昴の星は届かぬ雲の狭間で
「っ……嘘だろっ………」
眞雲みらんの訃報を聞いたとき、昴柚羽の心は崩れ落ちた。
「四眷属と対峙したそうだ。遺体は……残っていない」
二課のリーダーの桜月さんが告げた真実が今はどうしようもなく憎たらしくて仕方がなかった。
あの太陽みたいな笑顔を一生忘れない。
***
「はっ、別れるって……」
喉の奥で、乾いた笑いがひび割れた。冗談だと言ってくれと願う間もなく、彼女は静かに頷く。
「うん。そのままの意味だよ。」
目の前に立つ周防みらんは、いつもよりもずっと暗く沈んでいた。
陽だまりのように笑う彼女の面影はそこにあるのに、金色の瞳の奥に、深い影が揺れている。決意の色だった。揺らがないと決めた人間の目。
「浄化師になる。柚羽はもう関係ないから、お互い好きに生きよう」
その言葉は、刃よりも鋭く胸に沈んだ。
「ちょっと待っ……」
伸ばした手は、彼女の袖を掠めることすらできない。
「それじゃ、ね」
淡い声音とともに、彼女の姿は遠ざかっていった。甘い花の香りと、陽光を溶かしたような金色だけが、視界の端で揺れて消える。
そしてまた、一人。
周防みらんのいない空気は、どこか濁っていた。街の色はくすみ、風は冷たく、呼吸さえ重たい。世界から一枚、光の膜が剥がれ落ちたようだった。
再会したのは、それから二年後。
「っはぁ、はぁっ……!」
肺が焼ける。耳を裂くような魔物の咆哮が、狭い路地に反響する。
目の前で家族が倒れ、赤が石畳を濡らしていく。温もりが消えていく瞬間を、ただ見ているしかなかった。
暗い路地の中で、世界の終わりを悟った。
そのとき。
「翠煙」
低く、落ち着いた声が夜を切り裂いた。
二年前、耳に馴染みすぎるほど聞いた声。
「……みらん?」
振り返った先に立っていたのは、記憶よりも少し大人びた彼女だった。
長い金髪には魔物の血が飛び散り、白くなめらかな肌にも赤が滲んでいる。それでも、淡い光を纏った金の瞳は、変わらずまっすぐ俺を射抜いていた。
「柚羽……」
名前を呼ばれた瞬間、崩れかけていた心が軋む。
「みらんっ……会いたかっ──」
言葉は途中で止まった。
彼女の左手、薬指。
そこに嵌められた、細い銀の指輪。
「……結婚したんだ。つい最近。」
あまりにも静かな告白だった。世界が、音もなく崩れ落ちる。
胸の奥で鼓動していたものが、誰か別の人のものになったと、残酷なほど理解してしまった。
「そうか……おめでとう」
喉を絞るようにして、それだけを吐き出す。
それ以上は何も言えなかった。
言えば、みっともなく縋ってしまいそうだったから。二年前に置き去りにされた感情が、溢れ出してしまいそうだったから。
沈黙が落ちる。
そして、またそれぞれの道を歩くはずだった。
「……何してんの」
二度目の再会は、ビルの屋上。
夜風が強く吹き、街の灯りが遠く滲んでいる。縁に立つ足元は、ひどく頼りない。
「死にたい。……家族に会いたい。」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
すべてを失ったあと、残るのは静寂だけだ。
その手を、彼女は迷いなく掴んだ。
強く。確かに。
「離せよ……もう生きる理由なんてないんだよっ……!」
叫びは夜に散る。それでも彼女の手は、びくともしない。
「なら、」
一拍の間。
「私が柚羽の生きる理由になる」
その一言で、時間が止まった。
「それでいいでしょ? 生きろ。生きろ。明日を見失わないで。下を向くななんて言わないから。何があっても止まらないで。歩き続けて」
金色の瞳が、涙で滲む視界の中でもはっきりと見えた。
「どんな道を選んでもいい。好きな道を自分で選べばいい。道は絶対、繋がってるから」
その言葉は、闇の底に差し込む光だった。
ああ、そうか。
俺はまだ、終わっていない。
あの瞬間、俺の心臓は生まれた。
失ったものの代わりではなく、確かに新しく芽吹いた鼓動。
浄化師になると告げたとき、みらんは露骨に顔を曇らせた。
「なんでこの道なの? 柚羽まで命を懸けるの?」
怒りというより、恐れが滲んでいた。
「当たり前だろ」
即答だった。
「大切なものを守るためだよ」
彼女はしばらく黙り込んで、それから小さく肩を竦める。
「──ばっかみたい」
くすり、と笑った。その笑顔は昔と同じで、けれどどこか切なかった。
守るために戦う。
戦うために生きる。
たとえ彼女の隣に立つ未来がなくても。たとえその指輪が、別の幸福を示していても。
***
「幻蝶谷で、鴇壬矢がみらんを……止めたんですね」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。喉の奥が乾いて、うまく息が吸えない。
「ああ。鴇壬矢が、全部な。友人を魔物で終わらせないために。自らの命を犠牲にして。」
静かな肯定だった。事実を告げるだけの、揺らぎのない声音。けれどその奥には、言葉にならない痛みが沈んでいる。
あの日。
俺は別任務で、幻蝶谷へ駆けつけることができなかった。
炎に包まれた谷。舞い散る蝶。崩れ落ちる光。
親友と共に生き、そして共に死んだ、みらんと鴇壬矢。
守れなかった、という現実だけが、遅れて胸に突き刺さる。
桜月さんと別れ、俺はひとり屋上へ向かった。
二年前、あの夜と同じ場所。夜風が強く、街の灯りが滲んでいる。
みらんに、声をかけてほしかった。
「何してんの」って、あのときみたいに。
叶うわけもないのに。
みらんがいなくなってからも、俺はずっとみらんを探していた。
人混みの中、金色の髪を見かければ振り返り、甘い香りが風に混じれば足を止めた。そんなはずはないとわかっていても、心だけが追い続ける。
みらんに言いたいことがある。
伝えなければいけないことがある。
もっと早く言えていたら。
あのとき、指輪を見た瞬間に飲み込まずに。
屋上で手を握られたときに、素直に泣けていたら。
今頃、何かが変わっていたかもしれなかった。
みらんは「死にたい」と言っていた。
けれど、それはきっと違う。あれは諦めの言葉じゃない。
あれは、叫びだった。
彼女は心の底から「生きたい」と願っていた。
妹を失い、希望を奪われ、それでもなお、生きたいと足掻いていた。
だからこそ浄化師になり、だからこそ最後まで抗った。
対して俺はどうだ。
格好つけて「生きたい」なんて言った。
みらんの前で、胸を張って。
けれど本当は、死にたかった。
死にたかった。
家族に会いたくて。みらんに会いたくて。
もう触れられない人の温もりを求めて、終わりへと手を伸ばしていた。
みらんは、他の人に繋がれた命を無駄にしないように生きようとした。
俺は、もういない人に会いたくて、死を望んだ。
死にたい俺は、今日も息をして。
生きたいみらんは、明日を見失って消えていった。
世界の不平等さと残酷さが、この対比に凝縮されている気がしてならない。
どうしてだろうな、みらん。
お前が生きたがった明日は、どうして俺のほうに転がり込んでくる。
夜風が頬を打つ。
冷たいのに、どこか優しい。まるで、あの日の手の温もりの残像みたいだ。
空を見上げる。雲の隙間から、かすかな星が瞬いている。
あの谷で舞っていた蝶たちのように、遠く、淡く。
「さようなら。……眞雲、みらん」
名前を呼ぶと、胸の奥が軋んだ。
それでも、今度は飲み込まない。
さようならは、終わりの言葉じゃない。
抱えたまま歩き出すための、区切りだ。
風に溶けて、声は夜へ流れていく。
いつか。どこかで。
届けばいいと、願っている。
もしも届くなら、伝えたい。
俺はまだ、生きている。
みらんがくれた理由を、胸に抱いたまま。そしてきっとこれからも、生きていく。
不格好でも、迷いながらでも。
みらんが願った「生きたい」を、
俺が背負って、明日へ連れていく。




