地獄の幕開け
「そこの突き当り、右に曲がってね」
助手席に座り、スマホの地図アプリを起動していた姉の指示通り、ウィンカーを出して左右を確認してから突き当りを右に曲がる。曲がった先も同じような景色で、今はどこを走っているのかわからなくなりそうだ。それでも少しずつ目的地には近づいていると信じて、アクセルを踏み込んで、緩い上り坂を上がる。
私は今、隣県にある観光スポットを目指している。免許を取ってまだ2か月の、運転になれていない私が車を走らせているのは、理由があってだ。
今日は私が社会人となって約1か月。初任給で家族をねぎらおうと思い立ったのが1週間前。そしてゴールデンウィークの初日の今日、私は家族を車に乗せて、車を走らせていた。
「まさか美都子が旅行に連れて行ってくれるなんてなあ。うう、いい子に育って、お父さんは嬉しいぞお」
「あらやだ、あなた、泣いてるの?」
後部座席で涙ぐむ父と、そんな父を見て笑っている母に思わず笑いがこぼれてしまう。
こんな何でもない平和な日常は当たり前ではなかったのだと、この時の私は知るはずがなかった。
「ねえ、お姉ちゃん、なんか変じゃない?」
車を走らせていた私は、さっきから感じていた違和感は間違いではないと確信した。
またもや姉の指示で突き当りを右折した私は、再びアクセルを踏んで緩い坂を登る。
「うーん、でもアプリはこの通りで合ってるんだよね」
違和感を感じていたのは姉も同じようだった。スマホと外の景色を交互に見合っている。
さっきから姉の指示の通りに車を走らせているが、車の外の景色が変わる様子はない。それに10分おきに右折している気がする。同じ道をぐるぐる回っているような感覚だ。
「美都子、一回そこの路肩に車止めてよ」
姉の指示で車を左に寄せて止めた私は、長時間の運転で凝り固まった肩を回してほぐす。
「美都子、私そこのカフェで道を聞いてくるから、お父さん達とここで待ってて」
車を降りていく姉に手を振り、私は改めて周りを見る。
右には緩やかに流れる川、左には大きな岩壁。先に進むと小さな喫茶店がある。前後から他の車が来る気配はない。木々の葉が擦れる音と、川の水が流れる音しか聞こえてこない。何だか不気味だ。
早くこんなところから抜けてしまいたい。姉が戻って来たら、すぐに車を発進させよう。そう思うが、姉はなかなか戻ってこない。
「実穂子、遅いなあ。お父さん、様子を見てくるから、美都子は車で待っとりなさい」
痺れを切らした父が、車から降りて姉の向かった喫茶店に入っていく。
父が喫茶店に入っていって5分経つが、2人が出てくる気配はない。道を聞くだけならそんなにかからないと思うのだが、何を手間取っているのだろう。
待てなくなった私も、車から降りて行こうとしたところで、2人は喫茶店から出て来た。これで漸くここから離れることができる。そう安心した私は、すぐに車を発進できるように、ブレーキに足を乗せ、シフトレバーに手を置いた。
だが、私の予想に反して、2人は車に戻ってこなかった。
喫茶店の前で何やら話し込んでいた2人は、何故か車には戻らず、歩いて先に進み出した。
車に置いて行かれてしまった私は、どうしたらいいのかわからない。車を発進させて2人を追うか迷った末、私はエンジンを切って車から出た。
「お母さん、すぐ戻ってくるから、待ってて」
後部座席に声をかけて、背中の見えなくなった2人を追う。曲がり角の先に姉の姿を見つけた私は、姉を呼んで駆け寄った。
「美都子、車で待っててって言ったじゃん」
「だって2人とも先に行っちゃうんだもん。お父さんは?」
さっきまで姉の隣には父が居たはずなのに、その父の姿が見えない。見回してみると、右に大きな橋があった。父はその橋を渡っているところだった。
「それがね、カフェには誰もいなかったの。何回もお店の人を呼んでみたんだけどね、全然出てこなくて。閉まっている感じはなかったから開いていると思うんだけどね。だからお父さんと相談して、お店の周りを探してみようと思ったんだけど」
「お店の裏側は川で、私達が来た道には誰もいなかったから、先に進んでみようってなったんだね」
「そゆこと」
私は姉と一緒に先に進んで人を探すことにした。何故か、この時の私は車に置いてきた母のことが頭に浮かばなかった。
「誰も、居ないね」
道を歩いて、15分は経つが、誰にも会わない。人がいないどころか、車の1台も通らない。いや、人だけではない。動物の気配1つしない。
今は昼間だ。スマホを見ると、14時を回ったところ。こんな山道だから、猿や鹿などの野生動物がいてもいい気がするが、そんな気配は1ミリもない。猿だけではない。どこにでもいるような鳥すら1羽もいない。明らかに、何かおかしい。
「ねえ、お姉ちゃん」
「あ、美都子、あそこ」
「え?」
ここにきてようやく車に1人置いてきた母の事を思い出した私は、一度車に戻ろうと姉に提案しかけた。提案しかけたところで、姉が道の先を指さした。
姉の指示した先に目を向けると、大きな吊り橋があった。
吊り橋の先は薄暗い森になっていて、ここ以上に人はいなさそうだ。
戻ろう。そう言おうとしたけど、声が出なかった。それが恐怖心によるものなのか、何かいけないものを感じていたからなのかは分からなかった。
「行ってみよっか」
恐怖に足が震えそうになる私とは違い、姉はしっかりした足取りで橋に向かっていく。
私はと言うと、戻りたいという気持ちと、この先に進んではいけないような気持でいっぱいだったのだが、戻ることはできないという予感がしていて、何より1人ここに残っている方が嫌で、姉に続いて橋に向かった。
吊り橋の上は、風がよく通って涼しかった。5月でも陽射しは強いからいつの間にか汗だくになっていた体は喜んでいた。
吊り橋を渡りながら、私は姉となんでもない話をした。話をしていないと、おかしくなってしまいそうだったから。
「あ、」
話をしながらあたりを見回していた姉が、何かに気付いたような声をあげた。
「どうしたの?」
「いや、あそこ。誰かいない?」
姉の指の先には、この吊り橋より小さな橋があった。その橋の上に、人影があった。
「いる、ね。地元の人かな?」
ここにきて、漸く私たち以外の人を見つけた。これで漸く、ここから抜け出せる。
安心した私は、姉の顔を見た。あの人のところに行こうというために。
だが、いつも優しい姉の顔が、初めて見る怖い表情で、私は声を出すことができなかった。
「お、姉ちゃん‥‥‥?」
「美都子! 走って!」
「え、え、何?」
訳が分からないまま、私は姉に手を引かれて走った。
何故、急に姉が走り出したのか、何故あんなに怖い顔をしていたのか、すぐに理解することはできなかった。
私が理解したのは、姉に手を引かれて走りながら、もう一度あの橋の上の人を見た後だった。
あの橋は、私達のいる吊り橋とそう離れてはいない。目がいい人なら、細かいところまで確認できなくても、ちょっとした表情の違いは確認できる距離だ。私も姉も視力はいい方だから、その人の表情を確認することができるはず。それなのに、私は、私達はその人の表情を、顔を確認することはできなかった。いや、顔だけではない。その人が着ている服も、髪型も、何もかも確認することはできなかった。あの橋にいた人は、全身を黒塗りされた、まるで影のように真っ黒な人だった。
影のように黒い人は、橋を渡ると、私達を追いかけて、私達がいる吊り橋に来た。私達を追いかけるように、影の人も走っている。
あの影に捕まってはいけない。
何故か分からないけど、私の直感はそう叫んでいた。
姉も私も、すでに息が切れている。それでも私達は足を止めなかった。
吊り橋を渡り切って、薄暗い森の中に入り、獣道を転びそうになりながら私達は走った。後ろから追ってくる足音が大きくなっていることに気付かない私達は、夢中で走った。走って走って、私の肩に重みがかかった。
「いやああ!」
後ろから追ってきた人影が、私の肩を掴んだ。もう、逃げられない。
「美都子?!」
「いやあ! やだ、やだ!」
「美都子、落ち着け! お父さんだ!」
「え、お父、さん?」
私の肩を掴んでいた黒い人影は、私のお父さんだった。白髪が混ざった髪も、優しく下がった目尻も、全部お父さんだった。
よく分からない黒い人影が、私の良く知る人だと分かって、私は足の力が抜けて座り込みそうになった。私の前にいた姉も、父とわかって安心したように近づいてきた。
「なんだ、お父さんだったんだ……何かわかった?」
「いや、誰にも会わなかったから、ここのことはわからなかった」
やはり、父も誰にも会わなかったようだ。ここには人がいないのだろうか。
だが、そんな疑問はすぐに消し飛んだ。父が次に言った言葉の方が、私にはよくわからなかったから。
「だが、そんなことよりも大変だ。旅行はやめて、家に帰るぞ」
「え、なんで? 何かあったの?」
今になって、私は漸く父の顔を見た。そして気づいた。
父の顔が、初めて見るくらい青ざめていることに。
「お母さんから、電話があったんだ」
「え、お母さんから? どこ? お母さんは、今どこにいるの? 車?」
車に1人置いてきてしまったお母さん。きっと私達を心配して電話をかけてきたんだろう。そう思ったが、違っていた。
「何を言っているんだ。お母さんは今日家にいるだろう」
父の言葉が、理解できなかった。
母は、家にいる? さっきまで私達と車に乗っていた母は、実は家にいた?
混乱する私を、父と姉は不思議そうな顔で見ていた。
「え、なんで? お母さんも、一緒に来たよね?」
「美都子、お母さんは未華子と家に残るって言っていたでしょ」
未華子? 未華子って、誰だ? 今日、お母さんは私の車に乗っていたのに、ずっと家にいた?
頭が混乱する。今、何が起きているのか、理解できない。
考えて考えて、私は思い出した。
「あ、未華子……そうだ、ゴールデンウィークは部活があるからって、旅行は行けないって、言ってた」
未華子は、私の妹だ。今は高校生。どうして、今まで忘れていたんだろう。
未華子を思い出した私は、すべてを思い出すことができた。
お母さんは、未華子1人を家に残すことが不安だと言って、旅行にはいかないと言っていた。未華子も行きたがったけど、部活も休みたくないと言って来なかった。その代わり、2人にはお土産を買って帰ると約束していた。
でも、それなら、今日ずっと私達と一緒にいたお母さんは、誰だろう。私達は、誰と一緒に車に乗っていたのだろう。
「ねえ、さっきまで、私達と車に乗っていた女の人って、誰?」
「え、美都子、何言っているの? 車には私と美都子とお父さんしか乗ってなかったよ」
「……え?」
そんなことはあるはずない。だって、私には見えていた。私には声が聞こえていた。2人には、あの女の人が見えていなかった?
混乱してぐちゃぐちゃになりそうだったけど、私の頭は思ったよりも整理されていた。
「そんなことより実穂子、美都子、大変だ。お母さんから電話が来たんだが、今家に警察が来ている」
「えっ警察が?」
なんで? と言うように、姉が父に聞く。私もなんでかわからなくて父を見る。
「お父さん、何が、あったの?」
「落ち着いて聞いてほしい。実は、家の庭に、」
父から告げられた言葉に、初めは父が嘘をついているのかと思った。でもそれが冗談ではないことは、父の表情から分かった。
「家の庭に、死体があったらしい」
遠くで流れている水の音だけが、穏やかに私の耳に届いていた。
っていう感じの夢を見ました。




