メニュー09 まどろみとおかゆ
『渡瀬美晴ちゃんが保育中にお熱を出しまして……ええ、38度ありますので、お迎えに来ていただけますか?』
大好きだった副園長先生の声が聞こえる。
父も母も働いていた私は、0歳から保育園に通っていた。
朝からなんだか身体がいつもどおりじゃなくて、おかしいなぁと思っていた。
大好きなブランコも楽しくなくて、涼子ちゃんとのお人形遊びも気分が乗らなかった。
いつもなら美味しく感じるお給食も、美味しくなくて……。
そんな私の異変に気付いてくれたのは副園長先生。
担任の先生はイタズラっ子の男の子にかかりっきりで、私も迷惑を掛けたくなくて、体調の不良を訴える事もしなかった。
『あら、みはるちゃん、しんどい?』
副園長先生が膝を折って、目線を合わせてくれる。
この人になら言ってもいいんだ、そう安心できた。
こくんと頷くと、副園長先生はにっこり微笑んで、『おうちのひとが迎えに来てくれるまで、先生のお部屋で待とうか』と言ってくれた。
先生のお部屋にある簡易ベッドに横になりながら、お仕事をする先生たちを見るともなしに眺める。
目を瞑れば、聞こえる電話の音。
応対する副園長先生の声。園長先生が机に座って何かを書くボールペンの踊る音。
先生のお部屋に用事で入ってくる先生たちも、一言『みはるちゃん、大丈夫?』と声を掛けてくれる。嬉しくて、余計に心細くて、涙が溢れた。
おかあさん、来てくれるかな。
お熱を測られるのは嫌い。だって、体温計を脇に挟んだら、じっとしていなさいって怒られるから。
でも、副園長先生は体温計を挟んだ腕に優しく手を添えながら、むかしばなしをお話してくれた。お話に夢中になっている間に、ピピピと体温計が鳴って、あっという間に5分が過ぎる。
『みはるちゃん、お熱があるわね。しんどかったね』
にこりと優しく微笑む副園長先生の笑顔が大好きで、恥ずかしくて、コクリとしか頷けなかった。
『みはる、おばあちゃんとお家に帰ろう』
保育園に迎えに来たのは母ではなく、夏休みに電車を乗り継いで遊びに行くおばあちゃんだった。
……やっぱり、おかあさんは来てくれないんだ。
通園カバンをおばあちゃんに持って貰って、靴を履く。
副園長先生に頭を下げて挨拶をしているおばあちゃん。
保育園のお庭の葉っぱが赤色や黄色や茶色に色づいて、今日はそれでお姫様ゴッコをするつもりだったのに……。
駅から保育園までタクシーで来たのであろう。チカチカとライトを点滅させて待っていたタクシーに乗り込む。芳香剤と皮のシートの混ざった臭いが、より一層体調を悪くさせてくる。
ぐったりとおばあちゃんに寄りかかって……気がつくと家に帰っていた。
来年入学の為に調えられた子ども部屋の自分のベッドに、自分でパジャマに着替えて横になる。
たまにしか来ないおばあちゃんには、迷惑を掛けられない。
――自分で出来る事はしないと。 もうお姉さんなんだから。
おかあさんの声が聴こえた気がした。
冷たいタオルが額に乗せられて、気持ちいい。
「おばあちゃん、ありがとう」
布団から目だけを出してそう言うと、おばあちゃんはにっこり微笑んでくれた。
◆ ◆ ◆
うっすらと目を開けると、見慣れない木目の天井があった。
「あ、美晴ちゃん。気分はどう?」
南部長は6畳間の和室の壁際に置かれた低い卓袱台でノートやら参考書やらを広げていたようだった。
部長がずっと付き添ってくれていたんだろうか?
ということは、ここは南部長の家?
「ご迷惑おかけしてすみません……」
「いいのよ、それよりおうちの方に連絡が取れなくて」
「あ……両親働いていて。母は20時くらいには帰ってきますから」
「そうなの。それなら20時くらいにおじさんに送って貰うわね」
おじさん? どこのおじさん?
「起きたのか」
咲くんがいつもの不機嫌そうな表情で、ふすまを開けて入ってきた。
布団の上に身体を起こして座っている私の横に膝立ちになると、熱を測るように額に手を当てた。その手が頬に当てられ、首筋に当てられる。
はわわっ、熱がぶり返しそう。
「熱が下がってるか分かんねぇ」
「あのね、文明の利器を使いなさいよね」
「そんなものねぇよ」
「そんな訳ないでしょう? おばさんに聞いたら?」
南部長が苦笑して咲くんに助言をしてくれる。
「あの、ご迷惑お掛けしました。少し楽になったので帰ります」
起き上がろうとする肩を咲くんに掴まれて引き留められた。
「送っておくからそれまで寝とけ」
「車を出すのはおじさんでしょうが」
「俺もついていく」
あの、あの……。
蚊帳の外に出されて話が進んでいく。
その時。
クルルル……。
小さな虫が鳴いた。
プッと咲くんが吹き出して、私の顔は真っ赤になった。
「待ってろ。何か作って来てやる」
立ち上がった咲くんは、ふすまを開けたままにして出て行ってしまった。
和室の横はキッチンで、4人用のダイニングテーブルの向こうに彼は立った。
一人用の土鍋に洗ったお米と水を入れて、火にかける。
クツクツと小さな土鍋が音をたてて、お米の煮える甘い香りが漂ってきた。
コトコトと炊かれ柔らかくなったお粥は、お米が潰れずにさらっとしている。
梅干しと塩コンブ、ダシ巻き玉子が2切れ小皿に乗せられ、添えられていた。
お茶碗にとったお粥をレンゲで掬い、ふうふうと息をかけ冷ます。
……と、ここまでの事をしているのは、咲くん。
いや、この前も思ったけど、そのくらい自分で出来ますよ?
私、ちっちゃい子じゃないし……。
この前、お兄さんが自分を子ども扱いするって怒ってたのは誰ですか?
3歳児扱いしてるのはどっちなのよ……。
「ほら」
「あ、ありがとう」
手を伸ばしてレンゲと茶碗を受け取ろうとしたら、すいっとそれらは離れていった。
再度、顔の前にレンゲが近づいてくる。
うう~。 これはやっぱりアレですか?
また“あーん”なのですか?
「私、お邪魔みたいなんで、店手伝ってこようかなっ」
南部長がニヤニヤしながら広げていた教科書を鞄に仕舞い、そそくさと階段を降りて行った。
ああーー!!
部長行かないでぇ~!!
クゥルルルル……。
お米の甘い香りにダシ巻き玉子のダシの香りが鼻腔をくすぐる。催促をしてくる腹の虫にがっくりと項垂れながら、覚悟を決めて差し出されているレンゲに恐る恐る口を近づけた――。
ーー美味しい。
お米の甘さが優しい。とろりと飲み込みやすいのに、糊でどろどろしていない。
お米とお水だけなのに、こんなに美味しいなんて、反則だよ。
「……美晴、俺のメシが旨すぎて感動したのか」
にやりと偉そうに笑みを浮かべる咲くん。
素直にはなれなくて、目に溢れた水を手のひらでゴシゴシと擦った。
「一口だけじゃ、わかんない」
催促する鳥の雛のように口を開ければ、また吹き冷ましたお粥を口に運んでくれた。
咲くんは優しい。でも、私にだけじゃなくて、みんなに優しい。
それが苦しくて。
どうしたいんだろう
どうなりたいんだろう。
ドキドキするのは、私だけなの?
このドキドキする気持ちの名前は……。