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さよならだけが

「さよならだけが人生だ」と、誰かが嘯いた。


出会いの数だけ別れがあるのなら、その逆もまた然り。さよならの数だけ、いつか再会の陽光が差し込むこともあるだろう。


けれど、その再会が、泥を啜るような絶望の色をしていなければ、人はどれほど幸福でいられただろうか。


「ははっ……、最悪だ」


鴇壬矢萌音ときみやもねの唇から漏れた自嘲的な呟きは、ひらひらと舞い踊る極彩色の蝶の羽ばたきにかき消された。


森の静寂を切り裂くのは、風の音でも鳥のさえずりでもない。かつて愛したはずの、友の成れの果てが立てる不機嫌な軋みだ。


「みらんっ! 何してんだよぉっ!!」


叫びは木々に撥ね返り、空虚に響く。


目の前に立つのは、灰色の沈黙を纏った「人形」だった。かつて太陽をその身に宿したかのように眩しかった友人は、今や色彩を奪われ、魂の抜け殻となったまま、ただ無機質な殺意だけを駆動させている。


萌音の手の中で、短剣がちゃきりと小さく、鋭い悲鳴を上げた。


握り締めた柄からは、手のひらを突き抜けて心臓まで凍りつかせるような冷たさが伝わってくる。目の前に立つ「それ」を直視しようとすればするほど、視界が歪み、涙の膜が景色を揺らした。


(壊さなければいけない。終わらせなければいけない)


人形の胸の奥で、冷たく鈍く、それでいて毒々しいほどの美しさを放つ「瑠璃の心臓」が脈動している。あれが、かつてのみらんから命を奪い生きる意味を失わせた核。


この谷を、静かな幸せに満ちたこの場所を守るためには、その核を砕かなければならない。それが、かつての約束を守る唯一の、そして最悪の方法だった。


不意に、脳裏を眩い記憶がよぎる。


『萌音っち!!』


屈託のない、鈴を転がしたような声。世界がひっくり返っても笑い飛ばしてくれそうな、あの明るい響き。


『見て見て、綺麗っしょ? 丹精込めて手入れしてんだから!』


そう言って自慢げに指を通した、長い長い金髪。夕陽を溶かし込んだような、誇らしげな黄金の輝き。


けれど、思い出の全ては今、萌音を切り刻むための鋭利な刃へと変貌していた。


かつての美しき金髪は、今は灰がかった銀の鞭となり、意思を持たない蛇のように地面を這い、空を裂く。


周囲の木々は、その髪が振るわれるたびに紙細工のように切り落とされ、深い森は無惨にも剥き出しの荒野へと削り取られていく。


人を、そして誰かを守るためにあったはずの「力」が、今はただ、人を殺めるための道具として振るわれていた。


「みらん! 私だよ! 萌音だよ! 思い出してよ……っ!」 


必死の呼びかけは、空気を震わせるだけで、人形の鼓膜には届かない。


みらんの瞳には、かつての温かな情愛の欠片もなく、ただ虚無の深淵が広がっている。彼女は全ての言葉を無視し、機械的な正確さで萌音の命を刈り取ろうと間合いを詰める。


「あぐっ……!」


熱い痛みが走った。


みらんの髪の一房が、風を裂いて萌音の脇腹を掠めたのだ。衣服が裂け、肌に赤い一文字が刻まれる。滲み出した鮮血が土に滴り、その赤が、この悪夢が現実であることを残酷に突きつけていた。


逃げ場のない森の開拓地で、二人の影が交差する。


かつて背中を預け合った絆は、今やどちらかが倒れるまで終わらない断罪の鎖となって二人を繋いでいた。


萌音は短剣を握り直し、滲む視界の先で、冷たく光る瑠璃の心臓を見据える。


「ごめん、ね……みらん」


祈るような、あるいは呪うような囁きが、荒れ果てた戦場に溶けて消えた。


さよならだけが人生だというのなら。


この最悪の再会に終止符を打つことこそが、私にできる最後の「愛」なのだと。


萌音は震える足を一歩前へ踏み出し、灰色の嵐の中へと身を投じた。


雪月花せつげつか


月の斬撃はただ髪の一房を斬っただけ。


そして。


「あ……」


声にならなかった。衝撃は、痛みよりも先に喪失感として脳を焼いた。


横薙ぎに振るわれた灰色の髪は、もはや鋼鉄の斬撃だった。萌音が踏み出そうとした右足の膝下を、無慈悲な速度で断ち切っていく。


重力を失い、視界が激しく回転する。湿った土の匂いと、鉄臭い飛沫が顔にかかった。地面に叩きつけられた衝撃で肺の空気が押し出され、萌音は喘ぐように泥を啜る。


(熱い。……いや、寒い……?)


切り離された肉体が、そこにあるはずのない感覚を求めて痙攣する。


どくどくと溢れ出す生命の奔流。意識が遠のき、視界が白濁していく。その薄れゆく光の向こう側で、現実の惨状を塗り潰すように、鮮やかな情景が溢れ出してきた。


それは、今とは正反対の、柔らかな陽光に満ちた午後だった。


───

「……気持ち悪いんだよ、お前。その暗い顔」


「……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」


学校のクラスメイトたちに囲まれ、泥を投げつけられていた。


内気で、言葉を飲み込むことしか知らなかった私は、ただ亀のように背を丸め、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。誰も助けてくれない。この世界に味方なんていない。


そう諦め、瞳を閉じた時だった。


『――そこまでにしておきなよ!』


凛とした、鈴の音のような声。


顔を上げると、そこには逆光を背負って立つ一人の少女がいた。


『萌音っちに触らないで。……次は、私が相手になるけど、いい?』


黄金の髪をなびかせ、みらんが割って入った。


彼女は萌音よりも小さな体で、けれど誰よりも大きな勇気をその背中に宿して、理不尽な悪意の前に立ちはだかった。


『大丈夫? 萌音っち』


差し伸べられた手。


泥にまみれた萌音の頬を、彼女は自分の袖で丁寧に拭ってくれた。


その時に見せてくれた、向日葵のような輝かしい笑顔。それが、萌音にとっての世界のすべてになった。


彼女に憧れ、彼女の隣に並びたくて、弱虫だった萌音は短剣を手に取ったのだ。


『萌音っちが弱いなら、私が守ってあげる。私が道に迷ったら、萌音っちが叱ってね。二人で一人の、最強のコンビでしょ?』


そう言って、二人は小指を絡めた。


あの時、みらんの長い金髪が風に踊り、萌音の鼻先を擽った。その香りは、陽だまりのような温かさに満ちていた。


「……う、ぐ……ぁ……!」


現実の泥は、あの日の記憶のように温かくはない。


萌音は欠損した足の痛みに絶叫しそうになるのを、奥歯が砕けるほど噛み締めて堪えた。


目の前で、灰色の髪を不気味に蠢かせている「それ」は、あの日自分を救ってくれた英雄の成れの果てだ。


虐められていた自分を救ったその「力」が、今は呪いとなり、彼女自身を食い破っている。


(……助けて、なんて言わない)


萌音は、血に濡れた右手を泥に突き立てた。

指爪が剥がれ、土が食い込む。それでも、這い進むことを止めない。


あんなに温かかった思い出が、皮肉にも今、自分を殺そうとしている「人形」の輪郭を形作っている。


「がはっ……、ぁ……」


意識が強制的に現実に引き戻される。

口内を血の味が支配し、切断された足からは、魂が削れるような激痛が波のように押し寄せていた。


目の前には、依然として無機質な灰色の人形。


彼女は倒れ伏した萌音を見下ろし、感情の欠片もない動作で、次なる処刑の準備を整えている。その長い髪が、死神の鎌のように鎌首をもたげた。


「みら……ん……」


震える手で短剣を握り直す。


指先は冷え切り、感覚はとうに消え失せている。それでも、萌音は逃げなかった。


脳裏に焼き付いた黄金の笑顔が、今の灰色の絶望を拒絶している。


(あの約束は、まだ死んでない……!)


『道に迷ったら、私が手を引いてあげる』


そう言った。今、最も深い闇の中で道に迷っている。


瑠璃の心臓という呪いに囚われ、自分自身を壊し続けている。


ならば、その手を引くのは、その迷いを終わらせるのは、自分しかいない。


萌音は、残された左足と両腕に渾身の力を込め、泥を這った。


切断面が地面に擦れ、意識が飛びかけるほどの苦悶に顔が歪む。けれど、その瞳だけは、人形の胸で拍動する忌々しい「瑠璃の心臓」を射抜いていた。


さよならだけが人生だというのなら、せめてこの最悪な再会を、最高の決別で上書きしてみせる。


「……連れてってやるよ、みらん。私たちが……笑ってた、あの場所に……!」


萌音は、自らの血で描かれた軌跡を背に、最期の一撃を繰り出すべく、死の淵で牙を剥いた。

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