1-始まりの選択
暗い…此処はどこなんだ?
まるで海の底に沈んでいくかのような錯覚と共に途切れていた意識が次第にはっきりと覚醒しゆく。
イヴィは…俺は今どうなってるんだ?
そう思い、周囲を確認するかのように見渡すが、何処を見ても広がるのは暗闇のみ。そんな不気味な空間に俺は漂うかのように浮かんでいた。まるで現実味のない空間に多少驚きはするものの、それを表に出すことはない。否、普段ならば多少は取り乱していたかもしれないが、今はそんな感情を抱くことも出来ない。まるで何か別の力に引っ張られるかのように意識が薄まっている。
そんないまいちはっきりとしない意識の中、先程の事をふと思い出す。
血と炎と死体で埋め尽くされた戦場で俺は俺が殺した兵士が握っていた一枚の写真を見て…。
「ッ…!」
頭が酷く痛む。俺が先程抱いていた感情を思い出そうとすると、酷く頭が痛む。まるでその感情を忘れ去ろうとするかのように、無理やり頭の中から消し去ろうとするかのように。
あんな感情を抱いたのは何時以来だったのか。そんな事すら分からない。俺は只組織の操り人形の如く、ただ命令に従い、生きてきた。そうする事で、俺の大切なものを守れると思ったから。自分で考える事を放棄し、只言われるがままに生きてきた。
-…ますか?
…なんだ?
-わた…しの…ますか?
突然頭の中に響く鈴の音のように綺麗な女性の声。イヴィの声ではない、聞いた事もない女性の声。
-私の声が聞こえますか?
頭の中に響くと言う点ではイヴィの力を似通っているが、その声はどこかイヴィのそれとは何処か違っていた。
-私の声が聞こえているなら答えて下さい。どうか…どうか…私達をお救い下さい!
「一体何を言っている?」
俺はこの声の女性にそう返したつもりだが、それに対する返事はない。
…答えて下さいと言っておきながら一方通行なのか?それとも何か方法が違うのか?そんな疑問が浮かび上がるが、その答えが分かるわけもなく、脳内に再び女性の声が響く。
-私達にはあなた"達"が必要なのです!どうか…私達の勇者となってください!
勇者。
女性が悲痛な声で叫んだ一つのワードに俺は目を少しながら見開く。
突然意識が途切れたかと思えば次に目に映ったのは奥がない暗闇の空間。そして突如響く女性の声。そして勇者。
自分でも自分の身に何が起こっているのか理解できなかったが、そんな事どうでもいいと思える程に…俺は心の中で笑みを零した。
こんな謎の空間に来たかと思えば勇者になってくださいか…勘弁してもらいたい。俺に勇者?俺が他を救う?こんな質問考えるまでもない。返答なんて決まっている。
「俺が勇者?冗談じゃない。断る」
明確な意思を込め、力強くそう断言した。
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「…なんだったんだ?」
俺があの謎の女性の声に力強く否定の意思を提示した瞬間、突然画面が切り替わるかのように、あの暗闇の空間は消え去り、俺の目の前には緑一色の草原が広がっていた。
一体全体どう言う事なのか…理解できないが、少なくとも常識の範疇じゃ考えられない出来事が起きていた事だけは理解出来る。
(ジン!)
そう先程の事について考えていると今度こそ、聞きなれた女性の声が脳内に響き渡った。
「俺は…どうなってたんだ?」
(私にも分からない。突然ジンとのリンクが切れたと思えば…今は治ってるけど私にも分からない)
俺とイヴィのリンクが切れた…?有り得るのか、そんな事。だが実際にリンクの主体であるイヴィが言っているのだからまず間違いないだろう。…俺とイヴィのリンクが切れる空間か…今は考えても仕方がない。まずは自分の現状を整理しなければならない。
「イヴィ。此処が何処だか分かるか?」
(それが分からないの。こんな場所、地球の何処にも存在しない)
ふむ。つまりこの景色は地球に存在しない景色だと言う事。何故イヴィが存在しないと言えば俺が素直にそれを信じるのか、それはイヴィの力に関係する事だが、今は地球の地理全てを把握しているとだけ言っておく。
まぁ現状を簡単に言ってしまえば、俺は地球の何処でもない場所にいると言う事になる。あの空間で言われた言葉に更に追い討ちをかけるかのように未知の場所、か。つくづく笑える話だ。
「取り合えずこの周辺を把握しておこう。イヴィ、頼めるか?」
(うん。任せて)
イヴィから了承の返事が返ってくると同時に俺の足元から不可視の力が周囲に円状に広がってゆく。まるで揺らぎの無い水に小石を落としたかのように広がってゆく不可視の力の波紋。何をやっているのかと言えばイヴィの"本体"を周囲に拡散させあたりの地形を把握し、それを俺に"イヴィ"を介して伝える、と言う事だ。これを行えば周囲の地形が把握できるのは当然、どのような生物がいるのかも把握出来、更には地脈と言った地価の空間までも把握出来る。
「…ん?奥の方に何か生物がいるな」
イヴィから伝えられた情報の中に混じっていた多数の生物の反応。
その内容は人間が生きている人間が5人に死んでいる人間が5人。そして見たこともない犬型の生き物が12匹。
人間の方は映像の中で見たことのある西洋の鎧を身に纏っており、その手には過去の産物である鉄の剣が握られている。そんな滑稽な格好をした集団が相手にしているのは犬よりもやや大きく毛並みも黒い俺もイヴィも知らぬ生き物。口からいやでも見える牙は20cmはあるだろうか、サーベルタイガーを思い出させる程のものだ。
まぁ此処まで言えば既に分かると思うが、俺は完全に地球ではない場所にいるらしい。最初のイヴィの言葉で既に分かっていた事ではあるが、どうにも納得出来ないからな…こんな現象は。
取り合えずその事は置いておいてだ、その集団は此処から約2kmほど先にいるが…助けるか?助けた所で俺にくるメリットはあまり無い気もするが…既にここいら一体の形状が理解できている以上、何処に人が住んでいるのかも分かっている。
とは言ったものの、一つ気になる事もある。その鎧を纏った集団が守っている豪華な装飾が施された一つの馬車の事だ。見た目からでも分かるとおり、あの中にはそれなりの地位を持つ人間が乗っていると考えたほうがいい。流石にイヴィの力を使っても、反応があった生き物の中身といったところまでは見ることが出来ないからな。
と、話が逸れそうになったが、状況を考えるにあの集団はあの犬っころから馬車の中の人間を助けていると考えてよさそうだ。…なら俺が助けることによって恩を売るのもいい事ではないか?地位や金を持つ人間とコネクションを持つのは悪くない。
「イヴィはどう思う?」
(ん、私は別にジンがしたい事に従うよ)
「まぁ…お前ならそう言うだろうな」
既に分かりきっていた問答だが、イヴィの了承も一応得たと言う事になるだろうから、今はあの集団の元へ向かう事にした。
-side change-
「くそっ!どうしてこんな時に黒狼が…!」
私達を取り囲むように展開された黒狼の動きに苦虫をすりつぶしたかのような顔になる。
黒狼とは名前の通り、体が黒一色の狼。と言ってもただの狼とは違い、攻撃性が非常に増している。私達騎士ならば一人に対し、一匹程度ならば難なく狩れる魔物ではあるが、目の前にいるのは12匹。今回の護衛で付いてきた騎士は7人。おおよそ二倍になる。
「クリス!黒狼を馬車に近づけさせるな!」
「はい!」
部下のクリスに馬車の周辺を守るように支持し、私は一人で12匹もの黒狼の前に歩みを進める。
本音を言うなれば…今すぐにでもここから逃げ出したい。手に持つ剣を投げ捨て、錘となる鎧を脱ぎ捨て、黒狼に背を向けて逃げ出したい。
しかし、そんな事はできない。後ろにいるのは私の祖国の未来を担う新たなる希望。そしてたった一人になってしまった大切な部下。私がどうしてそれを捨てる事が出来ようか。
臆病な心の迷いを切り捨て、今一度剣の柄を強く握り締める。
「はあああああ!」
心の迷いを捨て去るための咆哮か、自分の奮起させるための咆哮かわからぬ叫び声を上げながら、私は黒狼の中心めがけ、足を動かした。
分かっている。騎士団長と言われた私でも、黒狼12匹を一度に相手どれば死ぬことなど。そして私が死ねば後ろにいる部下と未来も消える事も。
「くっ!」
一直線に振り下ろした剣を華麗に避けた一匹の黒狼が私の首を噛み千切ろうとその大きな牙を魅せつけながら大きく跳躍した。身の危険を感じ取った私はすぐさま体を大きくひねり、後ろにのげぞらせる。
どうにか一匹目の攻撃を避けたが、他に黒狼は11匹いる。そんな黒狼達が私の隙を見逃す筈もなく、次なる一匹が大きな口を開き、飛びついてきた。
すでに態勢が大きく崩れている為に回避をすることは不可能。咄嗟にそう判断し、大まかに狙いを定めた黒狼に対し、剣を力一杯振るった。
大きく振るわれた剣は運がいいのか、黒狼の口を切り裂き、空中で攻撃を受けた黒狼はその態勢を大きく崩し、そのまま地面に倒れこむ。
仲間の一匹が大きな傷を負った事で他の黒狼の間に緊張が走り、むやみに攻撃はしまいと一斉にその動きを止める。そしてジリジリと私との間を縮めるかのように一歩、また一歩と近寄ってくる。
一匹、一匹で襲ってくればまだ時間が稼げたものを…一斉に襲われてしまっては為す術もなく殺されてしまう。
…ここまでか。
「すまない…」
誰に対しての謝罪なのか分からないが、自分でも意識せずに、そんな言葉を発していた。
そんな私の言葉を堺に、11匹の黒狼が全員同じタイミングで地を蹴り、私を確実に殺そうと避ける事を考えず此方に直進してきた。
せめて最後に一匹ぐらいは道連れに…。
そう思い、此方に近寄ってくる黒狼を一匹だけに狙いを定め、剣を一直線に突き刺す。一番早くに私の元に辿り着こうとしたそいつは口から胴体に掛け剣が貫通し、一瞬にしてその生命は消えた。
だがそれと同時に四方八方から飛び掛ってきた10匹の黒狼。剣が一匹の死体に突き刺さっている今、すでに為す術はない。自分の不甲斐なさに表情を歪めながらも、私は…体から力を抜いた。
「お前…運がいいな」
-side change-
「お前…運がいいな」
あの狼もどきに囲まれてしまった時には助けるのは不可能だと思われたが…目の前の女の予想外の活躍のお陰でどうにか助ける事ができた。…そう考えれば運がいいのではなく、この女の実力がいいだけの話か。
とりあえず目の前の女に飛びかかっていた狼もどきを圧縮した空気で押し潰し、脅威となる存在を排除した。
「怪我はないか?」
地面にゆっくりと足を付けながら呆然としている女性の元に近づく。
…ちょっとインパクトが強すぎたかもしれない。と言ってもこいつらを助けるためには空を飛ぶのが一番早かったのだから仕方がない。イヴィの力は殆ど万能に近いが、空間と空間を繋げてワープをするなどと言った事はできない。イヴィに出来るのは物質の変換…と言えばいいのか?厳密には違うが、そう思ってもあながち間違いではないだろう。
「…おい、大丈夫か?」
「あ…あ、ああ」
未だに呆然としている女性に少しばかり呆れながらも後ろの方に視線を向ける。見た感じ馬車の方は無傷だ。その目の前で強張っているもう一人の女にも傷はなさそうだ。
…周囲で死んでいる騎士は仕方がないさ。俺が見つけた時にはすでに死んでいたのだから。
「おい、あの馬車の中の奴らは大丈夫なのか?大切な人なんだろう?」
「!!」
俺に言われ今更気づいたかのような動作をとった女騎士は踵を返し、凄まじい速度で馬車の方へと走っていった。…せめてお礼の一つぐらいは言って欲しいもんだ。まぁ…自分が命の危険に晒されていたのだから仕方がないと言えば仕方がないか。
そんな事を思いながらも俺も馬車の方へと歩みを進める。一瞬だけ馬車の近くで剣を握っていた女が俺の目の前え出てきたが、視線を向けただけで情けない声を上げながら素早く後ろに方へと身を翻した。
…一応俺は命の恩人だと思うんだがなぁ。
少しばかりの理不尽さを抱えながらも、女騎士によって開かれた馬車のなかに視線を向けた。
「っ!?」
中にいたのは3人の男女。
それだけならば何も問題はなかった。問題なのは…そいつらが着ている衣服だ。こいつらが着ている衣服は明らかに元の世界で学生服と呼ばれていた黒一色の制服。一時期俺も身に纏っていた衣服だ。
何時もならば、懐かしいな、程度の感情で済むのかもしれないが、場所が場所で、時が時だ。ここに学生服を来た…日本人がいるのはあり得ない。
そんな俺と同じ出身だとしか思えない三人も俺の方を女騎士越しに見て驚いていた。俺の顔は普通の日本人顔だ。着ている服は黒いロングコートだが、女騎士や後ろで怯えている女とくらべても顔の作りが違うのは一目瞭然だろう。
「貴方も…日本人の方ですか?」
三人の内の一人の男が俺にそう話しかけてきた。見た目からすればおそらく高校三年と言ったところか、随分と物腰が落ち着いている男だ。
「見た通りだ。お前達が思っている通りで間違いないだろう」
俺が彼らと同じ出身だとわかったからか、皆一様に安心しきった顔になる。先程の戦闘で酷く怯えていたのだろう。目の前で人が無残にも殺されていくのだから当然だ。こいつらが俺と同じ日本出身だと言うのならば、どう考えても命のやり取りに関しては無関心なのだから。
「…すまない。貴方も此方の御方と同じ出身の人間なのか?」
と、そこで今まで口を閉ざしていた女騎士が遠慮がちにそう聞いてきた。
「ああ、同じ出身だが…」
「そんなっ!?姫様が呼ばれたのは三人の筈…まさか他の国も…いや、そんな事はあり得ない」
何やら俺の返答を聞き、ぶつくさと呟き始めるが、俺にはどうにもわからない事なので、女騎士の事は放っておき三人組の方に視線を再び向ける。
「お前らはどうやってこの世界に来たか分かるか?」
俺のそんな質問に答えたのは一人の女。黒髪を腰の辺りにまで伸ばし、見た目は美しいがどこか冷たい印象を醸し出している。
「突然私達の脳内に声が聞こえたかと思えば何処か知らない神殿に居た。そっから分けもわからない内に馬車に載せられて今に至る」
何処か口足らずな言葉だが言いたい事は分かる。
状況的には俺と全く異なるが、要するに、あの女の声が原因だと考えるのが必然だろう。…となると俺だけがなぜこんな平原に呼ばれたのだろうか。…まさか最後に否定の意思を示した事が関係あるのか?分からない。
ひとまず俺に必要なのは情報収集だろう。世界を救うなんて事はどうでもいい。赤の他人が死のうが生きようが俺にはまったく関係のないことなのだから。そんな俺だからこそ、この新しい世界で普通に生きるために知識が必要だ。そう、普通に生きるために。
「おい、女騎士」
「っ…なんでしょう」
「俺も一緒に連れてけ」
「当然歓迎します!」
迷いなく帰ってきた言葉には何処か歓喜の色が含んでいた。やはり、この女が言っていた姫様とやらが俺達四人を勇者として呼んだのだろう。だがそれを断った俺は何処か別の場所に飛ばされ、こいつらが言っていた神殿とやらには行かなかった。結局の所出会ってしまったが…俺はこいつらとは一緒にいない。所詮こいつらとの出会いは俺がこの先生き抜くための情報を得るための情報源にすぎない。
…それにしても違う世界か。未だにその実感は沸かないが、悪くはない。其処か寧ろ…。まぁ取り敢えずはどうにかこの世界で生き抜くすべを学ばないとな。