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優玲

「そっか……俺、もういないのか」


自分の手のひらを見つめた。夜空に溶けて自分の体は輪郭を失い、まるで古い映像のようにノイズが混じっている気がした。


不思議と、死んだことへの恐怖は………なかった。


それ以上に胸を焼き尽くすような後悔が、遅れてやってきた痛みに似て胸を締め付けた。


(……最悪だ。せめて、泣かせる前に言いたかったな)


陽翠さんの泣き顔を見るのが、世界で一番嫌だった。彼女が笑うと、それだけで自分の世界も明るくなるような、そんな単純な理由で恋をしていたから。今になって気がついた。


さっきまでの緊張が、今はひどく滑稽に思えた。


心臓が波打っていたのは、生きていた証拠だった。あんなに熱かった血の通う感覚が、今はもう思い出せない。


(返事、聞きたかったな。フラれるならフラれるで、ちゃんと傷つきたかった)


「陽翠さん」


もう一度、名前を呼んでみた。声は空気に溶けるだけで、彼女の耳には届かない。


それでも俺は陽翠さんの隣から動けませんでした。


(もし、神様がいるならさ……。俺のことはいいから、陽翠さん涙だけ止めてくれよ。俺が好きになったのは、笑ってる陽翠さんなんだから)


ありがとうって、笑って欲しかった。


どうしたのって、聞いて欲しかった。


大好きですって、伝えたかった。


玲くんって、もう一度呼んで欲しい。


陽翠さんって、叫びたい。


なのにもう俺はこの世にはいられない。


陽翠さんの頬を伝う涙を拭おうと、何度も何度も手を伸ばした。そのたびに指先は空を切り、彼女の温もりを一度も感じることができない。


その場を離れなかった。


彼女の悲しみが少しでも和らぐまで、あるいは自分が完全に消えてしまうまで、この「届かない距離」で彼女を守り続けようと。


心の中には、伝えきれなかった言葉たちが静かに積み重なっていた。


それは大げさな愛の告白ではなく、もっと些細で、日常にあふれる感情の欠片だった。


雨上がりの道を一緒に歩いた時、ふいに感じた温かい空気のこと。


彼女が小さな成功を喜ぶ時の、あのきらめく瞳のこと。「ありがとう」と優しく微笑んでくれた時に、胸の奥がきゅっとなったこと。


そんな一つ一つが、俺にとってどれだけ大切だったか。ただ隣にいるだけで、世界が少し明るく見えたこと。明日を迎えるのが楽しみになったこと。


本当は、そんな日々の輝きを、彼女にも知ってほしかった。彼女の存在が、僕の平凡な毎日をどれだけ彩ってくれていたかを。


気がついたときに言えば良かった。なんであの時に言わなかったんだろう。


もっと早く気がつかなかったんだろう。


今、伝えきれなかった思いは、静かな後悔となって胸に広がる。もしあの時、もう少し勇気を持てていたら、何かが変わっていたのかもしれない。


それでも、心に残る温かい記憶は、決して色褪せることはない。伝えられなかったけれど、確かにそこにあった、愛おしい日々。


忘れてない。思い出せるように仕舞ってるように。



「ああ、もう。なんで触れないんだよ」



陽翠さんの震える肩を抱きしめようとして、自分の両腕が虚しく空を切るのを何度も繰り返した。


一番もどかしいのは、彼女がすぐそこにいるのに、自分との間に「生と死」という、銀河の果てよりも遠い絶対的な距離があること。


「陽翠さん、泣かないでよ。俺はここにいるから。ほら、見てくれよ」


彼女の視界に入ろうと顔を覗き込み、精一杯声を張り上げます。


しかし、陽翠さんの瞳は俺を通り越し、空虚な空間を見つめたままで。


彼女の頬を伝う涙が、地面に落ちて小さな染みを作る。その一滴さえ、今の俺には拭ってやることができない。


(さっきの告白、取り消したい。あんなこと言わなきゃこんなに泣かなかったかもしれないのに)


一度口にしてしまった「好きだ」という言葉が、呪いのように胸に残る。


伝えたかったのは、彼女を幸せにするための言葉であって、彼女を絶望させるための遺言ではなかった。


陽翠さんがふいに小さく呟く。


「玲くんなんで……先にいなくなっちゃったの………?何を言いたかったの……?ちゃんと伝えてよ………」


彼女が絞り出したその一言に、胸が激しく疼いた。


「……ああ、そうだよ。本当、最悪だよな。せっかく呼び出したのに、勝手に先にいなくなってさ」


彼女の指の上に自分の手を重ねてみました。当然、重なり合う感覚はない。


それでも、彼女が自分の名前を呼んでくれただけで、消えてしまいそうな意識がこの場所に繋ぎ止められる気がした。


(まだ行けない。陽翠さんが笑うまで、せめて涙が止まるまで、俺はここにいたいんだ)


何もできない。何も伝えられない。


それでも………泣かないで欲しい。前を向いて欲しい。


終わりの無い夜なんてないから。明けない夜は無い。止まない雨なんてない。


あるのは………止まない気のする雨だけだから。



ノイズが混じって視界が消える。死んでしまう。魂まで。




「さようなら、陽翠さん。」




───

「玲っ!!!!」


「来ないで!!戻って!!」


桔梗の花畑の中に姉が立っていた。


「もっと……もっと生きてよぉっ!私の分までっ、年取って家族作って、たくさん幸せになって欲しかったのにっ……」


泣きながらそう叫ぶ麗奈は生きていたときと変わらない綺麗な姿だった。



「もう、充分幸せだったよ」


「短い人生だったかもしれない。もっと他の未来もあったかもしれない。蓮のことも置いてきたし陽翠さんも悲しませた。それでも」



「俺は幸せだったんだよ」



「わかってる、わかってるよ…………でもさ………」


「二人には生きて欲しかったんだ…………」



***

「っ……」


麦わら帽子が風で飛んでいく。あたたかくて、柔らかい………落ち着く、風。



玲瓏たる月光は燦々と煌めく太陽と共に。



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