終・備忘録は日次記へ
この話で百話目です!!
ぴっ、ぴっ、と規則正しく音が鳴る。
その無機質なリズムは、深い泥の底に沈んでいた僕の意識を、少しずつ、けれど確実に現実の岸辺へと引き揚げていく。
重たい、と感じた。まぶたも、指先も、自分の意思で動かすにはあまりに重すぎる。
けれど、この不自由な重みこそが、僕がまだこの世界に縫い止められている証なのだと、本能が理解していた。
ようやく開いた視界は、白く塗り潰されていた。
無機質な天井。鼻を突く消毒液の匂い。視界の端で小さく揺れる、夜の色をした黒い髪。
「ひ、すい…………」
こぼれ落ちた声は、自分でも驚くほど掠れていた。喉の奥に乾いた砂を詰め込まれたようで、たった三文字を紡ぎ出すだけで、喉が焼けるように痛む。
その痛みさえ、今は愛おしい。
言いたいことは、山のようにあった。瓦礫の下で薄れゆく意識の中、必死に手繰り寄せていた記憶。失くしてしまっていた日々への懺悔。
ごめん。ありがとう。忘れていて、ごめん。
そして――大好きだよ。
言葉の断片が胸の内で渦を巻くが、喉はそれらを形にすることを拒んでいた。
「出帆っ……!」
息を呑む音が聞こえた。
椅子が床を擦る鋭い音と共に、黒い影が僕の視界を覆う。
ゆっくりと焦点が結ばれていく。そこにいたのは、大好きで大好きでたまらない僕の太陽。
あの日よりも少しだけ頬が痩せ、透き通るような肌には隠しきれない疲労の影が差している。けれど、僕を射抜くその瞳は、あの日と変わらず、強く、真っ直ぐな光を宿していた。
「待ってて! すぐ、お医者さん呼んでくるから……!」
弾かれたように立ち上がろうとする彼女の背中を、反射的に掴もうとした。
けれど、腕には全く力が入らない。指先が、わずかにシーツを掠めて虚空を掻くだけだった。行かないでくれ。ようやく会えたんだ。
またあの暗闇に戻ってしまうのが怖くて、僕は必死に声を絞り出す。
「……いか、ないで」
蚊の鳴くような、情けないほど弱い声。
陽翠は一瞬だけ足を止め、迷うように肩を震わせたが、すぐにナースコールに手を伸ばした。
それからの数時間は、嵐の中に放り込まれたようだった。
慌ただしく入ってくる医師や看護師。眩しいライトで瞳孔を覗かれ、いくつもの問いかけを浴びる。僕はただ、それらに弱々しく頷いたり、短く答えたりするしかなかった。
その間も、陽翠は病室の隅で、祈るように自分の手を組み合わせて、僕を見つめ続けていた。
ようやく嵐が去り、再び部屋に二人きりの静寂が訪れる。
規則的な電子音だけが、僕たちの沈黙を埋めていく。
陽翠の瞳に、薄く膜が張るのが見えた。溜まっていた感情が、今にも堰を切って溢れ出しそうだった。
「……ここに、いるよ」
彼女は静かに椅子を引き、僕の傍らに座った。
そして、冷え切った僕の手を、両手で包み込むように握った。
温かい。
覚えている。この温度。この、柔らかくて、けれど決して離さないという決意を秘めた指先の感触。
記憶を失って新しいことを覚えられなくても陽翠のことは頭に残った。
記憶を失って初めて会ったとき。さらさらした髪の毛が背中に流れているのを見てなんだか違う気がして髪を結んだ。
あの日。あの頭痛が起こった日の夢にいたのはきっと昔の陽翠と僕。
陽翠が読んでた本に挟まれた栞はあの時のクローバー。
「……夢、じゃ……ない?」
「夢じゃないよ。ちゃんと生きてる。出帆は、ここにいる。私の目の前で、息をしてる」
彼女の言葉が、染み渡るように胸の奥へと落ちていく。
生きている。
鉛のように重いこの身体も、節々の鈍い痛みも、すべてが僕が今日を迎えられた証拠。陽翠の体温だけが、僕の存在を証明してくれていた。
「……どれくらい、眠ってた?」
「……五ヶ月」
「もう、すっかり冬だよ」
その歳月の重みが、津波のように押し寄せてきた。
季節が変わるのを、彼女は一人でこの部屋で見つめていたのだろうか。散っていく花や、照りつける陽光や、色づく葉を、僕の目が開くことを信じて、たった一人で。
陽翠は笑おうとした。けれど、引き攣った唇はうまく形を作れず、代わりに苦しげな歪みを作った。
「ずっと、待ってたんだから。もう二度と、目を開けてくれないんじゃないかって……。一日に何度も、最悪の想像が頭をよぎって。でも、絶対に起きるって信じてた。出帆は、私を一人にしないって」
握る力が強くなる。震える彼女の指先から、五ヶ月分の孤独と不安が伝わってきて、僕は胸が締め付けられるような思いがした。
「……ごめん」
謝るつもりなんてなかった。ただ「ありがとう」と言いたかったのに、自然と唇をこぼれたのは謝罪だった。
「なんで謝るの。出帆は、何も悪くないのに」
「……置いていき、かけた。陽翠を、一人に……」
「置いてかれてない。こうして、ちゃんと戻ってきたでしょ」
彼女は、まるで幼子を叱るような、優しくも強い声で言った。
その瞳の奥には、安堵と、それ以上に深い慈しみがあった。
しばらくの間、僕たちは言葉を失った。
窓の外から聞こえる鳥の声や、遠くで響く救急車のサイレン。それらすべての日常の音が、今は特別な音楽のように聞こえる。
「……陽翠」
「なに?」
「……僕さ」
言葉が、うまく形にならない。喉の痛みは相変わらずで、思考も霧がかかったように重い。
それでも、今この瞬間に伝えなければならない確信があった。この五ヶ月を、そしてこれまでの空白を埋めるための、唯一の答え。
「生きてて、よかった」
陽翠の目が、大きく見開かれた。
「……陽翠を、好きになれて、本当によかった。君とのことを、思い出せて……戻ってこれて、良かったんだ」
ぽつり、と落とした言葉。
かつて彼女の瞳に宿っていた、あの黒曜石のような悲劇的な光は、もうどこにもなかった。そこにあるのは、共に未来を見つめ、泥濘の中を歩き抜こうとする、意志の強い光。
「出帆がいない世界なんて、私には、嫌に決まってる」
ついに堪えきれなくなったように、大粒の涙が彼女の頬を伝った。
それは僕の手の甲に落ち、熱を帯びて弾ける。
あたたかい。生きている人間の、魂の雫だ。
「思い出してくれて……本当に良かった」
「うん」
「信じ続けて、良かった……っ」
陽翠は、そっと僕の顔に自分の顔を近づけた。
濡れた瞳が、僕の瞳を至近距離で見つめる。
「……それに」
「それに?」
「……たくさん、言いたいこと、あるんだよ。寝ている間に溜め込んだ話。これからしたいこと、行きたい場所。五ヶ月分じゃ、全然足りないくらい」
かすれた声で、精一杯の言葉を紡ぐと、陽翠は泣きながら、花が綻ぶような笑顔を見せた。
「私も。私も、たくさんある。全部、聞いてもらうから。覚悟してて」
病室のカーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込んできた。
白い光が病室を、そして僕たちを包み込み、二人の影をひとつの形に重ねていく。
二人で歩いた一年間は、記憶を繋ぎ止めるための「備忘録」だった。
忘れてしまうことを恐れ、消えてしまうことを拒むための、痛々しい記録。
けれど、今は違う。
今日この瞬間から始まるのは、二人の日次記。
昨日の自分を忘れる恐怖に怯える日々は終わった。
これからは、今日という日を慈しみ、明日という日を待ち望む。
もう、忘れることなんてない。
僕たちだけの世界で、新しい言の葉の栞が、一枚ずつ、丁寧に挟まれていく。
差し伸べられた手を、今度は僕の意志で、弱々しくも握り返した。
新しい一頁が、光の中で静かにめくられた。
これにて第三章終了となります!いつも読んでくれている皆様、本当にありがとうございます。今回の章タイトル「備忘録を自分だけの色で塗り直す」は備忘録の終わりと自分を取り戻したという意味になっています。
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