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宴は、いまや正に、その壮麗にして豪奢な幕を閉じんとしていた。
贅を尽くした饗宴と言うより、これは、宮中で行われる、年中行事、儀式の一環であった。それだけに、準備と進行には、気を遣う。
流石に、この日の為に、駆けずり回っていた、公達貴族や舎人にはほっとした気配が漂う。
天皇の前で、歌い、踊り、演奏すると言った大役を終えた、楽人や舞手達も同様である。
やれ物忌みの方違えの、暦のと予定進行表と首っ引きになっていた、天文、陰陽寮の居並ぶ博士達にも、安堵の気配が認められる。
宴と言っても、長い祭祀的な行事の締めくくりと言っても良い。俗に“五節会”と呼び習わされる元日、白馬、踏歌、端午、豊明の中でも、一年間の大きな節会の最後、四日間続く、新嘗祭の最後の日、辰の日に執り行われるそれは、“豊明節会”と呼ばれる。
邪気を祓い、怨霊を沈め、そこで働き、暮らす人々ともども、宮中を清めるための、それは、大変に重要な慣わしなのであった。
<彼>は、他の同世代の高家の若者達と共に、その時を、今や遅しと待ちかねている。
紫宸殿で賑々しく執り行われた、綺羅星の如き群臣を取り揃え、かつまた一段高い所に今上帝が臨席しての宴席である。当然、酒も料理も食器に至るまで、吟味に吟味を重ねた、最上等の膳を取り揃えてある。
酒と言っても、この宴席に振舞われるのは、白酒、黒酒のお神酒である。
篳篥の音色、鼓の声、琴の絃は麗しく、琵琶や月琴は嫋々と。
鳴り止まぬとも思える管絃も、大歌所の別当によって歌われる、朗々と響き渡る大歌も、うら若き、それらにあわせて舞踊る、全国から集められた美少女たちの舞も、決して退屈なものではない。
しかしだ。
(何せ、肩が凝るのだ。)
杯の位置一つ、魚の焼き方一つ、勿論、誰が何処に座り、何色の服を着た女官が何処の家の若者に酒を柄杓から注ぐかまで全てが決まりきった手順の元に、遂行される、言わば神饌の席である。
正直、食事を振舞われると言うよりは、仕事の延長に等しい。
<彼>は、先程より、橘の宰相に、注目していた。熱い視線を注いでいたと言っても良い。
いや、自分だけがそうしているのではない事は知っていた。だからと言って、その事実をもって、観察をやめる気にはなれなかった。
橘本家の後継者、正三位橘の宰相は、質素な色と柄の絹の束帯に指貫、同系色の烏帽子を身に付けた、日に焼けた肌を持つ、堂々たる体格の五十絡みの貴族である。橘家と言えば、大貴族であった。内裏との関係も深い。世代的には、<彼>や<彼>の友人達の父親に等しい。
その彼のいる所と言えば、上席も上席。帝のお隣である。白酒専用の杯を、捧げ持つようにして、たびたび口に中身を含みながら、帝や反対側に座る、<彼>の親類縁者の内でも長老格に位置する、大伯父と、白楽天がどうの、李白はこうのと、漢詩の話なぞを声低く交わしている。
「“仏は常にいませども、うつつならぬぞ、あはれなる・・・。”」
だれぞが、今様なぞを唸りはじめた。<彼>のいる所からは見えないが、列席している誰かには間違いない。酒が入った席なので、当然と言うべきなのだろうが。
「“人の音せぬ あかつきに、ほのかに夢に、みえたもう・・・。”」
(祝言かい。)
烏帽子も乱れなく、泰然と座って、静かに注がれた酒を飲む。そして、<彼>は、退屈していた。
(早く帰って呑み直したい。)
酒の強さには自信がある。同世代の誰にも負けぬと言う自負もある。ぶっちゃけ、大抵<彼>は、酒の席では、もっぱら、送られる側より、送る側に徹していた。
退屈の余り、心の中で、言って見る。
(橘の宰相。大伯父上なんか、どうでも良いから。そんなもん、打っちゃっといて下さいよ。)
そうも行かぬと思っているのか、先程から妙に、やんごとなき筋の周りだけが賑やかである。議論は沸騰しているものらしい。
(詩経が、どうしたのですって?)
だが。
唐突に、それは起こった。すい、と、音もさせずに、漆塗りの杯を、橘の宰相が膳に置いたのである。
<彼>には、その時、橘の宰相の周りだけが、輝いて見えた。
「やた。終わりだ。」
誰かが、多分従兄弟辺りだろうが、ごく小さく叫んだ。
”豊明の節会”も、“五節の舞”も、これでは、立場をなくすと言うものだが、いつの頃からか、橘の宰相が、杯を置けば、それは宴も、押し詰まって、参議の誰かが臨席の礼を言うと共に、帝、女御の退場。次に位の高い者から、順々にその場を退くと言う、一種の慣習が出来上がってしまっていたのであった。
潮が引くように、大広間から次々に消えて行く人々の背中を目で追いながら、今回も、例外では無かったことを知って、<彼>は心からほっとした。
(慣習、万歳だ。)
「ああ、終わった。」
思わず、自分の腰の辺りを叩いて見る。そんな<彼>の姿を見て、若いくせに、と言う人間はいなかったのであった。言いそうな人間は、とうに退出している。
暦も霜月(陰暦十一月)。主に帝御臨席用の大広間の扉を開ければ、戸外の空気の寒さが推し測れる程度には、寒く感じられる。一瞬、身が竦んだ程だ。
知った顔を、辺りから、更に探し出して見る。あわよくば、二次会に誘って見る積りだったのだ。開催場所は、その代わりと言っては何だが、出席者の自宅と言う事になる。
「おお、寒い。雪が降るのではないか。」
「うちの雑色は、平助は、何処にいるのだ。」
「皆さん、順番に。」
「灯りを持って来てくれ。見てくれ、外を、星が出ているではないか。」
周りで取り交わされる、宴がはねた後の、解放感。義務を果たし終えた後の、清涼感、それらが入り混じった混雑した会話が、一時的に、<彼>には気にならなくなっていた。
見間違いではないかとまで、案じたのだが、とりあえず、声を掛けてみる。友人に何かあったのかと心配しての行動である。あくまでも。彼には他意は無いのだ。
「あの、晴明・・・・?」
「何だ。」
じろり、とねめつけるようにして、こちらを見ながら、素早く(いっそ素早すぎたほどの)応えが還って来る。だが、その、最早見慣れた切れ長の印象深い瞳は今は、
(嘘ぉ)
赤く、濡れて光っていた。
「誰かに何か、言われたのか?」
「・・・例えば?」
「『似非陰陽師』とか、何とか。。。?」
一部始終を見ていた人間達の内、ごく近くにいた二人と同世代の公達はかく語る。
皆がみな、帰り支度に急いでいるその中で、下らん冗談を言えるのが凄いのか、とりあえず、周りの人間に迷惑をかけないように、その相手を殴れるのが凄いのか、判断に迷う所だ、と。
次の日は、朝から小雪がちらついていた。年末の物忌みの予定を周囲に伝えると、最早<彼>にはやる事が無くなっていた。
そこで、出かける事にした。
「旦那様。牛車のご用意が出来ました。」
掌の上で戯れに受け止めて見る、白く冷たい、<彼>の家の上に垂れ込める雲が切れて落ちて来たかと思わせるような物を眺めながら。
「良し。向かうは、安倍晴明の家じゃ。そちらへ向かえ。」
彼は言って、元気良く牛車に乗り組むのであった。
「晴明様は、陰陽寮なのでは。。。?」
御者席に乗った、いつも<彼>の牛車の御者を務める雑色、名を“六丸”と言う、が、振り向きざまに不思議そうに言うのへ、
「いや、陰陽寮も、幾ら何でも昨日の今日で、早々は仕事になるまい。」
昨日の酒がまだ体に残っているような、息をつきつき、<彼>は言うのだった。
「確かに。そうで御座いましょうな。ご主人様。酔い覚ましの呪文と言うのは、無いので御座いましょうか?晴明様に聞いてみては。」
「上手い事を言うな、六丸。俺の知る限りでは、聞いた憶えも無いがしかし、試みに聞いてみるのも、無駄では無いだろう。・・・それに。」
「それに?」
「今日辺りは家にいるだろうさ。」
安倍晴明と雖もな、最後は小声で小さく呟いた後、腕を組んで、彼は押し黙った。屋根の陰になってよく見えないが、どうも、固く目を閉じている姿勢が見えるのだ。
これ以上の質問を拒否する姿である、と、六丸は知っていた。そこで、仕事に戻る事にした。
ぴしり、と、六丸の振るう鞭の音がした後、ゆるゆると、白い牛に引かせた牛車は動き出したのであった。はらはらと、小雪が、舞う、京の都の大路の上を。
「で?」
熱い甘酒が、五臓六腑に染み渡る。六丸が、懸命に火鉢の中を掻き回しているのが、皮膚にも肺にも心地良かった。
「一体、何時間、主の留守中に私の家で、私を待つ積りだったのだと?」
安倍晴明が言った。手ずから、甘酒の柄杓を持って、<彼>に給仕してくれている。
「出かけているとは思わなかったのだったら。」
ぶつぶつと、<彼>は言った。
「悪かったな。調べ物をしていたのだ。これでも。」
顔をしかめて、晴明が言う。尖った声であった。喧嘩腰で何か言われる事に慣れっこになっていた筈の<彼>も、思わず、亀の子のように、首を引っ込めずにはいられないほどに、冷徹な、固い声音であった。
だが、冷徹のどうのと、この寒いのにと思うまでもなく、直ぐにその舌鋒は火を噴いた。
「全く、留守居を置いて行かなかったら、六丸などは、死ぬ所だったのだぞ。」
「留守居って。。。ああ、これか。」
これ、と、指した相手を、改めて見やる。
見た目は丸っきりの、立烏帽子に狩衣の神官、袖からは、畳んだ桧扇が見える。しかし、性別は女性である。長い髪をゆるく腰まで垂らしている姿が、神職らしいと言えば言える。すると、巫女なのか。にこにこと、優しく笑って、<彼>に肯き返した。
「これって、式神なのだよな。」
うろ覚えの知識で言えば、
「まあ、そうでも在り、そうでもなし、だ。とにかく、留守居だ。役には立つ。帰って見れば、こは如何に、二人の凍死体に出会う所であったのだぞ。」
まだ、怒っている。
「聞いて居るのか?何で、この私が、お主の死体の第一発見者にならなければならん?」
「晴明。そうならなかったろう・・・?」
いくら<彼>でも、これ以上は小声になれない、と言う所まで小さな声で言ったのを、当代随一の陰陽師はどう見たのか、くるりと、外に面する障子を振り向いて言った。
「雪が、積もって来たか。」
そして、溜息を付いた。雪にも負けぬ、白い吐息であった。
<彼>も、溜息を付いた。こちらは安堵の溜息であった。
朝も早くから単身、内裏の中の記録を保管する文書書庫に出かけ、夕方近くなって家路に付き、帰り着けば、自分の家の客間で、ぶるぶる震えながら、火鉢を囲んでいる、二人を見つけた、友人の説教は終わったのである。安倍晴明の。
「全く、この雪でなければ、追い出す所だ。」
口調が穏やかになって来た。あくまで、最前と比較してだが。と、見て、
「待て待て。土産は持って来たのだ。」
六丸が携えて持ってきた、包みを二つほど、持って示す。
「それは昨日の。。。」
「おお、昨日の“豊明の節会”の引き出物だ。酒と、食い物と。」
にっこりと、笑ってみせる。得意の笑顔だ。人によっては、およそ邪気の無い笑顔と言う人もいるかも知れない。
「飲もうぜ。」
「・・・解った。」
呆れ顔で、安倍晴明は、呟いた。
「結局、我が家に飲みに来るのだな。」
「自腹だろう。って言うか、お前は貰わなかったのか。引き出物。」
「昨日、見なかったか?」
「俺は、引き出物目当てに、宴席に来る訳ではない。」
他人の引き出物など、興味はないと言わんばかりである。
「確かに、飲み食いする為に、宴席に来る人間も、そうは居らんかも知らんな。」
「はあ?!。。。じゃあ、何をしにくるのだ、お前は?」
「俺か。俺は飲み食いする為さ。」
言った後、くるりと背を向ける。何をしたのか、隣の間との境になっている襖がするすると開いて、小皿や小鉢の載った漆塗りの膳が運ばれて来た。運んで来たのは、禰宜や神官の服装をした、二三人の人間達である。
全員が色白で面長の整った顔をして、整然と動く。あえて言えば、彼等の顔立ちや立ち居振る舞いは、晴明に似ている。彼等は、<彼>の引き出物を、恭しい態度で、主人から受け取り、また、厨房の方に消えて行くのであった。
一人ひとりが、まるで、口も利かぬ。だが、冷たい感じはしないのであった。例えば、歓迎されていないと言う様な。
滑るような足取りで、傍らを通り過ぎる時に、梅の花のような匂いを、<彼>は一人から嗅いだ。六丸はと言うと、ぽかんとそれをただ見ているのであった。
小鉢の中には、山菜の和え物などが、形良く品良く盛り付けられていた。
晴明は、やれ、一日の疲れと言わんばかりに、さっさと、敷物の上に腰を下ろして、汁物の中身を確認したりしている。
「あさりか、しじみかな?!」
「飯が先か。」
子供のようだと、晴明の仕草を見ながら、<彼>は、この光景は、何処かで見たことがある、と、思った。
この家では、一言、これが欲しいと言えば、炊き立ての白米の匂いさえ、何処からか、漂って来るようだ。
いつぞやは、女官たちの一人を、<彼>の家まで土産代わりに持ち帰るかと、もちかけられた事さえある。多分、晴明としては、冗談の積りだったのだろうが、しかし、結婚前の若い男性に、余りそういう冗談は言って欲しくないものだ。
時々、<彼>は思う。安倍晴明の宅で食事したと思っているのは、安倍晴明の家で食事したと、ただ、思っているだけではないのか、と。この屋敷の主人のように、時折、何もかもが現実感を失うように思えるのだ。
が。彼の健康な五体は、明らかに、そのような思い込みを、根底から否定しにかかっていた。
腹が明らかに空腹を訴えて鳴いたその物音を、聞かれた所で、気にする間柄でもなかったが。少なくとも、<彼>は気にならなかった。
「そう言えば、腹も空いたな。」
「おお、さすが、丈夫な奴だ。さ、喰おう。飲もう。」
「おお。」
楽しげに語り合う二人の傍らで、ようやっと、主人達の喧嘩が止んだと思った六丸が、これまた、にこにこと嬉しげに微笑んでいた。
待ち構えたように、先程の男女たちが、襖の向こうから現れ、今度は、上手そうなご馳走を沢山載せた皿を、盆に載せて運んで来た。山海の珍味である。
また、馳走する、と言う言葉は、駆けずり回って、支度をする、と言う字面を持っている。“豊明の節会”の為に使った労力、例えば、博士たちの送り迎えとか、鳴弦する為の、宿直、衛士の人数確保、彼等の食事や、訓練場所の手配、を考えれば、これは、当然の報酬と言っても良いのでは有るまいか。立っている者は親でも使えと言う。当然、<彼>やその朋輩達のような若者達は、フル稼働させられたものだった。
飲みなおしたい、とは、思っていたのだ。若干の遅れは有ったが、それは、叶えられた感は有る。<彼>に異存は無かった。
「昨日は、何が有ったのだ?晴明?」
杯の端を舐めながら、<彼>は、聞いた。
ようやっと、切り出せた感は有る。しかし、後悔は無かった。
「うん。」
晴明は、梅の実の塩漬けを突いている。返事をしようかどうしようかと考えている体だ。それと見て、
「いや、言いたくないのなら。」
「いいや、言いたいよ。俺は。」
晴明の横顔は笑っていた。くっきりと、唇の両端を上げて微笑む、道化じみた笑いだ。<彼>の知り合いの内でも、晴明にしか出来ない笑いである。
「その事で、今日は朝から、書物やかび臭い文献の海を、ぱちゃぱちゃ、泳ぎ回っていたのだからなあ。」
「へえ。」
[後編に続く]
『抄伝 安倍晴明』第二夜 その前編。




