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甘時、昼下がり

「陽翠ー」


とてとてと廊下から出帆が走ってくる。ソファで本を読んでいた私の隣にぽすっと座ってきらきらした目でこちらを覗いてきた。


「どうしたの?」


「いやー?」


にやにやしながら嬉しそうに笑っている。最近こういうの本当多いな………


「なんでもないなら、本に戻るよ」


わざとそっけないふりをして視線をページに落とすと、隣から「えー」という不満げな声が漏れた。


それでも出帆は離れようとせず、私の肩にこてんと頭を乗せてくる。さらさらとした出帆の長い髪が、私の腕に触れてくすぐったい。


「陽翠は今日も綺麗だね」


「……急に何」


「んー、なんとなく? 黒髪も、その真っ黒な瞳も、吸い込まれそうで大好き。あ、もちろん中身もだよ!」


青みがかった瞳を細めてふにゃりと幼く笑う。記憶が戻ってからどうにもこうして真っ直ぐな言葉を投げてくるから困る。


私はわざとため息をついて、しおりを本に挟んだ。


「……出帆、さっきから顔が近い」


「え、ダメ? だって恋人なんだし、これくらい普通でしょ?」


「っ、こいびとっ……!」


そう言って出帆は、私の顔を覗き込むようにしてさらに距離を詰めてきた。


少し抜けているというか、天然というか。自分の顔がどれだけ整っているか、そして今の体勢がどれだけ私の心臓に悪いか、たぶんこれっぽっちも理解していない。


「……ダメじゃないけど。めちゃくっついてくるじゃん。離れようか?」


「無理。陽翠の隣にいると、嬉しくてじっとしてられないんだもん」


悪びれもせず私の手を取って自分の頬に寄せた。


外は穏やかな午後。窓から差し込む光が、私たちの境界線を曖昧にする。


「ねえ、陽翠。明日、どこ行きたい?」


「……出帆の行きたいところ」


「じゃあ、一日中こうして陽翠を独り占めしててもいい?」 


「それは今もしてるでしょ。」


少しだけ熱くなった頬を隠すように、私は空いた方の手で額を軽く小突いた。


けれど、出帆は「やだー」と言いながら、今度は私の腰に腕を回してぎゅっと抱きついてくる。


「出帆、重い……」


「嘘だ。陽翠、全然嫌そうな顔してないもん」


「……っ、そんなことない」


図星を突かれて言葉に詰まると、出帆は勝ち誇ったように私の首筋に顔を埋めた。


青い瞳は、時々、すべてを見透かしているような透明感を持つ。今までは少し抜けたところのあるような感じだったが今では完全に許されることを理解している。


「……ねえ、陽翠」


「……何?」


「心臓、すっごくドキドキしてるね」


密着した体温越しに、私の鼓動が伝わっているらしい。それを楽しむように、腕の力を少し強めた。


「それは、出帆が……急に抱きついてくるからでしょ」


「ふふ、ならお互い様かな。僕も、陽翠に触れてると壊れちゃいそうなくらいドキドキしてるんだよ?」


そう言って顔を上げた表情は、さっきまでの茶目っ気たっぷりな笑顔ではなく、熱を帯びた、真剣な眼差しだった。


少年のあどけなさと、恋人を想う男の子の顔。そのギャップに、私はいつも翻弄されてしまう。


彼はそっと私の髪を指で掬い上げ、愛おしそうに眺めた。


「陽翠が可愛すぎるのがいけないんだからね」


「はいはい」


小さな声で呟いた私の言葉は、彼に届いたのか、それとも窓の外を通り過ぎる風にかき消されたのか。


出帆は満足そうに目を細めると、私の膝の上に自分の頭を乗せて、今度は「膝枕して?」と無邪気にねだってきた。


「……もう、しょうがないなぁ」


私は溜息を吐きながらも、膝の上に乗った柔らかな髪にそっと触れた。


「ありがと」


猫のように目を細める。長い髪が私のスカートの上で広がり、窓から差し込む午後の光を反射してキラキラと輝いていた。


「前まで、こんなことしてくれなかったのに」


「覚えてないときにやってもって思っちゃって」


「僕、記憶ないときから陽翠のこと好きだったよ」


起き上がってこっちを見つめてくる。気持ちの距離が近づいて髪の香りがゆるゆかに流れる。


「昔と、今と、未来。何回でも陽翠のこと好きになるからね」


「ありがと」


小さく呟いて笑う。私よりも高いところにある綺麗な顔はまた嬉しそうに笑った。


「陽翠の手、ひんやりしてて気持ちいい……」


「出帆が体温高すぎるんだよ。……ほら、動かないで」


心地良さそうに頬を寄せてくるたび、私の指先には体温と、トクン、トクンという確かな鼓動が伝わってくる。


さっきまでの賑やかさが嘘のように、部屋の中には静かな時間が流れ始めた。


本を読むのはもう諦めて、私はサイドテーブルに一冊の文庫本を置いた。


今は、この少し抜けていて、でも誰よりも私を真っ直ぐに愛してくれる人の寝顔を眺めている方が、どんな物語よりも贅沢な気がしたから。


「ねえ、陽翠……」


「……なあに?」


「このまま、世界が止まっちゃえばいいのにね」


夢うつつのような声で、出帆が呟く。


青みがかった彼の瞳が、とろんと微睡みに沈んでいく。まだ回復したばっかりだから。かな。


「……そうだね」


私は小さく笑って、彼の額にかかった髪を優しく横に避けた。


私たちは、まだ何も持っていないけれど。 


このソファの上だけは、誰にも邪魔されない私たちの特別な居場所だった。


数分もしないうちに、出帆の規則正しい寝息が聞こえ始める。


私は起こさないようにそっと自分の頭をソファの背もたれに預けた。


窓の外では、春の風が木々を揺らしている。

幸せすぎて少しだけ怖くなるような、そんな穏やかな午後の昼下がり。


魔物の出現が止まっている。今やるべきことは訓練と戦闘力の大幅な強化。


「だいすきだよ」


ぷやぷやと寝る横顔を見ながら日野さんに教えて貰ったことを実行するのはまだ先だ、と思った。


歌うような、柔らかな声を思い出す。




「好きですって伝えてキッスしちゃえばいいのよ」









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