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白夜

眼前に立ちふさがる魔物の放つ瘴気が、夜の静寂を毒々しく侵食していく。


僕は切っ先をわずかに震わせ、冷徹な殺意を研ぎ澄ますように刀を握り直した。


鯉口を切るちゃきり、という硬質な音が、張り詰めた空気の中で異様に高く響く。


明鏡止水めいきょうしすい


吐息を白く凍らせ、雑念を削ぎ落とす。水面に映る月のように澄み渡った意識のまま、一息に踏み込んだ。


狙いは一点、魔物の心臓を貫く一閃。だが、透き通った浅葱色が空を切る手応えに、心臓が冷たく跳ねる。


魔物は柳のように身を翻し、嘲笑うような余裕でその一撃をいなしていた。


「ふーん……君、強いね。名前は?」


暗闇から響く声は、どこか甘く、それゆえに酷く不気味だった。


「………流凪出帆」


「出帆。良い名前だ。」


魔物の唇から零れ落ちた自分の名。その響きに、腹の底から不快な熱がせり上がる。


「その名前を呼ばないでくれる?」


陽翠が呼んでくれる大切な名を、血生臭い化け物に汚されるのは我慢がならなかった。


「なかなか尖った子だね。でも、いつまでそんな虚勢を張ってられるかな?」


「いつまでも。かな。」


唇を噛み締め、再び地を蹴ろうとしたその時。


「君の負けはもう確定してるのに?」


「は、」と吐き捨てようとして、違和感に気づく。


足首に、まるで恋人の指が絡みつくような、執拗で冷ややかな感触。視線を落とせば、そこには闇に紛れて咲き乱れる、透き通るような花びらがあった。


「花…………?」


それは生命の輝きを持たない、死を司る結晶。


氷桜冷華ひょうおうれいか


魔物の言葉と共に、視界が白く染まる。足元からぱきぱきと不吉な音を立てて、美しくも残酷な氷の花が僕の自由を奪い、凍てつかせた。


「残念だね。流凪出帆」


月光を反射して煌めく氷の牢獄の中で、僕はただ、自分を呼ぶ陽翠の声だけを思い出していた。


目の前に刃が振り下ろされた。


***

凍えるような寒さの中にいたはずだった。


指先の感覚すら奪う、終わりのない冬。思考は白く濁り、自分が誰であるかさえ、記憶の深層に沈めていた。


けれど、視界が歪む。


そこは、色鮮やかな記憶の断片が舞い散る、心の内側だった。


何も覚えていないはずなのに、胸の奥を突き上げるこの懐かしさは何だろう。風が凪ぎ、景色が色彩を取り戻していく。


「いずほ」


僕の名を呼ぶ声が聞こえた。


陽だまりのような温もりを纏い、一人の女の子がこちらへ駆けてくる。


逆光の中に溶ける彼女の顔はまだ朧げで、けれどその足取りは、僕の心臓の鼓動と確かに共鳴していた。


「どうしたの?」


君は誰、と問いかけたかった。けれど、僕の唇は僕の意思を裏切り、遠い日の無邪気な言葉をなぞる。


「お花!!きれいでしょ?」


彼女が掲げた手には、凛として咲く一輪の桔梗があった。


透き通るような紫が、少年の瞳を射抜く。見上げた空は、どこまでも澄み切った青で、僕たちを祝福するように笑っていた。


場面が暗転する。


幸福な青空は、湿った重い雲に塗りつぶされた。


頬を打つのは冷たい雨。公園の片隅で、僕は立ち尽くしていた。


「どうしたの……?」


目の前の少女の頬には、雨粒に濡れてなお痛々しい、青黒い痣が刻まれていた。


「──ちゃん。一旦家、来よう」


僕の隣で、僕によく似た面影を持つ、少し年上の誰かが彼女に手を差し伸べる。優しさと諦念が混ざり合った、震える指先。


「おい!!!うちの娘返せよ!!!」


怒号が静寂を切り裂く。右目の下に黒子のある男が、彼女の腕を乱暴に掴んだ。


「やだ………帰りたくない……」


少女の悲痛な叫びは、激しい雨音にかき消されていく。彼女の小さな背中が遠ざかるたび、僕の世界から少しずつ色が失われていった。


そうして、時は無情に過ぎ去った。


幾度目かの、眩暈がするほど暑い夏が巡ってくる。


鼻腔をくすぐる、草いきれとアスファルトの匂い。肌を焦がす強烈な日差し。


失ったはずの記憶が、熱気に浮かされて疼き出す。


橙色の夕焼けがゆっくりと溶け、紫がかった紺青へと移ろう。蝉の狂おしい鳴き声が、僕の意識を加速させた。


前で泣く彼女が、ふと立ち止まり、振り返る。


夕日に引き延ばされた彼女の長い影が、僕の足元に重なった。


僕も泣きそうだった。僕の全部を引き換えにしても。この生涯を君にあげても。


守りたい。




「ねえ、ひすい。大人になったら結婚しようよ」




その瞬間、世界から雑音が消えた。


彼女が顔を上げる。


透き通るような白い頬を伝う、真珠のような涙。


夜風になびく、烏の濡れ羽色をした黒髪。


そして、すべてを吸い込むような、宝石のように深く、輝く黒い瞳。


ああ、そうだ。


僕は、この瞳をずっと探していたんだ。


氷のように固まっていた僕の記憶が、一気に熱を帯びて融解していく。


凍える寒さも、名前も、すべてはこの瞬間に繋がるための空白だった。


「約束だよ。覚えててね」


夕闇に溶けゆく彼女の微笑みが、今、鮮明な色彩となって僕のすべてを塗り替えた。


***

ああ、そうだ。僕はこの瞳をずっと探していた。


氷のように固まっていた記憶が、轟音を立てて融解する。


ぱきり、ぱきぱき、と砕けるのは氷だけではない。凍えていた心臓が、熱を取り戻す。


僕は流凪出帆。


陽翠を守ると誓った人間だ。


「約束だよ。覚えててね」


夕闇に溶ける微笑みが、鮮烈な色彩となって全身を満たす。忘れてはいけなかったのに。


絶対に生きて帰る。生きて生きて………謝って。そして。


あの花紺青のその先を。


伝えようと。


――目を開ける。氷の牢獄にひびが走り、白い光が内側から溢れ出す。


前に立つ灰色の人形が、かすれた声で呟く。


「陽翠サン、ノ……大切ナ、人……」


胸が熱くなる。空っぽだった心が、確かな重みを持つ。


天音麗奈さんの弟の、天音玲さんだ。


「どいてくれないかな?君は人形だろう」


刀を握る。刃は白い光を纏い、夜を淡く染め上げる。


強い強い感情。


僕の全部を引き換えにしても。この生涯を君にあげても。


守りたい。



「終焉具・白夜」



光が脈動し、氷桜が音を立てて砕け散る。


破片は月光を浴び、星のように舞い上がる。



「君は僕の沈まない太陽だよ……陽翠」



熱が全身を巡り、緩やかで力強い流れとなる。


「さあ、かかってきてよ。滑稽で永遠の呪いに縛られた……魔物さん。」


雲が流れ、満月が姿を現す。白い光の中、僕は一歩踏み出す。


今度は凍らない。今度は忘れない。約束が刃となり、愛が力となる。夜を裂く一閃は、もう迷わない。

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