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さよならの温度

あれ、と小さく声を漏らした。


まどろみの淵から意識を浮上させた俺を待っていたのは、見慣れた天井と、部屋の隅に溜まった夕刻の濃い影だった。


部屋にかかっている時計を見て驚いた。


「……五時? うそだろ、夕方の五時かよ」


 冗談じゃない。いくらなんでも寝過ぎだ。


今日は一生に一度、あるかないかの大事な日

だというのに。


 俺はバネ仕掛けのように起き上がると、ぐーっと大きく背中を反らせて伸びをした。


節々が妙に軽い。寝すぎたあとのダルさはなく、むしろ身体が羽毛になったような浮遊感がある。


 窓の外を見つめると、西日はすでに傾き始め、世界を赤銅色に染め上げていた。まだまだ明るい太陽は目に眩しく、その温もりを求めてもう一度ベッドに身体を預けたくなる誘惑に駆られる。


だが、それをぐっと堪えた。


(蓮は……出掛けてんのか。静かすぎるな)


弟の気配はない。いつもならキッチンで何かを作っているか、テレビの音が漏れ聞こえてくるはずなのに、家の中は真空パックされたような静寂に包まれていた。


俺は慌てて洗面所へ向かい、鏡の前に立った。


「よし、完璧だ」


 何度もシャツの襟を整え、ボタンが掛け違っていないかを確認する。今日は人生で一番大切な日だ。


意中の人、陽翠さんにこの胸に溜まった熱い気持ちを伝える。そう決めていた。


「顔色、ちょっと白いか? ……緊張してんのかな」


 鏡の中の自分は、どこか精彩を欠いているようにも見えたが、瞳だけは異様に冴え渡っていた。気合を入れるため、寝癖を水で抑えようと蛇口に手をかける。


 だが、回らない。


「なんだよ、固いな。これ、壊れてんのか?」


 金属の感触はは感じているはずなのに、指先に力が入らない。いや、力がすり抜けていくような、奇妙な感覚。


「まあいい、気合でなんとかなる。髪型くらい、手ぐしで十分だ」


 結局、蛇口を諦めて鏡の前で髪をさっとなぞるようにかき上げた。


するとどうだ。不思議なことに、頑固だった寝癖が磁石に吸い寄せられるように理想の形へと整っていく。


「今日の俺、冴えてるな」


俺は、鼻歌まじりに部屋を飛び出した。


公園までの道中、世界はやけに静かだった。


この時間は帰宅ラッシュで、いつもなら工事の騒音や行き交う車のエンジン音、人々の話し声が耳を劈くはずだ。


しかし今の俺には、それらすべてが分厚い水層を通した後のような、遠くのBGMとしてしか聞こえない。


アスファルトを蹴る自分の足音さえ、どこか遠い。


「陽翠さん、喜んでくれるかな」


ふと、角にある小さな花屋が目に留まった。バケツの中に挿された色とりどりの花々の中で、控えめでありながら確かな存在感を放つ、真っ白なカスミソウ。


(彼女に似合いそうだ)


陽翠さんの、あの清廉で、どこか儚げな雰囲気にぴったりだと思った。


「これ、ください!」


店員に精一杯の声をかける。しかし、エプロンをつけた店員は一心不乱に伝票を整理し、こちらの存在に気づく様子もない。


「おーい、すみませーん。……忙しいのかな」


何度も声を張ったが、彼女の視線が俺を捉えることはなかった。仕方なく、俺はレジの空いたスペースに千円札を置いた。


「お釣りはいいですから」


そう言ってカスミソウの小さなブーケを手に取る。


「……軽いな、この花。重力忘れてるんじゃないか?」


物理的な重さをほとんど感じない花束を抱え、俺はスキップするような足取りで待ち合わせの朝霧宮公園へ向かった。


その途中、少し荒れた街の路地裏が視界の端に入った。


人だかりができていた。青いビニールシート。そして数人の浄化師たちが集まって、神妙な面持ちで何やら調査をしている。周囲には野次馬と、遠巻きにスマホを向ける人々。


「うわ、事故か? 災難だなあ……」


視線を落とすと、規制線のすぐ側に壊れたスニーカーが片方だけ転がっていた。見覚えがあるような、ないような。キャンバス地の、ありふれたデザインだ。


(本当なら、どうしましたか、って声をかけたいけど)


今はそれどころじゃない。陽翠さんを待たせるわけにはいかないのだ。


日はすでに沈みかけ、空の端から濃紺の帳が下りてきている。


俺は人混みをすり抜けるようにして走った。前から歩いてくるサラリーマン、ベビーカーを押す女性。肩がぶつかりそうになっても、なぜか身体がするりと避けていく感覚。避けたというより、隙間を縫うように透過したような――。


 立ち止まる必要すらない。


「今日の俺、めちゃくちゃ体が軽い。これなら、告白も絶対うまくいく!」


根拠のない自信が、足を加速させる。


ふわふわとした、夢を見ているような足取りで、俺はついに朝霧宮公園へと辿り着いた。


「いた」


約束の場所。向日葵畑の横。


陽翠さんはそこに立っていた。


夏の日差しを避けるための麦わら帽子を被り、夜を切り取ったような黒いワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。


(綺麗だ…………)


思わず息を呑んだ。彼女の周囲だけ、時間の流れが止まっているかのようだった。その深い深い瞳は、一体どこを見ているのか。何を見ているのか。


世界は驚くほど無音だった。


頭上には夏の大三角形が微かに瞬き始め、足元には夜の闇に沈みつつある鮮やかな黄色の向日葵。


この広い世界で、陽翠さんと俺だけの、特別な空間。


伝えたい。今日こそ。


そう決めて、震える声で彼女を呼んだ。


「陽翠さん」


だが、彼女は振り返らない。

 

ただじっと、その場に立ち尽くし、目の前の向日葵を見つめている。


「陽翠さん、無視しないでくださいよ。……これ、遅くなってすみません」


花束を差し出しながら一歩近づく。


その時、気づいてしまった。



自分の足音が、全くしていないことに。



芝生を、砂利を、踏みしめる感覚がない。それどころか、地面に落ちるはずの俺の影が、街灯の光に照らされているはずなのに、どこにも見当たらない。


「陽翠さん……?」


俺は必死に声を振り絞った。


「俺、陽翠さんのことが好きです。初めて会った時から、ずっと。だから、その……付き合ってほしいん、です……!」


渾身の告白。全身全霊を込めたはずの言葉。


陽翠さんの肩が、わずかに震えた。


返事はない。ただ、彼女の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。


それは月光を溶かし込んだような、美しくも悲しい月光藍の涙。彼女の頬を伝い、地面に吸い込まれていく。


「え、なんで泣いて……? 俺、そんなに変なこと言いましたか?」


パニックになり、俺は彼女を慰めようと、その細い肩に手を置こうとした。



その瞬間だった。



 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()|、()()()()()()()()()()




「……あ」


感触がなかった。温もりも、服の布地の質感も、何一つ。


呆然として自分の手を見つめる。


街灯の光に透けて、俺の手の向こう側に、夜の闇に沈む向日葵がはっきりと見えていた。


指先が、霞のように揺れている。


陽翠さんが、ぽつりと、掠れた声で呟いた。


「……嘘つき。私、ちゃんと、来たのに。」


その声は、俺に向けられたものではなかった。届かない誰かに宛てた、絶望の叫びだった。


記憶が、濁流のように押し寄せてくる。


夕方の五時。目が覚めた部屋。回らなかった蛇口。重さを感じない体と、受け取ってもらえなかったカスミソウ。


そして、路地裏に落ちていた、片方だけのスニーカー。


あれは、俺が昨日履いていた靴だ。


後から聞こえた叫び声。


頭上から、高く澄んだ、それでいて無機質な声が聞こえた。


『またお人形さんだ』


 

振り返ってその姿を認識する間もなかった。


今の俺には、もう「形」を維持する力さえ残されていない。


「……そっか。俺、死んじゃったのか」


あまりにも呆気ない理解だった。


俺は、今も泣き続けている彼女の隣に、そっと腰を下ろした。


座ったという感覚はない。ただ、彼女という存在の隣に、魂の残滓を置いただけだ。


もう、言葉は届かない。この想いが、彼女の心を温めることは二度とない。


カスミソウの花束は、いつの間にか光の粒子となって、夜風に溶けて消えていた。


「ごめんな。約束守れなくて……」


それでも、俺は消えゆく意識の中で微笑んだ。


「でも、好きだって言えてよかった」 


最後に、ほんの少しだけ。

 


祈るように伸ばした指先が、彼女の髪を揺らした。 


それはただの風だったのかもしれない。けれど、陽翠さんは一瞬だけ顔を上げ、誰もいないはずの隣を、その濡れた瞳で見つめたような気がした。


夜の帳が完全に下りる。


夏の大三角形が、冷たく、優しく、二人の境目を照らしていた。

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