終焉の始まり
第四章スタートです!
「っ、おかしい……」
桜月綾星は、誰に聞かせるでもなく低く、小さく呟いた。その声は、人のいない静まり返った室内で、冷たい空気の中に溶けるように消えていく。
窓の外に目を向ければ、そこにははらはらと頼りなげに、けれど絶え間なく雪が舞っていた。
暦の上ではもう二月だ。本来なら、固い土の下で芽吹きの準備が始まり、春の足音が遠くから聞こえてきてもいい頃だというのに。
だが、窓の外に広がる景色に春の兆しは微塵もなかった。冬の名残を誇示するように降り積もる雪は、厚い雲の隙間から差し込む冬の陽光を乱反射して、残酷なほどに白く、そして刺すように美しく燦めいている。
「魔物の出現が止まってる。あの、幻蝶谷での戦いの日から……」
私は冷え切った指先で窓の縁をゆっくりとなぞった。指先に伝わる刺すような冷気は熱を帯びた思考を一層鋭く研ぎ澄ませていく。
あの日を境に、世界を侵食し、人々の日常を食い破っていた魔物たちの気配が、嘘のように鳴りを潜めた。
静寂。
それは本来、平和の訪れを祝うための言葉であるはずだ。しかし、今のこの静けさは、喉元に刃を突きつけられているような、あるいは巨大な怪物の胃袋の中に放り込まれたような、不気味な圧迫感を伴っている。
理由はなんだ?
単純に考えれば、戦力図の変化だ。人類の希望である終焉具の二人目が覚醒したこと。敵にとって、それは看過できない脅威であるはずだ。
……いや、違う。直感がそれを否定する。
もし、純粋な戦力増強だけが理由なら、魔物たちはむしろ死に物狂いで排除しに来るはずだ。
芽が小さいうちに、自分たちの脅威となる存在を摘み取るために、物量で押し潰しに来るのが奴らの理だ。
「毒」
その単語が、乾いた唇からポツリと零れ落ちた。
いのりが身を削るようにして作り上げた、魔物を死に至らしめる絶対の毒。
白銀はそれを、零蝶――かつては周防瑠璃歌という名の人間であったはずの、救いようのないほどに哀れな魔物へと打ち込んだ。
魔物たちは、知ってしまったのだ。
自分たちの同類でありながら、人間に味方をする『いのり』という異分子の存在を。
その身に宿した、魔物という種そのものを根絶やしにする、逃れようのない滅殺の毒の恐怖を。
そして、それを行使する終焉具の使い手という存在が、もはや個体としての強さを超え、種としての存続を揺るがす域に達したことを。
魔物は今、暗い深淵の底で警戒している。
羽衣を自在に操り、慈悲なき光を纏う少女。
そして、鋭利な刃を振るい、静謐なる水を操る少年。
白銀の雪が降りしきる静寂の中で、敵は物陰から、あるいは鏡の向こう側から、じっと二人を見つめている。獲物を狩るためではなく、その「正体」を完全に見極めるために。
「───っはぁ」
深く、重い吐息を吐き出した。
怖い。
指先が微かに震える。それは冷気のせいだけではない。
怖くて、怖くて、夜も眠れないほどの恐怖
が、彼女の胸の奥を蝕んでいる。
涼を失うのが。碧を失うのが。白銀を、流凪を、共に肩を並べて戦ってきた仲間たちを失うのが。
自分が立案する作戦一つで、彼らの命が砂のように指の間からこぼれ落ちていく。その重圧が、雪のように彼女の上に降り積もっていく。
「桜月」
「ぎゃあっ!!」
突然背後からかけられた声に、情けない悲鳴を上げて飛び上がった。
振り返れば、そこには呆れたような顔をした碧が立っている。
「んだよ碧……心臓止まるかと思っただろ……」
「鬼も黙る泣く子の形相で考え込んでたからな。つい声をかけてしまった」
「……絶対どっか混ざってるだろ、それ」
乱れた呼吸を整えながら、恨めしく碧を睨んだ。
「泣いてねーし。それを言うなら『泣く子も黙る鬼の形相』だろ。国語からやり直してこい」
「似たようなものだ。で、いつまで一人で世界を背負い込むつもりだ?」
碧の言葉に、私は視線を窓の外へと戻した。彼のぶっきらぼうな物言いは、いつだって私を現実へと繋ぎ止めてくれる。
「……いのりを、どうするつもりだ?」
碧の問いは直球だった。誤魔化しは効かない。
「………幾世に監視を強めるように言ってある」
幾世粋蘭。いのりと共に毒の研究を進めている男だ。
「彼も浄化師だ。万が一、いのりの身に異変が起きるか、あるいは魔物が接触してきたとしても、最低限の足止めはできるだろう。彼なら、情に流されずに最適な判断を下せるはずだ」
「冷徹だな。……で、流凪の方は?」
「回復したよ。まだ自宅療養中だけど」
デスクに戻り、手に持ったペンを無意識にくるくると回しながら答えた。
「あいつも、ようやく一息つけるってわけだ」
「流凪は、記憶を取り戻したのか」
「ああ。白銀と流凪は……晴れて両想いってことさ」
九歳の時の約束。子供の他愛もない誓いだと笑い飛ばすには、あまりにも重すぎる年月だった。七年という歳月を経て、死線を越えた先にようやく結ばれた二人。
心の底から二人に最大の祝福を送りたいと思っていた。この絶望的な戦時下において、それだけが唯一の救いのように思えたから。
「話を戻すが」
碧が、空気を切り替えるように声を落とした。
「お前が逸らしたんだろ。……まあいい。今後の動きはどうする?魔物が動かない以上、こっちから仕掛けるのか?」
「そうだな………」
「最優先なのは浄化師の強化だ。武器の使い方、技の練度、そして組織としての連携。魔物の出現が止まっている今こそ、地力を底上げする最大のチャンスだ。嵐が来る前に、船を補強しておく必要がある」
「毒の方は?」
「研究を加速させる。今回、手札の一部を晒してしまった以上、奴らは対策を練ってくるはずだ。ならば、その対策をさらに上回る効果を高めなければいけない。それに……」
言葉が、少しだけ熱を帯びた。
「アレ、できるんだろうな」
「できると思うよ。幾世からの報告じゃ、もう八割方完成したみたいだ」
材料は極めて特殊で、希少価値も高い。量産など到底不可能。
だが、もし「アレ」を形にすることができたなら、それは戦場のパワーバランスを根本から覆す、人類側の『詰みの一手』になる。
「浄化師の訓練。そして毒の研究。さらに……夕憐香夏姫についても徹底的に調べよう」
「だが、あの時代の記録は殆ど残ってないはずだぞ。古文書の類も戦火で焼失している」
「いーや。あるんだよな、それが。文字としての記録じゃなくて、生きた記録がさ」
口角が、挑戦的なまでに釣り上がった。
「一二〇〇年生きた、魔物が」
いのり。
魔物は間違いなく、全戦力を投じてでも彼女を奪いに来るだろう。
彼女は今や、毒の源泉であり、魔物たちを終わらせる死神の化身なのだから。
だが、それは人間側にとっても同じことだ。
浄化師の陣営に彼女がいる限り、そしてその力を解明し続ける限り、この絶望的なチェス盤の上で、私たちは初めて「優勢」を維持できる。
窓の外、雪は止む気配を見せない。
しかし、その白銀の闇を見つめる瞳には、冷徹な勝利への執念が宿っていた。
「桜月、本気だな」
「当たり前だろ。命かかってんだから」
目に入る爪には黒い縦線が入っている。
「桜月の夢はあるか?」
「魔物を根絶やしにする。全て祓う」
「そうじゃなくて」
くるりとこちらを振り向いた。碧の前髪が揺れた。
「もっと……浅い、浅い夢」
「……月が綺麗だと言われたい」
できれば、碧に。
「昼間だぞ…………?」
「しばくぞ」
終焉の始まりは、まだこれからだ。




