金色の蝶
居ても立っても居られず、私は走りだした。
「───っ」
肺が焼けるような熱を帯び、喉の奥には鉄の味がせり上がる。視界が激しく上下し、足元の枯れ葉を踏みしめる乾いた音が、静寂に包まれていたはずの森を乱暴に掻き乱した。
不安なだけだったら良い。私の取り越し苦労で、ただの悪い夢だったらどれだけ救われるだろう。
可能性だけだったら、笑い話で済んだのに。
それでも、止まることはできなかった。本能が、魂が、大切な何かが零れ落ちる予感に震えていた。
目の前を、一羽の白い蝶が横切った。
それはゆらゆらとした覚束ない羽ばたきの中に、自ら発光するような鋭い金色の光を宿している。昼間の太陽をそのまま薄い羽に閉じ込めたような、神々しくも禍々しい輝き。
その色が、いつか隣にいた二つの眩しい太陽を思い起こさせ、視界が急激に歪む。溢れそうになる涙を、荒い動作のまま手の甲で拭った。
次の瞬間――
ゴォォン……ッ
大気を物理的に押しつぶすような重低音が、森の空気を切り裂いた。
心臓の鼓動を強制的に上書きするような、胸の奥まで響く大鐘の音。その振動は地面を伝い、私の爪先から脳天までを冷たい戦慄で貫いた。
それが意味するものを、私はあまりにも残酷なほどに知っている。
『陽翠さんも覚えておいて! 大鐘は、本当に危険なときにだけ鳴るんだよ!』
耳元で再生される、紬ちゃんの明るい声。
「……うそ……」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。村長の屋敷の広場に鎮座するあの大鐘は、平穏の守護神であり、同時に終わりの合図でもある。火事か、洪水か、それとも自然の理を外れた災厄か。
二度目の鐘が鳴った。
ゴォォン……ッ、ゴォォン……ッ。
規則正しく、しかし追い立てるような急を告げる間隔。余韻が消える前に重なる音色が、村の断末魔のように聞こえてならない。
間違いない。
「魔物……!!!!!」
足が、さらに速くなる。周囲の木々が後ろへと飛び去り、風が刃物のように頬を削る。
さっき横切った金色の蝶が、まだ私の数メートル先を飛んでいた。木漏れ日を縫うように、まるで地獄への道標として私を導いているかのように。
いや、そんな空想に浸る余裕など一分一秒として残されていない。
森の出口が見え、視界が開けた。
だが、そこに広がっていたのは見慣れた穏やかな村の景色ではなかった。村長の屋敷の方角から、どす黒い土煙が龍のように天へと昇っている。
風に乗って届くのは、平和を切り刻む悲鳴。
血の匂い。
助けを求める子供の叫び声。
絶望に抗う男たちの怒号。
「糸世っ!!!!!」
目の前の紬ちゃんに似た女の人が短剣を持って叫んだ。すかさず浄化師であろう女の人が割り込み不死の人形を破壊する。
「一羽姉ちゃん!!!村の人の避難を!早く!!」
「紬ちゃん……!」
守るべき小さな顔が脳裏をよぎり、胸の奥が万力で締めつけられるように痛む。
なんでついていかなかったのか。なんで。なんでっ!!!!
誤報であってほしかった。大鐘を鳴らした誰かの勘違いであってほしかった。
けれど、風が運んできたのは硝煙の匂いと、生理的な嫌悪感を呼び起こす「歌」のような音だった。
――低く、重く、腹の底をドロドロと震わせる、この世のものとは思えない不協和音。
金の蝶が、ふっと光を強めた。その輝きが網膜に焼き付いた瞬間、私の視界の端に、信じがたい光景が飛び込んできた。
村を囲むように、点々と、しかし確実に配置された「それ」。
灰色の、泥を固めて人間を模したような、歪な形をした動かぬ塊。
感情を削ぎ落とした石像のような、それでいて異様な生々しさを湛えた人形。
胸には鈍く光る瑠璃を宿して…………
村の逃げ道を塞ぐように立ち並んでいた。
鐘が、三度鳴る。
重厚なその一撃は、もはや警告ではなかった。
――これは、明確な「襲撃」の完了を告げる合図だ。
私は奥歯が砕けるほどに歯を食いしばり、広場へと躍り出た。
「陽翠っ!!!」
横から飛んできたのは、出帆の低く鋭い声だった。出帆の表情もまた、見たこともないほどに蒼白だ。
目の前に広がるのは、無残に崩れた屋敷の門と、倒れ伏す人々。この惨状を、この地獄を、私たちが止めるしかない。逃げる場所など、もうどこにもないのだ。
村長の屋敷の真上、重力を見失ったかのように空中に浮かび、整列する灰色の人形たち。
その不気味な陣形の中央、特等席のような虚空に、一人の少女が佇んでいた。
「白銀陽翠。久しぶりね…………」
「はっ…………」
忘れるはずのない、鈴を転がすような綺麗な声。
かつては春の陽だまりのような暖かさを孕んでいたはずのその響きは、今は冷たく錆び付き、底知れない闇を湛えている。
顔を見なくても分かった。その立ち姿、その纏う空気。
けれど、その背後から溢れ出す魔力は、かつての彼女とは似ても似似つかない、腐食した悪意そのものだった。
魔物なんだ。あの子が。共に過ごした日々を嘲笑うように、彼女は異形の王としてそこに君臨している。
私は、叫んだ。
喉が裂けても構わない。届かぬ願いを、怒りを、そして絶望を込めて。
「周防瑠璃歌っ!!!!!!」
宙に浮く少女――瑠璃歌は、ゆっくりと、しかし残酷なほど優雅にこちらを振り向いた。
その瞳には、かつての友情の欠片も見当たらず、ただ深淵のような闇が渦巻いていた。
「踊りましょう?私達と。ぴったりな不死の軍勢がいるよ。」
瑠璃歌が手にした大きな扇は蝶のように空を切る。
冷たい笑顔を貼り付けて。
紬の姉、夢見鳥一羽と兄、夢見鳥糸世は浄化用の武器を持っています。




