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昼に見る夜空

「んんーーー!」


朝起きて大きくのびをする。カーテンをシャッと開けると日がわっと差し込んで部屋がきらきらして見えた。


八月十八日。


今日は出帆の誕生日だ。


ん、と身体を起こして顔を洗い、着替えてメイクをする。


廊下に出るとちょうど出帆も同じタイミングで起きてきた。


「誕生日おめでとう!」


「ありがとう。」


少し寝癖のついた髪の毛が気になって直そうと背伸びをして出帆の髪の毛を抑える。


ふわりと花が開くように笑う彼も十七才。一つ年が離れてしまったけれどまあすぐに追いつくのでよし。


ご機嫌にキッチンに移動していつもよりちょっといい朝ご飯を作り始める。


「えーと、卵黄と牛乳を先に混ぜて………水切ったヨーグルトを……」


卵黄と牛乳をボウルに入れる。しっかりシャカシャカ混ぜて冷蔵庫から昨日作っておいた水切りヨーグルトを取り出してボウルに投入。


卵白は砂糖を少し入れて泡立てふわふわのメレンゲを作る。卵黄と合流させてヘラでさっくりと泡を潰さないように混ぜ、バニラの香りのする粉を入れた。


泡立て器に持ち替えてさらに混ぜる。艶のある生地が出来上がった。


「フライパンを熱して濡れ布巾の上に……」


濡れ布巾の上に置かれたフライパンに生地をすくって流す。綺麗な丸を確認したらコンロにおいて火にかけた。


「ん、いいにおい。何作ってるの?」


「ホットケーキ!!」


ふつふつと泡立ってきてひっくり返すと綺麗なきつね色の表面。


「わ綺麗!陽翠上手だね」


「ありがと。すぐできるから待ってて!」


出帆が紅茶を用意している間に残りの生地を焼いて二枚ずつ重ねる。


バターとはちみつをたくさんかけて…………


「美味しそう!!」


「でしょ!」


遠くで響き始めた、地熱を告げる蝉の声。


それは、今日という特別な日が幕を開けるための、眩しいオーケストラみたいに聞こえた。


───

自動ドアが開いた瞬間、館内からふわりと流れてきた涼しい空気に肌を冷やされる。


外の湿った夏の熱気が嘘のように引き、代わりに静謐な夜の予感が鼻先をくすぐった。


薄暗いロビーには、これから始まる星空の旅を待つ人々の、ひそやかな話し声がさざ波のように響いている。


「楽しみ?」


 隣を歩く出帆に顔を向けると、彼は少しだけ目尻を下げて微笑んだ。


「うん。僕行ってみたかったんだ。多分行ったことないからさ」


 そう言って少し照れくさそうに笑う彼の横顔を見て、胸の奥がちくりと疼く。


(行ったこと、あるんだよな……)


小学二年生の遠足のことなんて忘れているに決まってる。


記憶のことを突きつけられて少し悲しくなったけどそれでも彼が「行きたい」と言ってくれたから今日ここに来られたという事実が、私の心に小さな灯をともしていた。


 案内が始まり、私たちはドーム内へと足を踏み入れる。


半球状の巨大な天井が視界いっぱいに広がり、中心には巨大な投影機が、沈黙を守る重厚なオブジェのように鎮座していた。


指定されたリクライニングシートに深く背を預けると、革の心地よい弾力とともに、隣に座る出帆の気配がいつもより近くに感じられた。


「これ、結構倒れるんだね」


「本当だ。空の中に浮いてるみたい」


 肘掛けを隔てて、彼の袖が私の腕にわずかに触れる。ただそれだけのことが、静まり返りつつある館内では、雷鳴のように私の意識を揺さぶった。


 やがて、館内の明かりがゆっくりと、溶けるように落ちていく。


ドームの天井が夕闇から群青へ、そして深い夜の色へと染まっていくグラデーションは、まるで魔法のようだった。


完全に暗転した瞬間、視界から現実の輪郭が消え、一等星がぽつり、ぽつりと灯り始める。


「わあ……」


 思わず、肺の奥に溜まっていた吐息が漏れた。


 街中で見上げる、街灯に邪魔された白茶けた空とは違う。それは吸い込まれそうなほど純粋で、深く、残酷なまでに美しい紺色だった。


まるで宇宙の深淵に迷い込んだかのような静寂の中、銀色の砂を細かく撒き散らしたような幾千万の星屑が、私たちの頭上に降り注いでくる。


視界の端から端までを埋め尽くす光の洪水に、自分が座っている椅子の感触さえも忘れてしまいそうになる。


「すごいね……」


 出帆の低い声が、静かな空間に心地よく響いた。その声は普段よりも少し掠れていて、不思議なほど耳の奥まで届く。暗がりに目が慣れてきた彼の横顔を、そっと盗み見た。


 星の淡い光が、彼の鼻筋や唇のラインを優しく縁取っている。またたく光の粒が彼の瞳に宿り、その奥に小さな、名もなき宇宙を映し出していた。


いつもの家や会社で見せる彼とは違う。どこか遠くを見つめる、少し大人びた横顔。


その表情に、私の心臓は不意にドクンと大きく跳ねた。今、この暗闇の中で、彼のことを誰よりも近くで見ているのは私だけなのだという、独占欲に近い感情が喉の奥までせり上がる。


 やがて、解説員の落ち着いたトーンの声が、静かに天の川の物語を紡ぎ出した。


「皆さま、頭の真上をご覧ください。ひときわ輝く三つの星を探してみてください。ベガ、デネブ、アルタイル。それが、夏を象徴する『夏の大三角形』です。二つの星を隔てる白い帯が、天の川。古くから語り継がれる、恋人たちの再会の物語の舞台でもあります……」


 物語の調べに導かれるように、私は夢遊病者のように右手を空へ伸ばし、指差した。


「出帆、あれ。天の川を挟んで光ってるの、見える?」


「どれ?」


 出帆が私の指先を追って、ぐっと顔を寄せてくる。彼の体温と、かすかな石鹸のような香りが不意に強くなった。その瞬間、彼の肩が私の肩にふわりと触れた。


 心臓が耳元で鳴り響く。指を差したまま、私は息をすることさえ忘れて固まってしまった。伸ばした私の右手に、躊躇いがちに、けれど確かな重みを持った大きな熱が重なった。


「……これのこと?」


 出帆の声が、すぐ耳元でささやかれる。それと同時に、彼の手が私の手を包み込んだ。


 驚いて隣を向くと、出帆は真っ直ぐ前を見つめたままだった。暗がりの中でもわかるほど、彼の耳たぶや頬は朱に染まっている。


繋がれた手のひらから、彼の少しの照れと、微かな震え、そして隠しきれない鼓動が、ダイレクトに伝わってきた。


 私は彼の手を拒むことなんてできなかった。むしろ、その熱が逃げていかないように、指を絡めるようにして、その手をぎゅっと握り返した。


 天の川が、二人の境界をゆっくりと溶かしていくようだった。


何億光年も離れた果てから届く星の光が、今この瞬間の、私たちの指先の熱と繋がっている。それは、永遠のような一瞬。


暗闇の中、広大な宇宙にたった二人きりで放り出されたような、特別で贅沢な時間。 


 頭上の豪華な星々よりも、視界の端で光る星雲よりも、繋いだ手の温かさばかりが私の全身を支配していた。私の宇宙は今、この数十センチの距離に凝縮されていた。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。解説が終わり、満天の星々がゆっくりと回転し、夜明けの光がドームの端から差し込んでくる。


夢のような星空の旅が終わり、館内に現実の明かりが灯った。


まぶしさに目を細めながら、私は繋いでいた手を静かに解く。現実に戻されるのが少しだけ惜しくて、名残惜しさに背中を押されるようにして、私はわざとゆっくりと立ち上がった。


 館内を出る人々の列に混じりながら、ロビーへと続く通路を歩く。まだ足元がふわふわとしていて、雲の上を歩いているような感覚だった。


「……綺麗だったね」


 出口の近くで振り返ってそう言うと、出帆は少しだけ照れたように、けれどどこか吹っ切れたような穏やかな顔で笑った。


「うん、そうだね。……来てよかった」


 そう言って頷いた彼の視線が、一瞬だけ私の右手に落ちたような気がした。


 自動ドアを抜けると、むっとするような夜の熱気が再び私たちを包み込む。けれど、プラネタリウムで纏った瞬く夜の残滓は、すぐには消えなかった。


 歩き出した私の右手には、まだ少しだけ、彼と繋いでいた場所から伝わった温もりが、消えない刻印のように熱く残っていた。


(出帆、なんで手繋いだんだろ………)







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