ねこまんま食堂のまかないメニュー その5
前話の続き。美晴ちゃんが寝ているので、閑話扱いです。
咲、咲の母、咲の兄の順でお送りします。
美晴の身体から発熱による熱が伝わってくる。
おぶさった背中から、首に巻き付いた腕から、微かに首や頬にかかる息から。
不謹慎とは思いつつも、健全な少年である玉野咲は二つの膨らみが背中に当たる感触を意識していた。
両脇に抱えている美晴の膝裏を支える手に力を入れる。
ミツバ商店街のアーケードから脇道に反れ、裏道に入る。
2階建てから3階建ての商店が集まって構成されるミツバ商店街のほとんどは、2階部分以上の階層に家族が住んでいた。ねこまんま食堂も多分にもれず、裏通りから入った2階部分が住居となっていた。
片手を外し鍵を開けると、直ぐに現れた階段を上る。
おっと、コイツの靴も脱がせなきゃな。
器用に指を引っ掛け、華奢な黒皮の靴を下に落とす。
内鍵を掛けて、美晴を背負ったまま階段を上った。
「あら、咲。帰ったの?」
店と通じる暖簾をかき分け、重量級の母親が階段を上ってくる音がする。
ちょうどよかった。
今になって、兄貴と一緒の部屋の二段ベッドには寝かせられないことに思い至る。しかも自分は上の段だった。下の段の兄貴のベッドに寝かせるのは言語道断である。
「ただいま。布団敷いて」
「布団? あんたの部屋はベッドでしょうが」
不審げに返事をしながら上ってきた母親は、両親が寝起きしている和室の真ん中で女の子を背負ったまま立っている自分を見て驚いた。
「あれあれ、美晴ちゃん……どうしたの?」
「コイツ学校で熱出して帰そうとしたんだけど、家に誰もいないから帰るの嫌だって言いだして、仕方ないからうちに連れて帰ってきた。夕方、のり姉がコイツの家に電話してくれるから、それまで置いてやって」
「はいはい」
◆ ◆ ◆
玉野桃子は、押し入れから布団を出して敷き、新しいシーツを掛けながら、お節介過ぎるほどに美晴を気にかけている息子の様子に、呆れ半分の忍び笑いを漏らした。
「学校の先生に言って、親御さんに連絡取って貰った方が良かったんじゃないのかねぇ」
「……そうか」
「そうだよ」
女の子お持ち帰りしてどうすんだい。桃子は優しい子に育ってくれた事に喜びを感じつつ、どこか抜けている息子の将来が心配になる。
枕にタオルを巻き、調えると息子に美晴を下ろすように指示した。
そっと布団の上に下ろされた美晴は、熱が上がっているらしく、赤い顔をして苦しそうな表情をしていた。
額に浮いた汗を水に浸してしっかり絞ったタオルで拭う。
ブレザーを脱がし、ブラウスの第二ボタンまで外して、首筋の汗も拭う。
「あたしがこの子見てるから、咲はお父さん手伝って来て。今日はのりちゃん来ない日だから」
「おう……お袋…………ありがと」
「はいはい」
自分の部屋に着替えに戻った息子を笑顔で見送り、桃子は温くなった美晴の額のタオルを取り換えた。
ジリジリジリ……。
黒電話が鳴っている。
見かけは黒電話だが、時代に合わせてプッシュボタンが付いている。見かけだけレトロなそれは、頑固親父の見かけながらどこかひねくれた物が好きな一家の主の趣味だった。
ジリジリジリ……。
「なんで誰も出ないんだろうねぇ」
熱に浮かされ呼吸は浅いながらも、起きそうにない美晴の様子に、桃子は「どっこらしょ」と口に出しつつ立ち上がった。
1階にある住居スペースと店舗スペースの境にある電話は、商用とプライベートと両方の用事でかかってくる。電話に出ない訳にはいかなかった。
「はいはい、ちょっとお待ち下さいよ」
咲の母は見かけに反して、軽やかに階段を駆け降りた。
◆ ◆ ◆
「ただいま。……なんだ?」
帰宅した玉野遼は、ふすまが開け放された和室に布団が敷かれ、見知った顔がひとりで寝ているのが目に入った。
ふうふうと浅い呼吸を繰り返し、何やらうなされながら、赤い顔をして寝ている女の子。
それは、弟、咲の同級生、渡瀬美晴だった。
兄から見ても可愛い咲は、モテる。
恋愛感情に関しては幼い弟は、周りの女子がどんな目で自分を見ているか分かっていないようだ。
そんな弟に近頃つきまとっている女子がいることを幼馴染の南のりこに聞いた。
生徒会副会長をしている自分は顔が広い。南のりこ以外にも、料理倶楽部の他の部員、野球部の部長、それから弟を「可愛い、可愛い」とちやほやしたがる3年女子からも同様の目撃情報が寄せられた。
弟に彼女ができる事が許せないのではないが、相手がどんな奴なのかは気になる。
自分の眼鏡にかなった奴しか弟と付き合うことを認めないつもりである。
その条件とは、可愛い。優しい。弟の事を本気で愛している。そして、うちの商売にも関わる大事な条件として、料理が上手い事。
百歩譲って可愛いは認めよう。だが調査した結果、渡瀬美晴はもっとも重大な条件を満たせていなかった。
咲は渡瀬美晴と付き合っていないと言っていたが、咲がこの女に気がある様子なのは一目瞭然だった。
そしてこの女が咲のことを意識していることもまた、見れば分かる。
……面白くない。
家庭科の調理実習のテストでさえ一発合格出来ない奴が、将来どうして咲と一緒にこの【ねこまんま食堂】を切り盛りしていくというのだろう。
そういう遼は、この商売を継ぐ気はなかった。
なぜなら、料理の才能は弟、咲の方が優れているからだ。
自分には菓子作りの方が性に合っている。
そう自分で納得できるまでに時間はかかった。
咲がもう兄に構われることを喜び、「おにいちゃん」と自分を呼び、必死で兄の後を追ってくる小さな弟でないことは分かっていた。
長男として生まれ、当然この店を継ぐものと努力してきたことも虚しく、弟の方が才能があると分かったあの日、自分の中で何かが崩れた。
菓子作りを極めることで再構築したそれを、今も大事に抱き続けている。
自分よりも料理の才能のある弟を未だ心の何処かで羨ましく思いながらも愛しく思う。
遼は、昨日作っておいたカスタードプリンを冷蔵庫から取り出すと、竹串でぐるりとカップとプリンの隙間を剥がし、皿に出した。とろりとカラメルが溶けだし、カスタード色のプリンの山肌を流れ落ちる。
その素晴らしい出来に思わずにやりと相好を崩した。
茶色いカラメルの天辺に生クリームを形よく絞り出し、スライドさせればバラの葉っぱのように見えるように飾り切りを施したリンゴ、星型に抜いたキウイ、果実部分だけを切り出しバラの形に模したオレンジ、咲き初めの薔薇の蕾のように飾り切りしたイチゴも盛り付ける。
喫茶店で客に出しても遜色ないプリン・ア・ラ・モードの出来上がりである。
これらの労力の全ては自分の為。
家族にご馳走することはあっても、他の者に知られてはならない。
この僕が食すのみならず、自分で菓子をも作れるスイーツ男子だということは。
「おかあさんっ……」
「……」
なにやらうなされている様子の渡瀬美晴の額のタオルを換えてやる。
そもそも弟との交際を認めない、認めたくないというだけで、ただのか弱い女子に過ぎない。
首すじに汗で髪が貼り付いている。白くて滑らかな肌は、今は熱で上気してピンク色になっていた。
暑いんじゃないのか?
肩までしっかりと着せられた掛け布団をめくると、すうっと安らかな顔になる。
が、第二ボタンまで肌蹴られたブラウスから覗く汗に濡れた鎖骨はなまめかしく、汗ばんでいる肌からは甘い香りがする。
母以外は男だらけの家で育った18歳の少年には刺激が強かった。
さっと目線を外して掛け布団を剥いだまま、渡瀬美晴から離れる。
「……ありがとう、おばあちゃん」
誰がおばあちゃんだ。
……結構ムネがあったな。
脳内に残る残像を追い払うように、やや乱暴にスプーンを手に取る。
プルンと可憐に揺れるカスタードプリンに舌鼓を打ち、一人幸せの時間に浸ることにした。