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備忘録

そして、時は過ぎていった。


幻蝶谷が壊されたあの日から、いくつもの風が巡り、幾度も月が欠け、満ち、また欠けていった。


谷を焦がした炎の匂いも、空を引き裂いた悲鳴も、いまは風の奥に溶けている。


それでも、忘れられない光景がある。


幼い少女が、未来を背負うはずだった少年が、友人を想い守った女性が。


月へと昇るように輝いた蝶が、静かに夜へ溶けていったこと。


それらすべてを抱えながら、私たちは今日も歩いている。再生と再世を掲げて。壊れたものを繋ぎ、失ったものに祈りを捧げ、明日へ向かう足を止めないために。


「陽翠ちゃん」


柔らかな声に呼び止められ、振り返ると一羽さんが立っていた。夏の終わりの陽射しを受け、紫の髪が淡く光っている。

 

その瞳には、かつてと同じ強さと、少しだけ深い影があった。


「ごめんね、手伝わせちゃって。怪我も治ったばっかりなのに」


「いいえ、いいんです」


本心だった。傷は塞がっても、痛みが消えるわけではない。でも、立ち止まる理由にもならない。


どれだけ泣こうとも、どれだけ蹲ろうとも、時は待ってくれない。


永遠みたいな嘘は、今日も平等に進み続ける。だからこそ、歩く。息をしている限り、前へ。


「谷の復興、案外近そうだわ。」


一羽さんは手にしていた荷物をそっと地面に置き、崩れた石垣の上に腰かける。視線の先には、少しずつ緑を取り戻し始めた谷の風景。


焦土の間から芽吹いた若草が、光を浴びて揺れている。


「ねえ、陽翠ちゃん。知ってる?」


「この谷の蝶はね、星になった魂の生まれ変わりっていう言い伝えがあるの」


風が吹き、蝶たちが一斉に舞い上がった。


太陽の色を宿した二匹がくるりと円を描き、淡い金色と鴇色の蝶が寄り添う。


白く小さな蝶が、ふわりと高く昇る。


他にも、数えきれないほどの翅が光を弾いていた。まるで空そのものが、息をしているみたいに。


「欠けた月が満ちる夜、


銀の粉を振るい


一羽の蝶が


暗闇から目覚める。


閉ざした翅を広げれば、


不意に心を掠めてく。


蛹のような孤独を脱いで、


銀の翅した蝶が舞う。


可愛いあの子の声がする──」



「それ……」


胸の奥が震える。この旋律、日野さんが歌っていたあの………


「夕憐香夏姫様は、昔ここに住まれていたらしいわ。この歌は、夏姫様の伴侶の男性が唄われたものだって。」


遠い昔、大凶明媚を追い詰めた偉大な浄化師。


彼女は光そのもののような人で、その隣に立った一人の男性は清く正しい水の人だったと。


彼は決して強くはなかったけれど、誰よりも深く彼女を想っていたのだと。


「記憶から目覚めて、可愛いあの子へ会いに行く……まるで、流凪さんと陽翠ちゃんみたいね」


風が吹いた。夏の終わりを告げるその香りは、どこか寂しく、そして優しい。草の匂いに混じる、遠い日の灰の残り香。それでも、空は高く澄み渡っている。


「いつか失って、奪われて、消える運命でも、私達の物語は消えないし忘れられないのよ」


「……そう、ですね……」


言葉に詰まり、喉が熱くなる。


涙は零さないと決めていたのに、視界が滲む。失った命は戻らない。壊れた日々も帰らない。でも、確かにここにあった想いは、誰にも奪えない。


「流凪さんは?」


「……まだ、目を覚ましてません」


静かな答えに、一羽さんは小さく頷いた。 


「そう」


白く小さな蝶が、ふわりとこちらへ飛んでくる。差し出された一羽さんの細い指先に、そっと止まった。翅がかすかに震え、陽の光を弾く。


「目を覚ましたら、伝えなくちゃいけないこと、たくさんあるんじゃないの?」


くすりと笑うその横顔は、どこか母のようで、姉のようで、そして戦友のようだった。


「世界中の誰を差し置いても、何を引き換えにしても、あなたたちは幸せになるのよ」


強い言葉だった。祝福というより、祈りに近い響き。


「っ……はい!!」


胸の奥に火が灯る。季節の終わりは、さびしいだけのものじゃない。時が過ぎるのは、失うためだけじゃない。踏み出さなくちゃ、何も始まらない。


「陽翠ちゃん。夏姫様の伴侶の男性は、記憶障害を患っていたらしくってね。夏姫様のことを、なんて呼んでらしたと思う?」


「なんて呼んでたんですか?」


問い返すと、一羽さんはいたずらっぽく目を細めた。



「───備忘録」



「びぼう、ろく……」


耳慣れない言葉を、そっと口にする。


「忘れないようにする手帳みたいなものよ。偉大なる光の浄化師の呼び名にしては、ずいぶん粗末でしょう?」


くすくすと笑いながらも、その瞳はどこまでも優しい。


「でもね、夏姫様はそれをとても気に入ってらしたのよ。『夏姫様』と呼ばれるよりも、ずっと」


忘れないための名前。記憶が薄れても、想いだけは消さないための呼び名。


たとえ世界が彼女を伝説に変えても、彼にとってはただ一人の、大切な存在だったのだろう。


胸が締めつけられる。出帆が目を覚ましたら、私はなんて呼ばれるのだろう。


もし、記憶が欠けていたら。もし、またあの日々を忘れていたら。それでもきっと、私は笑って答える。何度でも、最初から。


「さあ、陽翠ちゃん。もう帰っていいわよ。流凪さんが待ってるわ」


その一言で、心が決まった。


居ても立っても居られなくなり、私は走りだす。足元の草を蹴り、風を切って、谷を駆け抜ける。風が私を包み、背を押す。空はどこまでも青く、雲はゆっくりと流れている。


出帆はもう、一人じゃない。


備忘録は、もう必要ない。


忘れないと誓う相手がいる。思い出してほしいと願う相手がいる。手を伸ばせば、届く距離に。


病室の扉を開ける瞬間、胸が高鳴る。


静かな呼吸音。窓辺に揺れるカーテン。差し込む光の中で、出帆は眠っている。その横顔は穏やかで、まるで長い旅の途中で少し休んでいるだけのようだった。 


「ただいま」


小さく呟く。返事はない。それでも、手を取る。温もりがある。確かな鼓動がある。


もう、奪わせない。もう、離さない。


たとえどんな運命が待っていようと。


私達は、もう一人じゃない。

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