魚辰】さんで鰤の切身を買おうと思ってたからガマン、ガマン。
あ、でもさすがに何も頼まずには帰れないよね。
倶楽部終了後、咲くんはのりこ部長に呼び止められてしまっていた。「遅くなるから先に帰ってて」と言われたんだけどね。
それでも勝手に待っていようと思った矢先に受信したのは咲くんのお兄さんからのメールだった。
ーー下校後、例の用件でミツバ商店街内【カフェ プリマヴェーラ】に来てくれ。
う~ん、やっぱりはっきり断っておこうと思って来ちゃったんだけどね。
簡潔なお兄さんからのメールをもう一度確認していたら、カランと金属の出す小気味いい音がして、人が店内に入ってくる足音がした。
「遼くんいらっしゃい」
「春子さん、お邪魔します」
お姉さんの『遼くん』の言葉に振り向くと、はたして咲くんのお兄さんだった。お兄さんも柔和な笑顔で春子さんと呼ぶ店員のお姉さんに挨拶をする。
そして座っている私に気づいて、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「もう来ていたのか。……下校途中の寄り道は校則違反だぞ」
制服のままの私を一瞥すると、お兄さんは冷たい声で言った。
何よ~、【カフェ プリマヴェーラ】に来いって言ったのお兄さんなのに。
お兄さんは先に家に帰ったのか、コートを脱いだ下からは、白いシャツと黒の細身のパンツが現れる。
私服だ。
むー、コートの上からじゃ分からなかった。
「すみません……」
「まあいい。今回は注意だけだ。呼び出したのはこちらからだしな。次回からは一度帰宅するように」
「はい……え! 次回!?」
「当たり前だ。前にした約束を覚えていないのか」
「……それのこと何ですけど、私やっぱり……」
「チョコレート菓子は何を作る?」
ああ~、もう!
全然話聞いてくれないよぅ。
そんな私たちの会話をニコニコと聞いていた春子さんが、お兄さんの前にお冷やを置きながら会話に入ってきた。
「遼くんが話していたのはその子なのね」
「はい、そうです」
「お名前何と言ったかしら」
春子さんが私に視線を合わせて訊ねる。
「渡瀬美晴、です」
「そう。美晴ちゃんね、本当に助かるわぁ、宜しくね」
これが漫画なら私の頭の上にたくさんの『?』マークが浮かぶのが見えるだろう。それくらい私はこの二人が何を言っているのか分からなかった。説明を求めて二人を代わる代わる見つめると、それに気づいたお兄さんが口を開いた。
「渡瀬のお菓子作りの特訓のためにここの厨房をお借りした。その代わり渡瀬にはここでバイトをして貰うのが条件だ」
「は……はぁ?」
「ここの方がお菓子作りに適した設備は整っているし、俺もここで菓子製造補助のバイトをしているから問題はない。材料費はもちろん君持ちだけどな」
「製造補助だなんて。遼くんの作るケーキとタルトはとても好評なのよ?」
春子さんがニコニコして会話に混ざる。
「あくまでここの製菓衛生師も食品管理責任者も春子さんですから、僕はしがないアルバイトでありお手伝いさせて頂いているだけです」
春子さんが苦笑いしながら、少し肩をすくめた。
「とにかくホールで接客をしてもらうアルバイトの子を探していたの。遼くんからアルバイトを探している女の子がいるから紹介するって聞いていたのだけれど、その調子じゃ聞いてなかったのね」
「あ、はい」
「どうしてだ? のりちゃんから渡瀬がバイトを探しているってことは聞いていたんだが。料理は壊滅的だが接客は出来るだろう? 愛想が良いのが渡瀬の取り柄じゃないか」
お兄さん……褒めるのか貶すのかどちらかにしてください。
「愛想がいいって、取り柄って!?」
ジトッと窺う目付きになっていたのだろう。お兄さんが無表情のまま当然のように言った。
「文化祭で接客していただろう」
「見ていたんですか!?」
「当たり前だろう。僕は生徒会役員だから会長と視察に回っていたさ」
「遼くんのお墨付きなら間違いないわね」
「ちょっと! 私、まだっ!」
「咲と付き合いたいんだろう? 接客ぐらい出来なくてどうする。咲は【ねこまんま食堂】の大事な跡取りだ。生半可な覚悟で彼女になろうとするのなら僕は君を排除する」
はぁ~?
なにそれ、なにそれ、なにそれ~!!
もう彼女だもん!
排除するって何様なのさ~。と、心の中で言い返してみる。
そこまで言われて引き下がれない。やってやろうじゃないのよ~! そしてお兄さんに咲くんの彼女だって認めさせてやるんだからっ。
「春子さんっ! ふつつかものですが、よろしくお願いいたします!!」
ぐりんと振り向いて春子さんの方を向くと、勢いよく頭を下げた。
バイトを探していたのは本当だし、雇って貰えるなら嬉しいのは間違いない。
「まあ! 本当!? 嬉しいわ。こちらこそよろしくね」
ぱぁっと綻ぶように春子さんは笑うと、雇用の為の書類とウェイトレスの制服を用意しにカウンターの奥へ消えた。どうやらその奥に従業員専用のスペースがあるみたいで、春子さんの後をお兄さんが付いていく。
「メイド姿もなかなかでしたよ」
「まあ本当!? 楽しみだわぁ」
と、そんな声が聞こえてきた。
ちょっと待って!!
お兄さん、何を吹き込んでるんですかっ!