×ban×birth
ある日本当に何の前触れもなく僕は祭のまんこが怖くなる。
僕は祭の性器が普通の男子高校生レベルで好きだったし、僕が高校を卒業してからもずっとべろべろ舐めることができるくらい愛していた。指を突っ込むのだって好きだったし匂いを嗅ぐのも好きだった。写真だってたくさん撮ったし、動画にもおさめたし、なんとなくまんこを見つめながらピロゥトークしてる時もあった。だから僕が祭のまんこを嫌いになることなんてありえない、というか考えたこともなかった。一度そうなってしまうと、僕はどうしても祭とセックスすることができなくなってしまった。祭のまんこ超こえぇよ。すげぇリアルだし、底が見えないし、柔らかいし濡れてるし、肉肉肉の感触の全てがこえぇん。
僕と祭は高校生のくせにかなり退廃的な交際をしていたせいで、手を繋ぐ回数よりセックスしてた回数のほうが多かった。二人でいるときは意味もなく69でべろべろお互いのちんことまんこを舐め合って遊んでいた。それが僕らの日常だったから、セックスが欠けてしまったことで、当然別れるって流れになった。その時には僕は勃起不全気味でどれほど祭が頑張ってもセックスすることなんてできなかった。それ以上にまずまんこが怖くて恐怖心が強くてとてもセックスする気持ちになんてなれなかったのだ。
祭がそんな状態で納得するはずもなくて、僕と会うたび泣いてしまって、時には僕を叩いて、最後には「もうあなたのおちんちんは舐められません」なんてメールを送って他の奴のところに行ってしまった。
こうなることは予測がついていたので僕はそれほど驚かなかった。それどころか、冷めている自分がいることに気付き、結局僕が好きだったのは祭自身じゃなくて、祭の体だけだったんじゃないかとそういう風に思うこともあった。
勿論それこそ言い訳だ。祭の体が好きなののどこが悪い。祭の体は祭自身のもので、それは性格が良いだとか顔が良いだとか、お金をたくさん稼ぐだとか、一緒にいて落ち着くだとか、支えてくれるだとか、自分を好きでいてくれるだとか、そういうことと同じで、決して下心だけじゃないのだ。だから僕は祭が僕のもとを去ってしまったことをすぐ後悔して、でもメールの文面から祭の気持ちはもう取り返せない位置にあるのだと悟って、どうしようもなくて泣いてばかりいた。僕はずるずる終わりのない祭とのセックスが大好きで、それをわけのわからない理由で失ってしまったことが許せなかった。
祭と別れてから僕の生活から祭が抜けてしまっただけで、他は何一つ変わることがなかった。毎日高校に行き、授業を受け、本屋のアルバイトをして、そういう毎日だ。
バイト先の大矢三原書店の先輩、今大学二回生の暇な結良さんは仕事が始まるまで事務所で本を読んでいる。僕が事務所に入ると、少し顔をあげて「ん」と言って頷く。店長はヘビースモーカーだからこの事務所はいつも煙草臭い。灰皿には煙草の吸殻が山盛りになっている。そこに結良さんは無理やり短くなった煙草を押し込んだ。
「結良さん、シフト四時からでした?」「ううん。もう終わった」「大学生はいいなぁ時間があって」僕は制服を脱いでロッカーにかける。事務所は四畳半ほどのものが一つしかないので、女性が着替える時は奥半分ほど隠せるようにカーテンで仕切りを作る。「いずれなるじゃん」「今が高校生だから今しか考えられないよ、今、今今」「んだよね。あたしも先のことわかんないし」「就職とか」「就職とかねぇ」
よし、と言って結良さんは本を閉じて立ち上がる。ワイシャツの第二ボタンを人差し指と親指で外しながら歩き出した。
「もう帰るんですか?」いつもは結構遅くまでここで購入もせず新刊を読んでいく。
「明日から家の工事があるんだよね」
「リフォーム?」
「いや、庭にある古い井戸を埋めちゃうだけだよ。兄の子供が大きくなったから、落ちないように、ね。あたしたちの時はそんなことしてくれなかったのに、うちの親もとんだ祖父母バカになっちゃったもんだよね」
結良さんの胸元から薄い桃色のブラジャーが見えてセクシー。当然その視線に結良さんは気付いているけれど、知らないふりをしてくれるし、わざと彼女が見せてそういう態度をとるのだから僕も、ちょっと弄ばれている年下の男の子を演じてわざとらしく目を逸らした。彼女は僕のそういう態度に気付いて、にやりと微笑んでカーテンを閉めた。カーテンの向こうから服を脱ぐ音が聞こえるけれど、僕の頭に残るのはもう少し別の、そう、今の、
井戸
とか。
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」なんて日本中の十三歳以上で既読者を探せば三割くらい超えるんじゃないかと思うぐらい当たり前の小説だから、そのおおよそを省いて、その中で主人公は井戸の中の暗闇に丸まって嫁の兄貴をぼっこぼこにするため精神だけ旅立つシーンがある。それがどういう意味を持っているかなんて僕は知らないし知ろうとも思わない。何かしら意味のある解釈ができるのかもしれないし、できないのかもしれない。ただ僕はその本を読んで五年ほど経つけれど今でもなんとなく忘れられない。
その理由の一つとして最近ハマっている舞城王太郎が村上春樹を好きで、作中に時々村上春樹っぽい臭いを漂わせたり、その名を使ったりするせいだ。参るぜ。そのシーンをモロにリスペクトしてんのかオマージュしてんのは「暗闇の中で子供」の三郎がキッチンの地下収納に丸まってしまうところだろうし、「Shit, My Brain Is Dead.」ではわざわざそのことを作中に提示して井戸の中を探索している。だから僕は春樹のねじまき~を覚えていて、もっと詳しく言うなら、井戸のことを覚えている。井戸を忘れることができない。もう少し詳しく説明するなら井戸の印象付けが深いのは、僕の父の実家には、まだ井戸があり、それについて黒い噂を祖父と父から聞かされていたからだ。
祖父の家にある井戸は井戸としての機能を失っていて、僕が初めて見たときには既に庭の置物と化していた。蓋を閉じられその中を見ることもできなかったが、意地悪な父は時々その蓋をずらして僕に見せてくれた。僕は父に両脇を抱えられその中をずいっと上半身を投げ出すかたちで見させられていた。暗闇なのだ。井戸の底は。僕は腐った水の臭いや苔が土にまみれて腐臭を放つ石の壁も怖かった。だが何よりも底の見えない暗闇というものが怖くて怖くて、僕はすぐに逃げ出したかったのだが、意地悪な父は僕の体を掴んだまま面白がって井戸に放り投げるふりをするし、逃げ出すことなんてできなかったのだ。だからあのボケ親父が責任の半分くらいを担っているのかもしれない。そうそう祖父もだ。それと同時に僕が井戸のことを怖くなったのは、二人から聞かされた噂のせいだ。
井戸が庭にあるくらいなんだから祖父の家は広い。小さいけれど川と池も通っているぐらいだし、本気を出せば枯山水の一つだってできるくらいだ。どうしてそんなに広いかと言うと、祖父の父親が動物園を開いていて、それは戦前ということも手伝って物珍しさや研究からかなりの人気を博していたらしい。よくわからないけど。けれど戦争が始まって動物を養う余裕も研究する余裕もなくて、「かわいそうなぞう」と同じ現象が起きる。祖父に言わせればあれは我が動物園をモデルにした話らしい。それはきっと嘘だ。象はいなかったはずだ。
そうして動物を殺さなければならなくなった我が家の動物園であるが、同時に食糧難でもあった祖父の町の周辺は、殺したらその肉をくれと言ってくるものが後を絶たなかった。愛すべき動物たちを殺すのさえ辛く苦しい選択であったのは「かわいそうなぞう」で理解できると思うし、その肉を食わせろだなんて当時の追い詰められた異常な空間が目に浮かぶと思う。そうして曾祖父は悩んだ末に、殺した動物を祖父宅の庭に埋めまくり、抱えられるほど小さなものは井戸にばんばん放り込んでいったのだ。
当時の正式な記録は残っていないし、もう今となって真実はわからないけれど、祖父の話では、動物を殺すことに積極的で、つまり食料欲しさに動物を殺すことに積極的だった町長を曾祖父はぶっ殺してついで井戸に放り込んでしまったらしい。それは戦災の歴史に巻き込まれて本当のことはわからない。
だから僕は井戸が怖い。祖父の家自体も怖くなって近付けなくなってしまった。井戸は一つしかなく、それは大地を繋ぐ口のように見え、そこから殺された動物や人間の死霊の声が聞こえてきそうだったのだ。井戸の底は闇に通じていて、同時に大量の魂が蠢いているのだ。
井戸は僕を呼んでいるわけじゃない。ただそこに存在し、その先にある魂や声が怖いのだ。
井戸無くなったんですか?と僕が結良さんに尋ねたのは次に会った、そう二日後のことだったと思う。結良さんとはその時二人で並んでレジに立っていて、平日だったこともあり、お客さんは少なかった。僕も結良さんも耳と発声が良かったからかなりの小声でも会話することができた。
「無くなったよ」「跡は?」「埋めた」「土で?」「うん。写真撮ったけど見る?記念に。埋める前と後で」「いいっす」「スマホに入ってんだから気にしなくていいのに」「そんなにプッシュすることでもないでしょう井戸くらい」「だって井戸嫌いなんでしょ?」「言いましたっけその話」「うん」
そうだっけ?結良さんとはくだらないことばかり喋っているので話したことをきちんと記憶に留めておかなくなっているのだ。お客さんが来る。結良さんがレジを打ち、僕が袋に入れる。町田康の「権現の踊り子」を買っていく。二人で並んで頭を下げて距離が離れたところで結良さんは言う。
「家に井戸があるんだっけ?」「違いますよ。おじいちゃんちです」「近いの?」「遠いですよ。京都」「ああ、ちょっと遠いね。たまには帰りなよ。寂しがってるでしょ」「大丈夫ですよ。背後霊になって僕を守ってくれてます」「ああ、じゃあ空なんだ。家」「父が定年を迎えたらそっちに移るらしいですね」「その頃アンタ何歳?」「33歳」「長いねぇ」「想像できませんよそんな先のこと」
「っつうか、井戸が怖いって、結構ワンパターンだよね。貞子は井戸から出てくるし、皿女も井戸に捨てられてるし、井戸って昔っからそういうイメージあるし、怖くなるのもしょうがないよ」
「幽霊的な怖さじゃないんですけどねぇ」
「じゃあなんで?」
なんで?それは祖父と父に脅かされていてそれがトラウマになっているからだ。いや、違うのか?もしかして怖いことの印象としてその思い出が刻み込まれているせいで、怖いという認識が井戸の思い出にすり替わっているだけで、本当は違うんじゃないのか。
本質的な恐怖は別のものであり井戸はそれに付随しているだけなんじゃないのか。
つまりさ。
「結良さん怖いものあります?」
「怖いもの?」結良さんは眉間を顰めて僕を見る。「天ぷらとショートケーキ。ストロベリーのやつ」「なんで?」「なんでって、そりゃアンタ、昔その二つのせいで急性ウイルス性胃腸炎になっちゃったのよ。ゲロ吐きまくり。ノンストップゲロ・スリーデイズ。それからこの二つ見るだけで気持ち悪くなんのよねぇ。話してるだけで気持ち悪くなってきた。やだやだ。それより今朝大学に行く新幹線待ってたら人身事故起きて遅刻したのよ、もう最悪~」
ああそう。
しかし一度井戸のことを意識するようになってから僕は頭の中で井戸のことしか考えられなくなる。井戸に憑りつかれてしまう。人間は馬鹿な生き物だから恐怖に向かってしまうのだろう。生物上で人間だけが金を出してまで恐怖を買おうとする。怖いけれど、近づきたい。そういう感覚なのだろう。興味が本質を凌駕する。
朝起きて井戸。ご飯を食べて井戸。登校中に井戸。授業中に井戸。帰り道に井戸。バイト中に井戸。帰宅して井戸。風呂の中で井戸。眠る前に井戸。僕はもう駄目だなと思う。井戸見に行きたくて仕方ない。じいちゃんの家に行こう。一人で。そして井戸を確認して帰って来よう。確認さえすれば衝動に抑えを効かせることができるだろう。セックスしたくてしょうがないときでもとりあえずオナニーしたら落ち着いたって話と一緒だ。別に井戸の蓋を無理やり開けて中を覗くわけじゃない。確認するだけ。
僕は溜め息をつく。仕方ないな。そうだね、京都に行こう。
京都行の新幹線に乗っているとき、僕はもう随分祭について考えていないことに気付いた。元々祭なんて僕の中にいなかったんじゃないかと思うほど、それはきれいさっぱり僕の中から消えていた。祭に会いたいなぁなんて、祭に触りたいなぁなんて、祭に名前を呼んでほしいなぁなんて、そんなこと何一つ考えなくなっていた。それでも思い出すことはある。僕と祭はセックスばかりしていたカップルだったけれど、将来的な話とかもし子供が産まれたらつける名前とか、そういう愛らしい話だってしていたのだ。ふふ。懐かしいぜ。
と、一人で物思いに耽っていると、僕の座っていた席の向かいに座ろうとする人がいるので体を正して足をまげて道を譲った。その女性は小さな声で僕にお礼を言い、正面に座った。少しだけ視線を上げて見ると、その女性は顔に怪我をしていた。怪我は剥き出しのもので、まだ血が付着していたし、組織液がテラテラと光って骨や肉をコーディングしていた。グロテスクだ。肉の隙間からわずかに歯が見えた。それ以外はやたらいろんなところに怪我をして汚れているぐらいで、綺麗な人に見えた。
「傷、剥き出しで大丈夫ですか?」
僕が声をかけ、彼女が返事をする合間を縫うように新幹線が動き出した。アナウンスとともに音を立てて扉が閉まった。結局二人掛けを向い合せたこの席に僕と彼女だけだった。
「ええ、ほどなく治ります。実はゾンビでして」
あまり気遣われることがないのか、彼女はひどく照れたようにそう言った。えへへ、と申し訳なさそうに俯いて頭を掻いた。そのままもじもじとゆで卵を取り出し、こんこんと窓枠に叩いて殻を剥いた。一口噛み、噛み。肉の隙間から白身が見える。
傷は徐々に癒え始める。肉がもうくもうくと動き始め、切れた血管が長さを増し始める。ぶくぶくと皮膚が膨れ上がり繋がっていく。そうして傷が再生していく。それはだいたい十分ほどであったと思う。傷が治った彼女は、また照れながら、まるで好きな異性の前で服を脱ぐ中学生のようにぺりぺりと絆創膏を剥がし、ハンカチで汚れを拭った。可愛い~。やばいこの人とこの動作超可愛い~。
でもゾンビって死体で、死ぬことがないから傷は腐敗し続けていくもんじゃなかったけ。いやいや元々土葬で腐っていた死体を復活させたがゆえに、そんなボロボロなんだったか。まあどっちでもいいけれど、あまりゾンビとは言えないんじゃないだろうか。
「あの、ゾンビなのに傷が治るんですか?」
「え、ああ、そうですよ。私は突然の心臓発作で死んだので、体に大きな傷はありませんし、死後二日でゾンビになったので、それ以降の傷は死んだ状態に戻るんですよ。回帰的ゾンビです。ブードゥー教のボコの時代よりずっとゾンビ技術は進化しています」
呪術や宗教も進化するんだ。いやそれは一つの技術として成長したんだ。どんどん大きくなって確かなものになっていったんだ。
「それでなんでさっき傷だらけだったんです?」
「いやいやお恥ずかしい話、本当は五日ほど前この新幹線に乗る予定だったんですけど、その時うっかり線路に落ちちゃいまして。一度バラバラのミンチになっちゃいまして」
「再生に時間がかかったと」
「かかりましたと」
食べますか?と言われてゆで卵を渡され、僕は一つ受け取った。殻を剥き浅く齧るとほんの少ししょっぱかった。
「ところでどこに行くんです?」「ああ、京都です。祖父の家に」「偶然ですね。私も京都に生八つ橋を食べに行くんです。あと清水寺。おじいさんの家に何しに行くんですか?」ゾンビはお喋りらしかった。「井戸があるので、それを見ようと」「井戸?」「ええ。あの有名な昔の水道です」「素敵!私井戸フェチなんです。ご一緒してもいいですか?」
別に構いませんよ。
えへへ、井戸ですねぇ~。と言ってゾンビは両手を合わせて喜んだ。可愛い~。
ゾンビの溝呂木さんは京都観光を本気で楽しみにしていて、さらにそこにフェチポイントを突く井戸を見に行けるということでマックスハイテンションになって車に二度轢かれて、蘇る。僕は京都市から北にある美羽卦市を目指すが、その過程を溝呂木さんと過ごす。溝呂木さんは食べることが大好きで、そこらへん片っ端からお店に寄って気になるものを啄んでしまう。もちろんその中には天ぷらやストロベリーオンザショートケーキもある。僕は結良さんにシフトの交換をお願いし、結良さんは「学校サボんなよ~」と嫌みなメールを送ってくる。先ほどの天ぷらとケーキを写メにして送るとお怒りの電話がかかってくる。
夕食だか間食だかわからないものを摂り僕らが美羽卦に到着したのは午後八時を過ぎたあたりだった。溝呂木さんは少しだけお酒を飲んでいたので酩酊気味に歩き、祖父の家に到着するとその大きさに驚きはしゃいで駆け回った。
だいたいざっと見て祖父の家が荒らされていないことを確認し、せいぜい庭の木が伸びたぐらいだな、とぐるぐる回っていると井戸の前に立つ溝呂木さんを見つけた。いや、井戸だ。僕はこの井戸を見たくて見たくて仕方なくてわざわざ平日に五千円近くも出費して京都にやって来たのだ。それなのに、こんなにあっさり視界に入れてしまってどうしたのだ。あれほどの、胸が焼け焦げるほどの衝動に駆られていた井戸が目の前にあるんだぞ。それなのに、どうしてこうもあっさり事態を嚥下しちまってんだ。
ん?それは溝呂木さんとここまで一緒に来たからだ。溝呂木さんは色が白くて、陽に当たるとマジで辛そうな顔をして、黒い色の日傘を手放さなくて、死んでるから結構細胞が弱くて傷を作りやすくて、でもちゃんと再生して、んで食べることが好きでちょっとした動作が男心を擽って、おっちょこちょいでほっておけなくて、気付けば車に轢かれたり、勝手に何かを食べたりしているから、心に良くも悪くも余裕がなくなって、井戸のことなんて二の次になっていたんだ。
いやいやいやいや何を誤魔化してんだよ僕は。
頭を振るう。僕は井戸を見るためにここに来たんだ。ちゃんとしなきゃならない。
ちゃんと?ちゃんとって、何をちゃんとするんだ?
「井戸だ~」
溝呂木さんが蓋の上から井戸に抱き着いて頬摺りする。その時溝呂木さんのお尻が見える。ジーンズ越しの丸い輪郭を見つめて、僕は祭のまんこに思いを馳せる。久しぶりに祭のまんこを思い出した。しかも最低な形で。僕の思いはそこで井戸と祭のまんこと恐怖に帰結する。もしかしてさ。と僕は思う。もしかして、祭って僕の子供を妊娠してたんじゃないのかな。
僕は祭のまんこが怖くなったんじゃなくて、本能的にその先にある新しい命が怖くなって祭とセックスすることが怖くなったんじゃないのか。うん。井戸は穴だし、じいちゃんの家の井戸のそこには魂が大量にふよふよしているし、それは命の通る道だし、そして、何より、その二つはどちらとも報われることがないものだ。高校生の僕と祭に子育てなんてできるはずがなくて、ただ子作りっつうか快楽のためにやってたセックスだし。産むなんて選択肢はきっと僕らに無いはずだ。
「井戸ですよ~」
なんて阿呆なことを考えてしまう。祭が妊娠?馬鹿馬鹿しい。避妊には気を使っていたし生理だってきちんと来ていた。それに本当にそうなら今頃僕に連絡が来ているはずだろう。まさか僕に隠れて産んで――殺して――済ますなんて殊勝な女ではないはずだ。
さあどうしよう。少しだけ、話が進展したような、そんな気がする。少なくともこの疑問を解決しないと気は済まなさそうだ。祭に電話してみようか。いやでも祭は僕が祭を抱かなくなってから滅茶苦茶落ち込んで自傷的になったし、愛が暴走して僕を受け付けることができなくなっていたし、電話なんてとってくれそうにない。んだろうなぁ。
「ちょっと電話しますね」
「井戸は~?」
僕はだから結良さんに電話をかける。結良祭のお姉さんに。
「ああ、結良さん?祭のことなんだけど」「あのボケ妹がどうしたの?」「妊娠とかしてないよね」「……してないと思うけど……そうなの?」「いや多分気のせいだと思う。っつうか僕もう祭と別れてるし」「ああやっぱりそうなの?」「うん」「祭アンタのことばっか喋ってるけどなんかおかしいからねぇ」「へぇ。でもあいつ他の男のところいったよ」「あらあら。まあ本気じゃないでしょ?」「そうだと思いますけど」「ふぅん。まあこっち帰ってきたら、一回祭と会いなね」「気が向いたらそうしますよ」「会いなね」「……うん」
「子供はできてないよ。こないだ生理来てたみたいだし」
ぷつり。
当たり前だけど、僕が祭のまんこが怖いなら、祭のまんこに立ち向かうべきで、ぐだぐだ悩んでねじ曲がってわざわざ井戸なんて見に来る必要なかったのだ。
「すいませ~ん。これ、蓋開けてもいいですかぁ~。うわっ、おも~。超おも~です~」
「手伝いますよ」
僕と溝呂木さんは力を合わせて井戸の蓋を開ける。そこからは腐った水と土と苔の臭いがして、そこは完全な暗闇で何も見えなくて、一度落下したらもう二度と戻って来ないような、そんな感覚を覚えてゾッとする。不思議と中から風が吹き、僕を掴みこもうとしている、そんな気配があり、身を引きつつも少しだけ顔を出して覗いてしまう。うう怖い。
「しゅごいですね……」隣を見ると溝呂木さんも似たような恰好だ。「夜の海より暗いですね」「確かに……。夜の海みたいに、引きずりこまれそうだ」「夜の海って幽霊が呼んでるんですかね?」「そうなんじゃないの?」「でも幽霊なら、海の塩分で浄化されてそうなのに、海の幽霊っておかしいですよねぇ」「…………」
井戸は、小さい頃に刻み込まれていたほど、怖くなかった。そんな気がする。
やっべぇ。祭に会いたい。会いたいぞ。無性に会いたくてたまんないぞ。顔を見たい。声を聴きたい。瞳を覗き込みたい。唇のカサカサに触れたい。耳たぶを甘噛みしたい。髪の毛を口に含みたい。鼻の穴を舐めたい。皮膚を重ねてすべすべを感じたい。僕を見てほしい。僕の声を聴いてほしい。僕に触れてほしい。僕の存在を感じ取って僕を認めてほしい。僕を受け止めてほしい。だから祭に会いたい。会わなきゃ。祭が僕を受け入れられなくても、拒絶しても、僕が恐怖にがらがら震えて声も出せなくて完全な勃起不全に陥っても、そんなことは関係なくて、僕は、僕は祭に会わなきゃ。
『会いなね』
うん。
僕と溝呂木さんは電気もガスも水道も、もちろんネットもない暗い誰もいない広い祖父の家で、埃臭い布団にくるまり合って眠りに落ちる。僕はその日夢を見る。それは驚くほど鮮明な夢で、まるで現実の世界が夢の世界にシフト、あるいは夢の世界が現実の世界にシフトしてしまったような錯覚を受ける。
僕の新しい恋人になった溝呂木さんを許せなくて祭が京都までやってくるのだが、溝呂木さんは何度殺しても殺しても蘇り、たははん、と砕けた笑顔を見せて蘇り。愛に溺れて暴力の権化になった祭に痺れを切らした僕は祭を殴って井戸に放り込んで蓋をしてしまう。だけど僕は井戸の中の祭が心配で心配で気になって仕方がなくて、蓋を開けて井戸の中に飛び込んでしまう。闇に身を投げ井戸の底に揺蕩う水に突き刺さり僕はそのまま進み続ける。光のない漆黒の水の中は無限の空間に思えるが、それはトンネルのように確かなベクトルで僕を誘う。僕は確かな引力の下導かれるまま進み続ける。そうしてどんどん進んでいく。僕はその先にあるはずの祭の下へ、祭りの下へ、祭のいる光のほうへ。光の、光の光の光の先へ。煌めくその先を掴むために進み続けなきゃ。