砕けた夜の中心で君を想う
手を握って、走りだす。
絡めた指先から伝わる体温が、現実を強く引き戻す。冷えきっていたはずの夜気の中で、そのぬくもりだけが確かだった。
石畳を蹴る足音が重なり、鼓動と同じ速さで響く。目の前に広がる青はもう迷わない。
揺れていた瞳は、今は確かな光を宿している。
恐れも躊躇も飲み込んだ、強い色だ。
(明日も……また生きていたい)
胸の奥で、小さな願いが灯る。祈りというよりも、それは決意に近い。
思い出してくれてよかった。
君を……好きで良かった。
たとえ世界が何度壊れても、この感情だけは本物だ。
「あれ?もう帰ってきたの?」
背後から降る声は、薄氷の上を滑る刃のように冷たい。それなのに、どこか弾む響きを帯びていた。
振り返れば、月光を浴びて立つ瑠璃歌の姿。人でなくなったものの成れの果て。
けれど、その顔立ちにはまだ少女の面影が残っている。
だからこそ、胸を抉るほどに残酷だ。
「お気に入りも2体ともやられてるし……」
言葉は軽いのに、空気は重く凍る。
「ふざけんなっ……!!!」
その声を裂いたのは、震える若い声だった。
「紬を返してよぉっ!!!」
叫びが夜に砕け散る。
「煩い。せっかく会えた友達と喋ってる最中なのに」
瑠璃歌は退屈そうに目を細める。次の瞬間、紬ちゃんの姉――一羽さんが刃を振り下ろした。
「邪魔」
ひとこと。氷の花が爆ぜる。
「一羽!!!!」
叫びと同時に私は地を蹴り、一羽さんを抱きかかえて後退する。
凍った花弁が頬を裂き、冷たい血が伝う。
「大丈夫?」
腕の中の彼女は小刻みに震え、唇を噛みしめていた。
「瑠璃歌。さっき私のこと、友達だって言ってたけど」
「うん。言ったよ?それが?」
こてん、と首を傾げる仕草は昔のままなのに、その瞳は深い瑠璃色に濁っている。
人間だった頃の温度は、もう感じられない。
「人のこと傷つけるものを、私は友達とは呼ばないよ」
「……へぇ」
「言うようになったじゃん」
周囲の空気が凍り、五線譜のような光の線と、花弁が彼女を囲む。音と花。壊れた楽章の象徴。
「でもさ……あんたも人殺しでしょ?袴田勿忘のこと、許してないんだけど?」
言葉は鋭い刃。
「あなたの許しなんて乞わない」
勿忘くんと交わした時間。幻想だったかもしれない。夢だったかもしれない。
それでも、あの対話は私を前へ進ませた。
「昔はなーんにも喋らなかったのに、今は随分楽しそうなんだね」
「都合いいね、ほんとに」
うんざりした声とともに、空気が震えた。
「歌音斬刹」
音が刃となり、空気を裂く。
「眩き」
「雪消の水」
光と水が交差し、花と音の斬撃が嵐のように降り注ぐ。
鼓膜を揺らす高音、骨まで凍らせる冷気。花弁は刃より鋭く、旋律は絶望を纏う。
(壊さなくていい……!!心臓じゃなくても……!)
胸の奥で叫ぶ。羽衣の内に忍ばせた薬瓶を握りしめる。
小さな硝子の中、菊の紋様が淡く揺れていた。
「げほっ……」
口から血が伝った。出帆の白く淡い光を纏った夏の空のような刃は瑠璃歌に詰め寄る。
「強………終焉具、ね。陽翠と君で二人目か。」
「煩いな。黙ってくれない?」
出帆の頬に伝った血は瑠璃歌の皮膚につきゆるやかに細胞を焼く。水晶の血も、四眷属最強の前では効果がない。
「う゛っ……!!」
横向きに出帆が五線譜に払われた。
「出帆っ!!」
「大丈夫だ!前見て進んで!!」
目の前の五線譜は帯状なのに物体としてない。衝撃が目に見えてるみたいな………
「山紫水明」
攻撃ごと出帆の水は切り裂き流す。
「出帆!!あと一瞬!一瞬だけ!」
「一瞬……?」
瑠璃歌の声が風を切る。
生まれた隙を、私は逃さない。
「月映え」
月光を束ねた突きが闇を裂く。白銀の軌跡が瑠璃歌の右手を貫く。光が交差する。
「何してるの?心臓を狙わないと」
はらはらと手を振りながらとん、と余裕の笑みで心臓を指さす。
その瞬間、表情が歪む。
「っ……!?!?」
瑠璃色の瞳が見開かれた。
「これ、まさか……!!」
「断鎖者のいのりの……」
突きの一瞬、薬は血流に溶け込んでいた。いのりちゃんが作り上げた魔物用の毒。
菊の香りが広がり、瑠璃歌の身体がどろどろと色を変える。花弁は灰へ、五線譜は砕け、旋律は濁る。
「あーあ。流石に分が悪いや。」
それでも彼女は笑う。
「撤退」
「爆霊音死」
耳をつんざく爆音。彗星が落ちたような衝撃。地面が割れ、身体が浮く。
視界が白く弾け、肺の空気が奪われる。
「じゃあね、白銀陽翠。また戦おう」
遠ざかる声。煙と光の中、影は消える。
「待てっ……!」
走ろうとするけど、右脚がざっくり裂けている。血が石畳に広がり、月を映して鈍く光る。
「周防瑠璃歌っ!!!お前は!!絶対に罪を償う!!!お前が奪った命の重さを思い知れ!!!」
喉が裂けるほど叫ぶ。声は夜に吸い込まれ、返事はない。逃げられた。とどめを刺せなかった。視界が滲む。それでも、隣にある温もりは消えない。
出帆が肩を支える。
呼吸が近い。強く、優しい。私は歯を食いしばる。
「まだ……終わってない」
夜は静まり返り、砕けた花弁と灰が降る。遠くで一羽さんが紬ちゃんの遺した着物を抱きしめて泣いている。
守れた命がある。救えなかった命がある。その重みが胸に沈む。
「生きてる……」
ぽつりと零れる言葉。出帆の指が強く握り返す。
「うん。生きてる」
その肯定が、どれほど救いになるか。
血の匂いが風に溶ける。月は高く、冷たいのに、どこか優しい。私たちは立ち尽くし、荒れた戦場を見渡す。
砕けた石畳、焦げた地面、散った花弁。壊れたものばかりだ。
それでも、終わりではない。心臓は打っている。呼吸は続いている。
(明日も……また生きていたい)
願いは再び胸に灯る。逃げた瑠璃歌。背負った罪。消えない痛み。すべてを抱えて、それでも歩くしかない。
出帆の肩に寄りかかる。彼の鼓動が、静かに、確かに響く。夜明けはまだ遠い。けれど、東の空がわずかに白む気配がある。
どれだけ絶望が降り積もっても、光は必ず差すと信じたい。
「絶対に、終わらせる」
小さく呟く。出帆が頷く。
「一緒に」
その二文字が、何より強い。遠くで救急の灯りが瞬く。現実が近づいてくる。痛みが現実を知らせる。
けれど、握った手は離さない。失いたくない。もう二度と。砕けた夜の中心で、私たちは立っている。
血と涙と光の残滓の中で。それでも、前を見る。明日へ続く道は、まだ閉ざされていない。




