氷上の距離
「ひーすいっ準備できた?」
「うん。できた」
きらきらのメイクといつもより動きやすい服。髪の毛もふわふわに巻いてポニーテール。そこに出帆から貰った白いリボンをつけた。
出帆は藍色のデニムに白いオーバーサイズのタートルネックのセーターを着てわくわくと玄関でもう靴を履いていた。
「じゃあ行こうか」
「うんっ!」
***
「寒っ」
電車に乗ってついた先にはつやつやきらきらの氷。
「スケート、初めてなんだよね」
受付で靴を借りて氷の上に踏み出してみる。
「待って怖い怖い怖い!!!」
壁につかまってつるつるした氷の上に両足で立つ。
出帆はもうすでに怖く無さそうに当たり前のように氷の上に立っていた。
「ほら、怖くないよ。大丈夫」
そう言って差し伸べられた黒い手袋をはめた手をとって、ゆっくりと滑り出した。
頬に当たる風が冷たい。ゆっくりと後ろに流れる景色が新鮮。氷の上に残る繊細な線が綺麗。
そんな全部初めての体験を噛みしめる。
「陽翠、上手!」
「出帆はちょっと上手すぎない?」
初めてなのにもうすでに慣れて滑っていく。
「そう?そうでもないでしょ」
出帆は涼しい顔で言いながら私の歩幅に合わせるようにゆっくりと後ろ向きに滑り始めた。
「え、後ろ向き!? 器用すぎでしょ……」
私は壁から手を離すのが精一杯。けれど、繋がれた手から伝わる出帆の体温と、彼の安定した動きが、少しずつ恐怖心を溶かしていく。
「あ、見て、陽翠。あっち」
出帆が指差した先には、リンクの真ん中で優雅にターンを決める経験者たちの姿があった。
ライトを反射して光る氷が、まるで夜空の星屑を敷き詰めたみたいで思わず「わあ……」と声を漏らす。
「いつか、あんな風に滑れたら楽しいだろうね」
「無理だよ、絶対転ぶもん」
「大丈夫、転びそうになったら僕が支えるから」
出帆はそう言って、悪戯っぽく微笑むと少しだけ繋ぐ手に力を込めた。
風を切る感覚が、次第に怖さから心地よさへと変わっていく。
ポニーテールの先で揺れる白いリボンが、氷の上の二人を祝福するように、ひらひらと踊る。
「あ、あぶないっ!」
前方でバランスを崩した小さな子供を避けようとして、出帆が咄嗟に庇うように抱き寄せた。
「っ……!」
勢い余って、二人は絡まるように氷の上へ。
ドサッ、という鈍い音。けれど不思議と痛みはなかった。出帆がとっさに下に滑り込み、クッションになってくれたからだ。
「……いったた。陽翠、怪我ない?」
「私は大丈夫、だけど……出帆、ごめん! 重かったよね」
至近距離で重なる視線。
冷たいはずの氷の上なのに、耳元まで熱くなるのがわかった。
「……あ、あの、ごめん。すぐどくから!」
「いいよ、別に。……でも、そんなに慌てて動くとまた転ぶよ」
出帆は少し照れくさそうに笑いながら腰を支えてゆっくりと起こしてくれた。
ふと見ると髪に結んでいた出帆からの白いリボンが解け、氷の上にぽつんと落ちている。
「あ、リボン……」
出帆がそれを拾い上げ、指先に絡ませた。
「ふふっ……あははは!」
先に吹き出したのは私だった。
一生懸命カッコつけて滑っていたはずなのに、今は二人して氷の上で無様に尻もちをついている。
「ちょっと、出帆! 庇ってくれたのは嬉しいけど、今の転び方、面白かった」
「面白いって……。僕は陽翠を助けようとしたんだよ?」
出帆も最初は呆気にとられていたけれど楽しそうな笑い声につられたのか、すぐに「くっ、ふふ……」と肩を揺らし始めた。
「……確かに、自分でも変なポーズだった自覚はある。膝、ガクガクしてるし」
「あー、お腹痛い。もう、ドキドキしたのが台無し!」
涙目になりながら、氷の上でバタバタと足を動かす。その拍子にまた滑りそうになって、慌てて出帆の腕を掴んだ。
「冷たっ! お尻、感覚なくなってきたかも」
「ほら、早く立たないと氷に同化しちゃうよ」
出帆はリボンをポケットに押し込むと、今度は両手でしっかりと私を支えて引き上げた。さっきまでの、どこかぎこちなかった緊張感はもうない。
「ねえ、もう一回。今度は転ばないように」
「練習あるのみ、だね」
二人は顔を見合わせて、また小さく笑い合った。
***
「はぁー……あったかい……」
スケートリンクを出て、すぐ近くにあるこぢんまりとしたカフェに逃げ込んだ。
扉を開けた瞬間に鼻をくすぐる香ばしい珈琲の香りと、じんわり体に染み渡る暖房の熱。私は、かじかんだ両手で厚手のマグカップを包み込んだ。
「生き返るね……。まさかあんなに体力を使い切るとは思わなかった」
出帆は少し髪を乱したまま、苦笑いしてホットココアを啜っている。
窓の外では、まだたくさんの人が銀盤の上で滑っているのが見えた。
「陽翠、鼻の頭赤いよ」
「えっ、嘘? ……あ、本当だ。冷えてたんだね」
窓ガラスに映る自分を見ると、寒さのせいか、それともさっきのハプニングのせいか、ほんのり上気した顔の自分がいた。
ふと、出帆がポケットから、さっき氷の上で拾い上げた白いリボンを取り出した。
「これ、後でちゃんと結び直すよ。……今は、そのままでも可愛いけど」
「……もう、そういうこと、さらっと言わないでよ」
照れ隠しに、温かい飲み物を一口飲んだ。
氷の上のスリルと、転んだ時の可笑しさ。そして今、二人で共有しているこの穏やかな空気。
「ねえ、出帆。また来たいな。次は、転ばないように」
「いいよ。……次はもっと、手を離さないで滑ろうか」
そう言って笑う大きな垂れ目は氷よりもきらきらしてて綺麗だった。
「ねえ陽翠。渡したい物があるんだ」
そう言って出帆が取り出したのは茶色い紙袋。シーリングスタンプが押してあってレトロで可愛いデザインだった。
「誕生日、祝えなかったから。めっちゃ遅くなったけど………」
私の誕生日のときは出帆は目を覚ましていなかった。秋の肌寒い病室で寂しさと不安で潰されそうだった。
「っ、ありがと!開けていい?」
いいよ、と言われて開けると中にはとても綺麗なデザインのマフラーが入っていた。
紫がかった薄青の地に銀色の細い糸が絡ませてある。ふわふわの手触りでずっと触っていられるくらい。
「可愛い………!ありがとっ!」
ふわふわのマフラーをぎゅーっと抱きしめると出帆の顔がまたほころんだ。
「陽翠、寒がりだからさ。」
胸の奥がふわっと温かくなる。
「つけてみてもいい?」
「うん」
私は椅子の上で少し姿勢を正して、マフラーを首に回してみる。ふわり、と軽くて、でもちゃんと暖かい。
鏡代わりに窓ガラスを覗き込むと、紫がかった薄青がポニーテールの白いリボンとよく合っていて、思わず笑ってしまった。
「どう?」
くるっと振り向くと、出帆は少しだけ目を丸くしてから、ゆっくり頷いた。
「……似合う」
「ほんと?」
「うん。想像してたより、ずっと」
出帆はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。耳の先がほんのり赤い。私はくすっと笑う。
「さっきから出帆、照れすぎじゃない?」
「照れてないよ」
「絶対照れてる」
「陽翠の方こそ、さっきから顔赤い」
「それは寒いから!」
「こんなに温かいのに?」
「うっ……」
言い返せなくて、私はココアを一口飲んだ。
甘くて温かい味が、胸の奥まで広がっていく。
少しだけ沈黙が落ちる。
マフラーの色を濃いめたような色の空には淡く輝く一等星。その景色を眺めながら、ふと口に出してしまう。
「……ねえ、出帆」
「ん?」
「さっきさ、転んだとき」
「うん」
「ほんとに守ってくれたよね」
あの瞬間を思い出す。子供を避けたあと、咄嗟に腕を引かれて、抱き寄せられて。そして出帆が下になって、私を守った。出帆は少しだけ眉を下げて笑った。
「当たり前でしょ」
「でもさ、もし怪我してたらどうするの」
「陽翠が無事ならそれでいい」
さらっと言われた言葉に、胸がきゅっとなる。私は少しだけ視線を落として、マフラーの端を指でつまんだ。
「……あのときさ」
「うん」
「ちょっとだけ、怖かったんだ」
「スケート?」
「それもあるけど」
私は小さく首を振る。
「また、いなくなったらどうしようって思って」
その言葉を言った瞬間、カフェの空気が少しだけ静かになった気がした。出帆が目を覚まさなかったあの時間。病室の白い天井。何度も呼んだ名前。
思い出すだけで胸がぎゅっと締めつけられる。
出帆は少しだけ驚いた顔をしてから、ゆっくり息を吐いた。
「……そっか」
そして、テーブルの上で私の手にそっと触れる。黒い手袋越しじゃない、素手の温度。
「もう大丈夫だよ」
静かな声だった。
「ちゃんとここにいる」
指先が、ほんの少しだけ握られる。
「だから――」
出帆は少しだけ困ったように笑った。
「そんな顔しないで」
私は、いつの間にか目が潤んでいることに気づいて、慌てて笑った。
「してないよ」
「してる」
「してない」
「してる」
「してないってば!」
二人で顔を見合わせて、また笑ってしまう。
さっきまでの重たい空気が、すっと溶けていく。
私はマフラーをぎゅっと握った。
「……ねえ出帆」
「ん?」
「これ、ずっと使うね」
「うん」
「次の冬も」
「うん」
「大人になっても」
出帆は一瞬だけ驚いた顔をして、それから少し照れたように笑った。
「そんなに?」
私は大きく頷いた。
「だって、出帆から貰った物だから」
その言葉に、出帆はしばらく黙っていた。そして、小さく言う。
「……よかった」
窓の外では、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。




