欠けた天に菫は咲く
朝日が昇る。
たとえ何もかもが消え去ったとしても、片割れを失った太陽は何事もなかったかのように空へと現れる。
東の空を染め上げ、静かに街を照らす。その光はあまりにも無垢で、残酷で、優しい。
朝、名前を呼んで起こしてくれる声はもういない。
「蓮、遅刻するぞ!!」
と呆れながら布団を剥がす兄も。
明るく「いってらっしゃい!」と背中を叩く姉も。
怒りながらも結局は僕のネクタイを直してくれた手も、もうどこにもない。
静まり返った家は、広すぎる。
時計の針の音だけがやけに大きく響く。
ありふれていたはずの日常が、いまはどれほど尊いものだったのかを思い知らされる。終わりが来ることを待つこの世界で、僕だけが取り残されたみたいだった。
適当にトーストを焼き、焦げた端をそのまま口に詰め込む。味なんてわからない。ただ咀嚼して、飲み込む。それだけで今日が始まってしまう。
家を出ると、夏の名残がゆるやかに遠のいているのがわかった。
燦々と輝いていたはずの太陽は、どこか弱々しく、秋の気配を含んでいる。空は高く、風は少し乾いている。
河原へと足を向ける。
そこには、見慣れた背中があった。
「あれ、菫子?」
「ん、蓮か。」
振り返ったのは、バディの椎名菫子。
長い前髪が風に揺れ、その奥の瞳を隠している。パーカーの袖は大きく、細い体を包み込むようだった。
「仕事はどうした?」
「さぼった」
「あはは。同じだな」
笑い声は空へ溶ける。けれど、その響きはどこか空虚だった。
川面がきらきらと光を反射する。
太陽を受けて揺れる花々も、何も知らない顔で輝いている。
「悲しいか?」
不意に、低い声が落ちる。
「当たり前でしょ」
即答だった。
麗奈も、玲もいなくなった。
世界にただ一人だけで取り残されたような感覚が、胸の奥に重く沈んでいる。
目の前で光る川も、風に揺れる草も、空の青ささえも、すべてを呪いたくなった。
どうして世界は続くのか。どうして朝日は昇るのか。
「蓮の兄が、幻蝶谷で守った人がいるんだ」
菫子は川を見つめたまま言った。
「流凪出帆って奴だよ」
「りゅうなぎ、いずほ……」
聞き覚えのない名前を、口の中で転がす。
音だけがやけに生々しい。
「白銀陽翠の恋人だ。あんたの兄は、大切な人の大切な人を守ったんだよ。人形に変えられてなお」
胸がぎゅっと締めつけられる。
……玲らしい。
正義感が強くて、責任感が強くて、誰よりも他人のために動く人だった。
「………そう」
それ以上、言葉は出なかった。
川風が吹き抜ける。
菫子の前髪が揺れ、隠れていた瞳が一瞬覗く。深い緑色。その片方は、白く濁っていた。
「これから、どうすんだ?」
問いは軽いのに、重い。
「………どうしようかな」
浄化師をやめるか、続けるか。
戦いに意味はあるのか。守れなかった命の重さを、どう背負えばいいのか。
「菫子は、やめようと思ったこと、ないの?」
問い返すと、彼女は小さく笑った。
「数え切れないほどな」
風がパーカーを膨らませる。
「初戦で男の子が死んだ。守れなかった。三回目の戦闘で友人が私を守って死んだ。二十回目には片目を潰されて、三十五回目には小指ぶった切られた。」
淡々と語られる数字が、現実を突きつける。
「そのたびに、もうやめようかと思ったんだ」
欠けた小指。濁った片目。パーカーの下に隠された無数の傷。
前髪がふわりと上がり、端正な顔に刻まれた痕がはっきりと見えた。それは痛みの証であり、彼女が生き延びた証でもあった。
「それでも、救えた命もあったんだ」
静かな声。
「震えながらありがとうって言われたこともある。家族を守れた子どもが泣きながら笑ったこともある。」
彼女は空を見上げる。
「それだけで、今は充分に生きていける」
にかっと笑った。
その笑顔は、どんな花よりも眩しく、どんな光よりも強かった。
傷だらけなのに、欠けているのに、どこまでも満ち足りている。
僕は初めて思った。
強さって、失わないことじゃない。
失っても、立ち上がることなんだ。
「立ち上がれよ、蓮。明日は絶対晴れるからさ」
差し出された手は、小指が欠けている。それでも、確かに温かい。
僕はその手を取った。
冷えていた指先に、体温が伝わる。
欠けた手と、震える手が重なる。
朝日は、相変わらず昇っている。
片割れのいない世界でも、何事もなかったように。
けれど、ほんの少しだけ、光が優しく見えた。
明日が晴れる保証なんて、どこにもない。
それでも。
「……ありがと、菫子」
小さく呟くと、彼女は照れくさそうに鼻を鳴らした。
川の流れは止まらない。太陽もまた、昇り続ける。
ならば僕も、もう一度だけ立ち上がろう。
兄が守った命の先へ。
姉が願った未来のほうへ。
欠けたままでもいい。
傷だらけでもいい。
それでも、生きていく。




