消え入る声で
「っ………!!!」
肺の空気をすべて搾り出されるような衝撃。視界が激しく上下し、身体が浮遊感に支配される。まずい。大きく飛ばされた。
千切れた雲が目に映り、叩きつけられる未来が目前に迫る。空中を舞う身体は、風の刃に翻弄されるばかりで自由が利かない。せめて着地はしないと死んじゃう——。
「光明輪!」
喉を震わせ、渾身の力を指先に込める。足元に展開した羽衣の光の輪が空気を蹴る足場となり、爆圧が落下の勢いを殺した。衝撃を逃がしながら、砂塵の舞う地面になんとか着地することに成功した。
「出帆!!」
叫びは虚しく静寂に吸い込まれる。彼の姿がない。同じ方向に飛ばされたはずなのに、周囲にはただ不気味なほどの静謐が立ち込めていた。
「陽翠!こっちこっち!!」
焦燥に焼かれる胸を、聞き慣れた声が撫でる。遠く、揺れる陽炎の向こうで出帆が私を呼ぶ声がして、縋るような思いでそっちに駆けていく。
「いた!怪我は?大丈夫?」
「うん。俺は大丈夫。陽翠は怪我してない?」
安堵に膝が震える。彼は優しく微笑み、慈し
むようにぎゅっと私の左腕を掴んだ。その体温を感じた瞬間、心臓が凍りつくような違和感が背筋を駆け抜けた。
「………あなた、出帆じゃないね」
「………え?」
目の前のそれは、影が濁るようににっこりと口角を上げてこちらを向く。
「出帆は自分のことを『俺』って言わない。それに……私の左腕を掴むこともない」
出帆は私の傷を掴まない。
「へぇ」
どぷん、と。
偽りの安らぎが、泥のように崩れ落ちる。目の前の皮が、夕闇に溶ける蜜蝋のように溶けていく。
「流石。早いなぁ。終焉具の使い手は違うね。」
「あんたは………誰。」
「俺も人形さ。だけど零蝶様の傑作の一人───ってとこかな」
「零蝶っていうのは瑠璃歌のこと?」
「瑠璃歌?彼女はそんな安い名前で呼ぶに価しないよ」
「彼女は四眷属最強だからね。」
瑠璃歌が………四眷属最強?数年前に共に歩んだ人が。人を愛する才能がなかったせいで離れさせてしまった愛する人が。
「っ───はぁっ」
かたかたと震える手を押さえた。羽衣が小刻みに揺れてあたりを淡い光で照らす。
「良い力だ。だけど────」
「夕憐香夏姫には遠く及ばない」
夕憐香夏姫。終焉具の最後の保持者。
「あっそ。」
軽く呟き羽衣に光を纏わせる。それが戦闘開始の合図だった。
「玲瓏ノ雨」
「呪術・宵纏」
暗く呟き辺り一面は暗くて黒い霧で覆い尽くされた。
「この霧………」
魔物特有の甘ったるい匂い。不快感のこみ上げる甘さが霧から立ち上る。
「ふーん……吸わない、のか。」
肺を焼くような甘い毒を拒絶し、肺活量の限界まで息を止める。
視界を埋め尽くす黒霧は、まるで意思を持つ泥のように肌に纏わりつき、体温をじりじりと奪っていく。
宵に溶けるような絶望の気配。しかし、私の意志の火までは消せはしない。
「光芒流し」
足元から真白な光が奔り、侵食する黒を流水のごとく流した。
薄暗い霧の中に、そこだけが月夜のように冴えわたる聖域が生まれる。
「あははっ! いいね、その抗う目。夏姫が愛した、あの滅びの輝きにそっくりだ」
霧の奥、声の主がどこにいるのか判然としない。
「夕憐香夏姫のことを知ってるの?」
「……ああ!知ってるさ。あの方をあと一歩まで追い詰めた最高の浄化師だったからな!」
右から、左から、あるいは頭上の虚空から。
幾重にも重なる嘲笑が、鼓膜を直接撫でるように響く。
「綺麗だ。だけど……その光、いつまで保つかな?」
不意に、霧が形を成した。
それは千本の黒い糸となり、全方位から私を串刺しにせんと殺到する。
逃げ場はない。避ける隙間もない。
「月光・朧月夜」
ぼんやりと光るようにあたりの糸をはね除ける。
美しくも冷徹な、光と闇の拮抗。
「……いた」
光が弾ける一瞬の隙間。
霧の揺らぎの向こう側に、歪んだ笑みを浮かべる「それ」の本体を捉える。
「出帆の姿で、そんな顔をしないで。……反吐が出る」
怒りが静かに、けれど苛烈に、私の心を沸騰させる。
羽衣が激しく波打ち、周囲の静寂を切り裂くような高音を奏で始めた。
「夏姫には及ばないって言ったけど……ええ、そうかもね。でも——」
強く地面を蹴った。
光の残像を霧の中に引きずりながら、最短距離で影の心臓へと肉薄する。
「今の私には、守らなきゃいけない『日常』がある!」
掲げた掌に、凝縮された光が太陽のごとき輝きを持って顕現する。
それは闇を照らす灯火ではなく、邪悪を焼き尽くすための裁きの炎だった。
「眩き!!」
人形の核を破壊した。ぱりん、という硬い手応えと共に瑠璃が砕けた。
その音と共に、偽りの鼓動を刻んでいた瑠璃の核が、抗いようのない光の奔流に耐えかねて砕け散った。
飛び散った破片は、宵闇の霧を切り裂く青い火花となり、宙で残酷なほど美しく踊った。
ゆっくりと霧が晴れた。
「出帆………」
消え入る声でその名を呼んで。




