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君がいたからここまで笑ってこれたんだ

ぴっ、ぴっ、と電子音が、どこか遠いリズムを刻んでいる。


それはまるで、まだ僕が知らない未来の予鈴のようだった。


意識がふわりと浮かび上がり、光の絵具をぶちまけたような視界に包まれる。


足元の感覚が消え、次に僕が立っていたのは、キャンバスを茜色で塗り潰したような河原だった。


風は甘く、やわらかい。


そよぐ草の音は、誰かの内緒話みたいに僕の耳をくすぐる。


空は、美味しそうなオレンジ色から、少しずつ大人びた群青色へとグラデーションを描いていた。


そこに、見覚えのある背中があった。


白いシャツの裾が、軽やかなステップを刻むように風に翻っている。


少しだけ高い背丈。僕と同じ、風に遊ばれる長い髪。


「……出雲」


震える声で呼ぶと、その背中はゆっくりと振り向いた。


二つ年上の、自慢の兄。


いつもちょっとだけ意地悪で、でも誰よりも僕のことを見透かしている、優しい笑顔。


「久しぶりだな、出帆」


昨日の続きの約束を果たすみたいな、あどけない声。


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


それは苦しいだけじゃない、甘酸っぱくて、胸が弾けるような、そんな不思議な痛みだった。


「兄さん……っ」


駆け寄ろうとして、足が止まる。


あの日、僕が伝えられなかった「ありがとう」や「ごめんね」が、心から溢れ出そうで怖かった。触れた瞬間、この魔法のような時間が解けてしまう気がしたんだ。


出雲はそんな僕を見て、くすりと、いたずらっぽく笑う。


「そんな顔するなよ。俺は幽霊じゃない。……お前が心の中に隠してた、特別な秘密の一部だよ」


「……どういう意味?」


「お前がまだ、俺を必要としてるってことだ。ほら、まだ伝えきれてないことがたくさんあるだろ?」


夕陽が、彼の横顔をパステルカラーに染め上げる。


その輪郭はどこか透き通っていて、きらきらした光の粒に溶けそうだった。


「兄さん、僕……」


守らせてしまった。僕のせいで、兄さんの物語を終わらせてしまった。


そう言いかけて、言葉が詰まる。


「俺のこと、後悔してるか?」


静かに問われる。僕は全力で首を振った。


「違う……! そんなわけないよ。ただ……」


ただ、あの日の選択を「間違い」にしたくなかった。


出雲はふっと、宵の明星を探すように空を見上げた。


「俺はな、自分で選んだんだよ。あの時、あの場所で」


風が一段、強く吹く。まるで僕の背中を押すみたいに。


「怖くなかったの?」


思わず漏れた問いに、兄は少しだけ照れくさそうに笑った。


「怖かったさ。お前と一緒にやりたいことも、まだたくさんあったしな。……でもな、出帆」


まっすぐに視線が重なる。その瞳は、どんな宝石よりも澄んでいた。


「守りたいものがあった。それだけで、俺の人生はキラキラしてたんだ」


その言葉は、あの子の――陽翠の声と重なった。 


臆病で、でも誰より一生懸命に誰かを想う、あの子のひたむきな輝きと。


「兄さんは、後悔してないの?」


「ああ。最高に幸せな結末だったよ」


即答だった。


「お前は?」


逆に問われ、僕は視線を落とす。手が、小さく震える。


「守れるかわかんない。僕、まだ自分のことで精一杯で……。もし失敗したら、全部壊しちゃいそうで」


出雲は近づき、そっと僕の頭を叩いた。ごつごつした、懐かしい感触。


「自信なんて、恋と同じで後からついてくるもんだ」


「……え?」


「迷うってことは、それだけその子のことが『特別』だってことだ。本気で向き合ってる証拠だよ」


兄の声は、心拍数を跳ね上げるピアノの旋律みたいに、軽やかで優しい。


「逃げたいなら逃げてもいい。でもな、出帆。お前が『守りたい』『隣にいたい』って思うあの子への気持ちは、絶対に嘘にしちゃダメだ」


思い浮かぶ顔がある。


少しだけ不器用で、でも笑うと世界がパッと明るくなるような、黒髪の少女。


「陽翠ちゃん、だろ?」


「な、なんで……っ」


図星を刺されて、顔が熱くなる。


出雲は「やっぱり」と、声を弾ませて笑う。


「全部顔に書いてある。お前、隠し事ヘタクソだもんな」


「……兄さん」


「大事なんだろ?」


僕は、耳まで赤くなるのを感じながら、小さく頷いた。


「なら、生きろ」


その言葉は、甘いパレットの中に混じった、たった一つの鮮烈な色。


「俺の分までなんて、そんな重たい義務じゃない。お前は、お前の好きな色で、お前の人生を塗りつぶせ」


「じゃあ、僕はどうすればいいの?」


「お前の分を、あの子と一緒に生きるんだよ」


風が止み、世界に静寂が訪れる。


「俺は、お前が幸せそうに笑ってる顔が、この世で一番の宝物だった」


不意打ちのような言葉に、視界が滲む。


「兄さん、僕……まだ弱いよ。すぐ迷うし、泣き虫だし」


「知ってる。でもな、出帆。弱いままでも、誰かと手をつなげば進めるんだ」


兄は夜空に、一番星を指差した。


「あれ、どっちが先に見つけるか競争したよな。お前、いっつも負けて頬っぺた膨らませてさ」


「……覚えてる。あれ、兄さんがずるしてたんでしょ」


「はは、バレたか」


懐かしい笑い声が、夜の風に溶けていく。

出雲の輪郭が、少しずつ、淡い光に包まれて薄れていった。


「兄さん、待って——!」


「もう時間だ。あの子が、お前の名前を呼んでる」


「また……会えるかな」


兄は一瞬だけ、いたずらっぽく小首をかしげて言った。


「お前がとびきりの笑顔を見せてくれる時、きっとな」


光が彼を飲み込み、世界が白く弾ける。


「出帆」


最後に呼ばれる。


「大好きだよ。最高の弟だ」


その言葉が落ちた瞬間、ぴっ、ぴっ、という現実の音が、すぐそばで鳴り響いた。


重い瞼を持ち上げる直前、兄の声がもう一度だけ、耳元で歌うように響いた。


——生きろ。


そして僕は、陽翠の待つ、輝くような現実へと帰っていった。

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