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幕間・雀宮家の食卓

「む……」


スーパーの青果コーナー。煌々と照らされたLEDライトの下で、桜月綾星……本名、雀宮千織は、深刻な面持ちで立ち尽くしていた。


傍から見れば、今晩の献立に悩む一人の女性に過ぎないだろう。しかし、彼女の内面では、人生の新たな扉を開くか否かの重大な決断が下されようとしていた。


「何がいいんだろうか……。きゅうりは確定として、その先だ」


きっかけは、数日前の自宅での会話だった。


18年という長い空白期間を経て、再び共に暮らすことになった妹。彼女との何気ない夕食の席で、綾星はふと思い立ったことを口にした。


「ぬか漬けを始めようと思う」


「はい?」


妹は箸を止め、不思議そうな顔で姉を見た。その反応は至極全うだ。


おしゃれなカフェ飯や、手早く作れるパスタならまだしも、古き良き日本の伝統食、ぬか漬け。しかも18年ぶりの姉が突然言い出すには、少々渋すぎるチョイスだった。


「ぬか漬けって……あの、毎日毎日、素手で底から混ぜるやつですかぁ? 大変そうですよぉ。爪の間とか、匂いついちゃいそうですし」


「いや、最近は混ぜなくてもいいやつがあるらしい。スーパーにデカいパックで売ってて、前からちょっと気になってたんだ。冷蔵庫に入れておけばいいタイプとか」


「へぇー、便利ですねぇ。いいんじゃないですかぁ。楽しそうですし、姉さんが漬けたお漬物、食べてみたいです」


そして今日、私は意気揚々とスーパーへ乗り込んだわけだが、いざ野菜を前にすると足が止まった。


「ぬか漬けって、一体何を漬けるのが正解なんだ……?」


きゅうりはいい。鉄板だ。問題はそれ以外だ。


茄子? 確かに定番だが、色落ちが難しいと聞いたことがある。


人参? 悪くないが、あの独特の根菜感は今の気分じゃない。


大根? 水気が出そうで初心者にはハードルが高いか。


迷いながらも、まずは主役となる「ぬか床」のパックを買い物籠に放り込む。


「綾星ちゃん、どぼ漬けやるん?」


背後から不意に飛んできた、聞き慣れたのんびりとした声。


振り返ると、そこにはラフなTシャツにジーンズという、いかにも「近所の買い物」といった出で立ちの本願寺さんが立っていた。


「あ、本願寺さん。……どぼ漬けってなんですか?」


「え? どぼ漬けはどぼ漬けやん。何をいまさら」


「……ぬか漬けです」


「え、どぼ漬けちゃうん?」


本願寺さんは不思議そうに、私の籠の中にあるパッケージを指差した。そこには太字で『簡単ぬか床』と書かれている。


「……ぬか漬け、です」


「あー、そうか。関西特有の呼び方なんやろか。どぼんと漬けるから、どぼ漬け。風情あってええやんか」


本願寺さんはカラカラと笑う。


私は溜息をついた。これだ。この「関西の空気」に、自分はいつの間にか浸食されている。


『綾星ちゃん、それなおしといて!!(片付けておいて)』


『うわ! これパチもん(偽物)やんか!』


『遠慮の塊(最後の一つ)残ってんで』


そんな言葉を日常的に浴びせられ、気付けば自分は純粋な東京生まれのはずなのに、思考の端々に関西のニュアンスが混じるようになってしまった。


自分のアイデンティティが少しずつ「どぼ漬け」されていくような感覚。どうしてくれるんだ、と彼女は心の中で毒づくが、悪い気はしていない。


「どぼ漬けいうたら、やっぱ茄子ちゃう? 賀茂茄子とか最高やし、水茄子もええなぁ。うちではよう食べとったわ。浅漬けもええけど、しっかり漬かったやつをギュッと絞ってな」


「うーん、茄子ですか……」


本願寺さんの解説を聞いているうちに、当初の迷いは霧散していった。


結局、本願寺さんも「なんか食べたなってきたわ」と、自分用のぬか床を籠に入れた。二人並んで野菜を選ぶ姿は、どこか似ていてで、それでいてひどく自然だった。


「あ、長芋。長芋も美味しいですよね。サクサクしてて」


「あーわかる。大分漬かってからいのがええねんなぁ」


「からい……?」


一瞬戸惑ったが、すぐに察した。塩気が強い、つまり「しょっぱい」ということだ。関西の言葉の奥深さ、あるいはややこしさに、私は小さく苦笑した。


きゅうり、茄子、長芋、そして変わり種のアボカド。籠の中が賑やかになったところで、二人は店を出た。


夕方の熱気が残るアスファルトの上を歩きながら、本願寺さんがふと問いかける。


「涼ちゃん、どう? 暮らしには慣れてきた?」


「はい。なんかもう、ずっと前からこうだったみたいに馴染んできました」


「ええやんか。……なあ。ほんまに名前、そのままでよかったん?」


桜月綾星。


彼女が仕事で使ってきたその名前。本名の「雀宮千織」に戻すという選択肢も、再会の折には確かにあった。


「私の楽しい思い出はほとんど……『桜月綾星』として過ごした時間でできているんですよ。雀宮千織として過ごした頃よりも、ずっとたくさんの大切な記憶がこの名前には詰まっています。何より、本願寺さんがつけてくれた名前ですから。私は、これがいいんです」


「なんや……嬉しいこと言うてくれるやんか」


本願寺さんは照れ隠しに頭を掻いた。その顔は、夕焼けのせいだけではなく、少し赤くなっているように見えた。


「名字、どうしようか迷ったこともあったんですよ。雀宮綾星にしようか、それとも桜月千織にしようか。色々混ぜてみようかと」


「ははは、カクテルみたいやな。ええなぁ。実はな、綾星ちゃんの名字を『本願寺』にする案も一瞬考えたんやけど、画数多すぎてテストの時とか苦労するやろな思てやめたんや。懐かしいわぁ」


「本願寺綾星……ですか。ふふっ、それも悪くないですね。重厚感があって」


うだるような暑さに、私は水筒を取り出して中の水を煽った。喉を鳴らして飲む水が、乾いた体に染み渡る。


「あちい……。でも、こうして野菜抱えて帰るのも、悪くないですね」


「せやな。美味しいどぼ漬け、作らなあかんな」


本願寺さんは満足げに頷き、前を見据えて言った。


「まあ、すぐ『水滝原綾星』になるやろうなと思てるけどな」


「ブハッ!!」


口に含んでいた水が、派手な音を立てて噴き出した。


あまりにも唐突で、あまりにも確信に満ちたその言葉。


私は激しくむせながら、真っ赤な顔で隣を睨んだ。


「な、何言ってるんですか!?」


「いやぁ、なんとなくな。予感いうやつ? どぼ漬けみたいに、じっくりじっくり、ええ塩梅に浸かっていくんとちゃうかなぁ思て」


本願寺さんは、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべて、早足で歩き出した。


「待ってください! 本願寺さん!」


重い野菜とぬか床を抱えた綾星の夏は、まだまだ、それこそ「からい」と感じるほどに、濃密な時間が続いていきそうだった。

幕間書くの楽しい。幕間を全部まとめたら番外編みたいなシリーズ作れるのかな。

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