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近づく距離

羽衣を操る指先が、わずかに震える。


かつては呼吸するように操っていたはずの羽衣が、今は重い。


拒食で痩せ細った体にとってまた前のように動くことは乾いた井戸から水を汲み上げるような苦痛を伴った。


「陽翠、一回止めよう。……呼吸が浅いよ」


出帆が水色の刀を体内に納め、駆け寄ってくる。その瞳には、かつての出帆にはなかった焦燥と、それを上回る心配が混ざっているように見えた。


「大丈夫……まだ、動ける」


「ダメだ。陽翠、今の陽翠に必要なのは耐えることじゃない。回復することだよ」


出帆は私の手をとり、草の上に座らせた。


私のものよりも一回りも二回りも大きい手のひらはゆっくりと私の背中を撫でてくれた。


あたたかくて、安心する。


すぐそこで心臓が動いている。


「……出帆の手、温かい」


自分の心の内をもう一度思い返した。


けれど今は、背中から伝わる出帆の温もりを通して、昨日食べた林檎の甘みや、自分の血が巡る微かな音を感じようとしていた。


「私……玲くんが死んじゃった時、自分の体なんて、なくなればいいって思ってた。食べることが、罪みたいに思えて」


「……うん」


「私が、守っていかなきゃいけないんだね」


陽翠がそっと指を動かすと、傍らに休んでいた羽衣が、陽光を反射してキラリと応えた。


それはまだ、全盛期の強さには遠い。けれど何もない、空っぽではない。体温の宿った柔らかな光。


「出帆。───ありがとね」


「どういたしまして。陽翠が辛いときは隣にいるからさ」


出帆は少し照れくさそうに笑い、私の手を包み込んだ。


「回復」とは、元の自分に戻ることではない。


欠けた心に、誰かの愛と、自分の「欲」を少しずつ流し込んで、新しい自分を編み上げていくこと。


「陽翠、今日の鍛錬はここまで。……帰りに、あの店で出してる温かいスープを飲んでいこう。陽翠が『美味しい』って言うたびに、陽翠はもっと強くなる」


「……ふふ。じゃあ、世界最強になっちゃうかもね」


立ち上がった陽翠の足取りは、昨日よりもほんの少し、確かな重みを帯びていた。


───

手合わせを終え、夕暮れに染まり始めた幻蝶谷。


帰り道、急な坂道で目の前がすっと暗くなってふらりと足がもつれた。


「っ、」


すかさず出帆の手が伸び、私の腰を抱き寄せる。


「……あ」


「危ない。陽翠、やっぱりまだ少し疲れやすいみたいだね」


支えられた瞬間、陽翠の鼻先に出帆の匂いが届いた。清潔な石鹸とそして出帆自身の温かな匂い。


密着した胸元から、出帆の心臓が驚くほど速く打っているのが伝わってくる。


「ごめん……」


「謝らないで。……それより、こうしてれば楽?」


出帆は手を離そうとせず、むしろ壊れ物を扱うような手つきで私をそっと自分の肩に預けさせた。


一瞬戸惑ったけど、出帆の肩の厚みと、自分を包み込むような腕の力強さに、不思議と傷ついた心が凪いでいくのを感じた。


「出帆は……重くないの? 私、こんなに……」 


「重いわけないでしょ。むしろ、もっと重くなってくれないと困る。僕がずっと、こうして支えていられるように」


出帆の言葉は、熱を帯びて私の耳元をくすぐった。


顔を伏せ、出帆のシャツの袖をぎゅっと掴む。


「……ずるいよ、出帆」


「何が?」


「……そんなこと、言われたら。私、もっと生きたくなっちゃう」


小さな呟きに、出帆は足を止め、私の顔を覗き込んだ。


夕陽に照らされた彼の瞳はどこまでも耀く鮮やかな色をしていた。


「生きたくなっていいんだよ。僕と一緒に、美味しいものを食べて、喧嘩して、強くなって……。陽翠がそう思ってくれることが、僕の何よりの救いなんだから」


出帆が空いた方の手で、そっと頬に触れた。

指先が触れた場所から、氷が溶けるように強張りが解けていく。


「陽翠、こっち向いて」


名前を呼ばれ、顔を上げると、至近距離に彼の真っ直ぐな眼差しがあった。


「……今夜も、一緒に食べよう。出帆が隣にいてくれたら、私、もっと美味しいって言える気がするの」


「約束だよ。一口と言わず、二口でも三口でも、僕が君の隣で数えてあげる」


二人は重なり合う影を一つにして、宿へと歩き出す。


幻蝶谷の夜は、昼間の賑やかな蝶の舞が嘘のように静まり返っていた。


宿の縁側に並んで座る二人の前には、冷めかけたほうじ茶と、半分ずつに分けられた林檎のコンポート。


見上げる空は、魔物の気配一つない、吸い込まれるような星空だった。


「ねえ、出帆」


夜風に揺れる髪を膝の上でいじりながら声をかけた。


「幸せってなんだと思う?」


「幸せ…………」


二人の髪が風に揺れた。


「それが、わからないことかな」


「わからないこと?」


意外な答えに顔を上げると、出帆は夜空を見上げたまま小さく口角を上げた。


その横顔は、いつもの快活な彼とは少し違う、静謐な光を湛えている。



「だって、もし『これが幸せだ』って完全に決まっちゃってたら、それ以上のものを探すのをやめてしまうでしょ? 僕は欲張りだから、陽翠と過ごす時間の中で、昨日よりもっと良い『何か』を更新し続けたいんだ」


出帆はそう言って、縁側に置かれた私の手に、自分の手をそっと重ねた。


「今は、こうして隣で林檎を食べているのが幸せだ。でも明日は、君が今日より一回多く笑ってくれたら、きっとそれが僕の新しい『幸せ』になる。……答えがないから、ずっと一緒に探していけるんだと思う」


「……出帆は、本当にずるいね」


微かに笑い、重ねられた手のひらの熱を確かめるように指を絡めた。


冷えかけていたはずのほうじ茶から、ふわりと香ばしい湯気が立ち上る。


「私、幸せって、どこか遠くにあるゴールのようなものだと思ってた。でも……出帆が言うなら、わからないままでもいい気がする。毎日、新しく見つけていけばいいんだもんね」


「そう。だから、まずはそのコンポートをあと二口。それが今の僕たちの『幸せ』のノルマ」


「ふふ、結局それ? さっき約束したもんね」


小さく笑いながら、フォークで透き通った林檎を掬い上げた。


口の中に広がる優しい甘さは、これまでのどんな食事よりも、心に深く染み渡っていく。


夜風は少し冷たさを増していたが、触れ合う肩越しに伝わる体温が、それを忘れさせてくれた。


「ねえ、出帆」


「ん?」


「出帆は……いなくならないでね」


「明日も、明後日も、僕が君の隣にいるよ」


出帆のその言葉は、夜風に乗って消えてしまうような儚いものではなく胸の奥深くに重く、温かく沈み込んだ。


絡めた指先に力を込め、視線を落とした。


先ほどまで感じていた心の揺らぎが、彼の体温を通じて一つの確信に変わっていく。


「……ねえ、出帆。もう少しだけ、近くにいてもいい?」


答える代わりに、出帆が腕を引き寄せた。


二人の肩が隙間なくぴったりと密着し、私 の頭が自然と出帆の肩へと預けられる。出帆の衣擦れの音と、石鹸の香りが再び全身を包み込んだ。


「陽翠の心臓の音、さっきより落ち着いたね」


出帆が耳元で低く囁く。その声の振動が、肩を通じて直接伝わってくるのがくすぐったい。


「出帆のせいだよ。さっきはあんなにドキドキしてたのに、今は……すごく静かで、あったかい」


「それは、僕が君を安心させられてるって思っていいのかな」


「……どうかな。でも、こうしてると、自分が『陽翠』っていう一人の人間として、ここに根を張ってる実感が湧くの。幽霊みたいに消えてしまいそうだったのに」


自由な方の手で出帆のシャツの裾をそっと握りしめた。


出帆はふっと目を細めると、彼女の頭に自分の頬を優しく寄せた。髪が触れ合い、互いの境界線が曖昧になるほどの距離。


「消えさせないよ。もし君がどこかへ行きそうになったら、僕が何度でもこうして捕まえて、重石になってあげる」


「重石なんて……出帆は、私の手を引く光でしょ?」


「光か……。だとしたら、君を照らすためだけに輝くよ」


出帆がそっと手を解き、陽翠の顎を優しく上向かせた。


至近距離で見つめ合う二人の瞳に、宿の軒先に吊るされた灯籠の淡い光が反射する。


出帆の指先が、私の耳の裏から項へと滑り、愛惜しむように髪をひと房掬い上げた。


「陽翠……」


名前を呼ぶ声が、これまでになく熱を帯びて震えている。


陽翠は逃げることなく、その真っ直ぐな熱量を受け止めた。


「……うん、出帆」


出帆は耐えかねたように、陽翠を壊れ物を抱く強さで、ぎゅーっと抱きしめた。


「……今日はここまで。これ以上は、君が本当に元気になって、僕を追い越すくらい強くなってからにするよ」


出帆の胸元に顔を埋めたまま、小さく吹き出した。


「やっぱり……ずるい。でも、楽しみにしてる」


夜の静寂の中、二人の心臓の音は、いつの間にか同じリズムで時を刻んでいた。 

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