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恋苦

「幻蝶谷……」


その聞き慣れない名前を口の中で転がしてみる。


出帆の腕のなかで、ほんの少しだけ、視界を覆っていた灰色の霧が揺れた気がした。


「そこに行けば、何か変わるかな」


「変わらなくてもいいよ。ただ、場所を変えて、風に吹かれるだけでもいい。陽翠が少しでも深く息を吸える場所なら、どこだっていいんだ」


出帆はそう言って、私の頭を優しく撫でた。

三日後。


私たちは、深い山に抱かれた「幻蝶谷」の宿にいた。


そこは、名前の通り、季節外れのはずなのに青白い翅を持つ蝶たちが、夢の残滓のように宙を舞っている不思議な場所だった。


温泉から立ち上る湯気が、乾燥しきった私の肌を柔らかく包み込む。


ふわりと立ち上る湯気が木々を霞ませる。いつも見ないようにしていた傷は乳白色の濁り湯に完全に溶け込まされて見えなかった。



「欠けた月が満ちる夜、


銀の粉を振るい


一羽の蝶が


暗闇から目覚める。


閉ざしたはねを広げれば、


不意に心を 掠めてく


さなぎのような 孤独を脱いで


銀のはねした 蝶が舞う


可愛いあの子の声がする」



「歌………?」


どこからか、歌が聞こえてきた。聞き覚えのある声………


白い髪の毛と白い肌。おしゃれな髪型の人………


「日野さん……?」


「えっ、陽翠ちゃん!?!?」


歌を歌っていたのは日野さんだった。


「きゃー!!久しぶり!陽翠ちゃんも来てたのね!」


「お久しぶりです」


「陽翠ちゃんびっくりしすぎよ!まるでお化けでも見たような顔しちゃって」


日野さんは悪戯っぽく笑うと、湯船の縁に白い腕を乗せ、ゆったりとこちらへ泳いできた。


銀色の湯気が彼女の白い肌にまとわりつき、先ほど彼女が口ずさんでいた歌の余韻が、まだそこに漂っているような気がした。


「……綺麗な歌ですね。日野さんが作ったんですか?」


私の問いに、彼女は少しだけ目を細め、宙を舞う青白い蝶を見上げた。


「ううん。これはね、この場所に昔から伝わる歌。去年ここにいた子に聞いたの。孤独を脱ぎ捨てて、新しい自分に生まれ変わるための……願いを叶える歌、らしいわよ!」


彼女の指先が、一際近くを舞っていた蝶を追う。その動きに合わせて、彼女の白髪がさらりと揺れた。


「あら、その顔……。ただの偶然の再会に驚いてるだけじゃなさそうね」


日野さんは私の隣まで来ると、乳白色のお湯をそっと掬い上げた。


「ここは『忘れ湯』なんて呼ばれてるのよ!……けど、本当に忘れたいことほど、温まると心に浮かんできちゃうものだと思わない?」


図星だった。お湯に隠したはずの胸の奥が、ちりりと痛む。


「……日野さん。あの、人を好きになるのって、こんなに苦しいものなんですか」


絞り出すようにこぼれた私の言葉に、日野さんは驚いたふうもなく、「ええ!!恋!!」と、歌うようなトーンで返した。


「そうねぇ。陽翠ちゃんみたいに一生懸命な子は、蛹の中でじっとしてるみたいに、自分を閉じ込めちゃうから。……相手は、どなた?」


私が迷いながらも、胸に秘めていたあの人のことを――少しずつ、言葉に詰まりながら話し始めると、日野さんは黙ってそれを聞いてくれた。青白い蝶たちが、私たちの周りをお喋りを静止するようにゆっくりと舞う。


「ふふ、素敵!!でも陽翠ちゃん、あなたは今、その恋を『鎖』だと思っているわね?」


「……鎖……」


「伝えようとしたら迷惑をかけてしまう。だから、待っていようって」


日野さんは、自身の真っ白な肩に止まろうとして逃げた蝶を指差して笑った。


「いつまでも恋は続かないし命も続かない。時間は有限で永遠みたいな嘘なのよ。私は、伝えられなかった。」


「もう2度と間違わないように、後悔しないようにって。陽翠ちゃんならできるわよ。好きなようにしたらいいの!」


彼女の自信に満ちた声に、少しだけ心に刺さっていた棘が、熱いお湯に解かされていくような気がした。


「ほら、もっと近くに来て。恋に効く、とっておきの、教えてあげるから」


日野さんは私の耳に顔を寄せてこそこそと話しだす。


「あのね、────────て、───しちゃえば良いと思わない?」


「むっむっむっむっ無理です!!!!!やめてください!!!!」


「あら、本当ー?陽翠ちゃんならできるわよ!頑張ってね!!」


太陽みたいに笑って日野さんは去っていった。



「無理だってぇ………」


白い湯気には私の独り言だけが残された。



***

出帆は、私の歩幅に合わせてゆっくりと廊下を歩き、窓の外に広がる渓谷を眺めていた。


「綺麗だね」


彼が呟く。


「……うん。本当に」


嘘ではなかった。


玲くんがいなくなってから、初めて「色」があるものを綺麗だと思えた。


夕食の時間。


宿の人が運んできたのは、透き通った出汁に浸された、ほんのひと口の煮凝りと、翡翠色のゼリー。


出帆が事前に、私の状態を伝えてくれていたのだろう。


「陽翠、これ。……さっき約束した、一番美味しそうなやつだよ」


彼は自分の豪華な膳には目もくれず、私にスプーンを差し出した。


いつもの罪悪感が、また胸をせり上がってくる。


でも、出帆の瞳に映る、切実なまでの願いが、私の喉をわずかに開かせた。


震える手でスプーンを受け取り、ゼリーを口に運ぶ。


冷たくて、ほんのりと柚子の香りがした。


砂の味は、しなかった。


「……味が、する」


消え入りそうな声で私が言うと、出帆は、堪えきれないといったようにふっと目尻を下げて、大きな手で顔を覆った。


「そっか……。よかった……」


彼の指の間からこぼれた声は、少しだけ震えていた。


その震えが、私をこの世界に繋ぎ止めている唯一のいかりなのだと、気づく。


まだ、玲くんの笑い声は消えない。


お腹が空くという感覚も、完全には戻ってこない。


けれど、出帆が繋いでくれるこの静かな沈黙の中でなら、いつか、明日を待つことができるかもしれない。


「明日も……食べられるかな」


「ああ。明日はもっと、美味しいものを探そう」


窓の外では、月光を反射した蝶たちが、夜の闇を優しく切り取っていた。


私たちは、壊れ物を抱きしめ合うようにして、ただ寄り添い続けた。


***

翌朝、窓から差し込む柔らかな光で目が覚めた。


隣で眠る出帆の穏やかな寝顔を見て、私はそっと自分の胸に手を当てる。昨日のゼリーの、あの冷たくて淡い甘みが、まだ心のどこかに微かな熱として残っているような気がした。


「……おはよう、陽翠」


目を覚ました出帆が、寝ぼけ眼のまま私の手を握りしめる。


「おはよう。……出帆、外、歩いてみたい」


宿の裏手にある散歩道は、朝霧に包まれていた。


至る所に、あの青白い蝶が静かに羽を休めている。幻蝶谷という名は伊達ではなく、そこは現世うつしよと隠りかくりよの境目のような、不思議な静寂に満ちていた。


「ねえ、出帆。玲くんも、こういう綺麗なところ、好きだったかな」


ふと口をついて出た言葉に、自分でも驚く。あんなに避けていた名前を、今は苦しみではなく、追憶として口にできた。


「……きっと、好きだったと思うよ。陽翠がこうして、また景色を眺めているのを喜んでるんじゃないかな」


出帆は私の横顔を見つめ、確信を持った声で言った。


歩いていると、小さな売店を見つけた。


店先には、地元で獲れたという林檎のコンポートが並んでいる。


透明な瓶の中で、蜜に浸かった林檎が黄金色に輝いていた。


「これ……美味しそう」


私が立ち止まると、出帆の顔にパッと灯りがともった。


「買っていこう。部屋で、二人で食べよう」


部屋に戻り、小さなフォークで、透き通った林檎を一口分だけ切り分ける。


それを口に含むと、甘酸っぱい果汁がゆっくりと広がった。


「……美味しい」


その言葉が、今度は嘘偽りなく、私の唇からこぼれ落ちた。


「陽翠、無理しなくていいから。一口で十分だよ」


「ううん。もう一口、食べたい」


出帆は驚いたように目を見開き、それから、子供のように無邪気な笑顔を見せた。


彼がこれほどまでに安堵した顔をするのを、私は初めて見たかもしれない。


私の身体はまだ細く、心にはまだ消えない傷跡がある。


けれど、出帆が注いでくれる、凪のような愛に支えられながら、私は少しずつ「生」を取り戻していく。


「いつか……ここにある料理、全部美味しいねって、二人で笑って食べられるようになりたい」


「なれるよ。僕が保証する」


出帆は私の指に自分の指を絡め、優しく力を込めた。


窓の外では、蝶たちがひらひらと舞い上がり、青い空へと溶けていく。


砂を噛むような日々は、少しずつ、穏やかな色彩へと塗り替えられようとしていた。


「愛してる」なんて、重たい言葉はまだいらない。


ただ、明日も一緒に何かを食べよう。


その約束だけで、今は十分に生きていける。

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