一転 「異世界に生まれるという事」
不定期更新ですが、よろしくお願いします。
気付いた時には、飯島律子はまどろみの中にあるように、ぼんやりと周囲を認識するようになっていた。周囲の景色やざわめきを知覚したが、靄でもかかったようにそれが何か理解できない。酷く狭まった感覚であったが、寝惚けているからだ、とぼんやりとした意識が答えを出すので、律子は何の不安も疑問も抱く事なく、ごく原始的な欲求に従って、再び眠りの闇に呑まれていった。
そうしてまどろみ、時折意識を浮上させては、また夢も見ない眠りの中に沈んでいくという事を繰り返し、律子は長い時をそうと意識する事もなく過ごしていた。
そんな律子が完全に覚醒したのは、何の変哲もない朝の事だった。
「……………ふぁ…」
小鳥のさえずりに耳を傾けながら、とりあえず身体を起こし、あくびをしながら伸びをする。随分と長い事眠っていたような気がしたが、目覚ましが鳴る前に起きたのだから、何を焦る事もないだろう。と、心に余裕を持って律子は伸び切り、脱力した。
――さて、今日も仕事だ、今何時だろう。
何気なく枕元に手をさまよわせた時、律子は初めて異常に気が付いた。
律子がいたのは、見た事のない部屋だった。
壁紙の貼られていない木の壁、床は踏み固められた剥き出しの土で、天井を見上げれば組み上げられた木の柱とわらが目に入る。
「わらぶきの屋根…だと…?」
動揺した律子の手元で、カサリ、と音が鳴る。
先程から感触はあったが、まさか、と振り返ると、携帯電話を探していた手が、干し草の中に突っ込まれているのを認める。
律子は今一度、己の周囲を見回して愕然とした。
「ちょ……ジャパニーズベッドFUTONが干し草ベッドに勝手にランクダウンしてるのもアレなんだけど、私の身体もなんかレベルダウンっていうか……退化…してるんだけど。手ェ小っちゃ…足小っちゃ…」
見慣れないが己の意志の通りに動く紅葉のような手で、視界に入っていた茶色のものを掴む。
「……ぅおい。カツラじゃないのか。まさかコレ、地毛なのか」
ぴんぴんと引っ張ると、それは確かに律子の頭皮に繋がっているとわかる感触が返る。律子はしげしげとそれ――己の頭髪を見つめた。
律子は生まれてこの方、髪を染めた事など一度もなかった。その理由は単純で、ケアが面倒臭いと思っていたからだ。だから律子の髪はありふれた黒色で、しかし真っ黒というわけでもなく、光に当てたり透かしたりすると焦げ茶に見えるような、ようは日本人として珍しくもない髪色だったのだ。
それが今、どういう訳か、どう見ても黒色には間違えられない、明るい茶色に変貌している。
「……わけがわからん。髪色以前に、なんだ、この幼児体型は」
短い手足を恐る恐る動かし、干し草の寝床から降りてみる。多少ふらつきながらも両の足で立ち、改めて自身を見下ろした。
小さくて短い手足。おそらく2、3歳くらいではないだろうか。あまり肉付きは良くない。暮らしぶりが豊かではないのだろう。それは部屋の様子や、着せられている薄汚れた粗末な服から推察できた。
くらりと眩暈を覚えたがなんとか耐え、ふと思い立って、見下ろしていた身体の一点に手を伸ばす。
「………良かった、付いてない。女の子だ」
心の底から安堵の息を漏らした律子は、そこで干し草のそばに落ちていた靴に気が付いた。動物のなめした皮で作られているようなそれは小さく、ちょうど今の律子の足に合いそうな大きさだ。
少しだけ逡巡してから靴を拾い、干し草に腰掛けようとしてベチャリと尻餅をつきながら、靴を履いた。
裸足で歩き回るよりはマシだろう。思ったよりは頑丈なようだが、尖った石などを踏むと痛そうだ。
そう考えながら履き心地を確認していると、誰かが近付いてくる声と物音が聞こえてきた。律子が隠れる事を考え付くよりも先に、部屋の扉が開かれる。
「――――、――――――? ――――」
大きな声でしゃべりながら部屋に入ってきたのは、見知らぬ女だった。
その女にしっかりと存在を認識され、目まで合った律子は、警戒するでも逃げるでもなく、目と口をぽっかりと開けて、その場で硬直した。
女は今の律子からしてみれば、見上げる程に大きな大人の女だったが、そこに恐怖したからという訳ではない。いや、見知らぬ他人が急接近してきた事も含めて、律子が自分よりも大きな相手に本能的な恐怖を感じたのは事実だが、そうではなく。
「―――! ――――、―――――?」
「……………何言ってんのか、わかんないんですけど」
「――? ――――?」
ぼそりと呟いた律子に、相手も意味が分からなかったのか、怪訝そうな顔をして身を屈めてきた。律子は言葉を繰り返す事なく、ただ口元に笑みを浮かべてこれに応えた。
どうしようもなく困った時は、なぜか無性に笑えてしまうのだ。ただ、今の笑顔は引き攣っているかもしれない、と思いながら、それでも律子は笑みを貼り付け続けた。
女の話す言葉が、律子が唯一習得している日本語でなかった事は、凄まじい衝撃を律子に与えた。だが、わからずとも頑張って聞き取れば、単語で大体の意味は測れるかもしれない。そう瞬時に思って、律子は己を奮い立たせて耳をそばだてたのだが、しかし女の話すそれが聞き覚えのある英語ではなく、そこはかとなく覚えのあるフランス語やスペイン語でもないとわかると、二度目の衝撃が律子を打ちのめした。現状の意味がまるで分からないのに、その説明を求める事も、受ける事もできないのだ。当然、こちらの事情を説明する事も出来ない。
どうしろと……と干し草のベッドによろめきながら舞い戻ろうとした律子の頭を、寸前で女が掴んで引き止めた。
「―――――!」
やはり何を言っているのかわからない。しかし女は律子が理解する事を求めていないのだろう。返事も待たずに律子を小脇に抱えると、のっしのっしと歩き出し、部屋から出てしまった。
部屋を出るとそこは外で、青い空と緑の山々、そしてのどかな村の様子が見て取れた。
家はほとんど木造で、屋根はわらぶき。アンテナや電線の類は一切見当たらない。地面は舗装などされておらず、少しぬかるんだ道を、人に交じって馬や牛が荷車を引きながら歩いている。
どう見ても田園広がる日本の村ではない。
絵画や映画で見た覚えのある、中世ヨーロッパを思わせる村だ。
行き交う人々は黒髪、茶髪、金髪、赤毛に、青や緑色までいて色彩豊富。顔立ちは全体的に彫りが深く、体格も見慣れた日本人のものより大きいようだ。着ているものは、やはり絵画や映画で見た覚えのある農民のような服で、律子が今着ているもの同様に粗末で着古した感が強く、何より衛生的にきれいではない。
――どこなんだろうか、ここは。
勢いの死んだ目で辺りを見回し、大人しく運ばれながら、律子は思った。
歩くに合わせて己の腹回りを圧迫する腕に視線を移し、その持ち主をそっと見上げる。
――誰だろう、この人は。
年の頃は20代か30代か、そこらだろう。日焼け止めなどのスキンケアをしていないのか、律子を抱えた腕にも顔にもシミが浮かび、薄汚れている事もあって老けて見える。髪は今の律子と似たような茶色で、多分目の色はもう少し濃い茶色だ。
女が視線に気付いてこちらを向く事を恐れ、律子はそっと視線を地面に落とした。
――私はどうして……どうなってるんだろう。
見知らぬ場所、幼い身体、見慣れぬ髪色、未知の言語。
目覚めてからのあり得ない事象の連続を、冷静に受け止めているようで、実は律子は全然冷静などではなかった。周囲の環境の変化と己の変化を認識した時から、その内心は大いに混乱していた。ずっと動揺は治まらず、混乱に混乱を重ね続けていたのだ。そう見えなかったのは、単に律子が、窮地に陥った時に泣きわめくタイプではなく、行動や思考を停止してしまうタイプだっただけの話。
悲鳴を上げる事も、泣きわめく事もせず、暴れたり逃げ出したり癇癪を起したりするような事もなく、大人しく運ばれた律子は井戸の前で下ろされた。女の手で乱暴に顔を洗われる。
井戸の水は冷たかった。顔をぬぐう布は硬くて、あまりきれいではなかった。
それでも幾分スッキリしたような面持ちになった律子は、今度は女に手を引かれて歩かされる。歩きながら律子は、固まった表情で首をひねった。
――……どういう事なの。何が起こってるの。今度はどこへ向かうの。
疑問は尽きる事なく浮かんだが、凍りついた頭で答えに辿り着く事はない。
ぐるぐると空回りする思考に支配され、沈黙する以外の行動を忘れた律子は、解決の糸口を何一つ見つけられないまま、ただ静かに引きずられていった。
そんな調子だったから、己が異国ならぬ異世界に生まれ変わり、すでに第二の人生を歩み始めており、己の世話を焼く女が今生での生みの親だと律子が気付くのには、およそ一カ月の時を要した。
王道とは程遠い地下道をさまようイメージで、剣と魔法のファンタジー世界を一人旅する少女の物語となります。
「少女と現地人(ただしイケメンに限る)」ではなく、「少女と異世界(ただし日陰)」という具合で、散歩よりは刺激的だけど、冒険というには物足りない、そんな色気のない話になる予定です。