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第六話 お取り寄せ特製手作りベーコン

 朝から台所にスパイスの香りが立ちこめていた。

 羽鳥凛鈴は陶器のすり鉢を両手でしっかりと押さえながら、擂粉木で黒胡椒を潰していた。

 ガリッ、ゴリッという音が静かな部屋に心地よく響く。


「黒胡椒、ナツメグ、ジュニパーベリー、乾燥ローズマリー、タイム……」


 彼女はスパイスを一つ一つ確かめるように混ぜていく。

 わずかな配合の違いが、最終的な香りに大きく響く。そこに神経を尖らせるのは一種の職業病のようなものだった。

 この手順、配合一つで出来上がりの可否が決まる。そこを疎かにするのは肉に対する冒涜だ。


 今日のベーコンは、脂と赤身のバランスが極めて良い素材。

 ――やや白身が多く、肉の繊維が細かく、表皮が薄い。

 普通のバラ肉とは少し様子が違うが、それが彼女にはたまらない魅力だった。


 下処理済みの肉にスパイスと岩塩をまぶし、きっちりとラップして真空に近い状態で冷蔵庫へ。

 これからじっくり一週間、味と香りを染み込ませていく。


 ---


 そして一週間後。待ちに待ったその日が訪れる。


 彼女は庭に自作の小さな燻製箱を組み立てていた。

 木造アパートの一階、狭いながらも手入れされた小庭。

 隅にはハーブが植えられ、枝を摘んで燻材の香りづけに使う。


 燻製材は桜のチップにローリエとタイムを軽く混ぜたもの。


 いざ準備が整い、調味液に浸された肉塊が再びお目見えとなった。

 この時点ですでにスパイスの香りと肉の色が食欲をそそり、思わずかじりつきたくなる衝動を抑えつつ、凛鈴は燻製箱の中に肉を吊るし、スモークチップに着火する。


 やがて煙が出始めれば、箱の中に釣られた肉がじんわりと燻され、ゆっくりと琥珀色に変わっていく。

 脂が照り、香ばしい香りが煙とともに辺りに広がる――

 正に至福のときであるが、ここからが長い。完成までの間は忍耐の時でもある。


 やはりすぐにでも取り出して肉塊に食らいつきたいところだが、ここでも彼女はグッとこらえて出来上がりをただひたすら待つのであった。


 そんな時だった。

 ガラガラと庭に面したガラス戸が開き、パタパタと走る足音。


「わぁ、いい香り〜! また何か作ってるんですかぁ?」


 隣に住む若い主婦、野崎沙那が軽やかな足取りと笑顔で庭先に顔を出してきた。

 凛鈴は一度手を止め、帽子の縁を軽くつまんで微笑みながら会釈をする。


「ベーコンよ。少し凝ったやつ。今日でちょうど一週間」


「へぇ〜、自家製なんてすごい! そういうのって、やっぱり豚バラとかですか?」


「……そうね、ちょっと違うけどそんなようなものよ」


 さりげなく目を逸らして答える。

 沙那はそこに引っかかる様子もなく、匂いに顔をほころばせて続けた。


「私、こういうの好きなんですよ〜。スモークベーコン! でも作ると難しそうだし、買うと高くて手が出なくって〜。よかったら少し、分けてもらえたりしません?」


 凛鈴は微笑を崩さない。

 燻されているベーコンの端の一つを切り落とすと、それをひょいと切り分けて小皿に乗せる。


「じゃあ、少しだけ。まだ未完成なのですが、それでよければ」


「やった〜! ありがとうございまーすっ♪」


 無邪気に喜ぶその後ろ姿を眺めながら自身も一欠片の肉を頬張りつつ、凛鈴は火加減を調整する。

 煙が少し強すぎたかもしれない。

 これではせっかくの“脂”が落ちすぎてしまう。


 ---


 その日の夜、隣の家では食卓に小さなベーコンの皿が並んでいた。


「……これ、本当に自家製?」


 そう口にしたのは夫の野崎(ノザキ)雄馬(ユウマ)だった。


「羽鳥さんってホントに何でも作れるのよね〜」


 そう言いながら沙那がナイフでベーコンを切ると、断面からふわりと香りが立ちのぼる。

 桜とハーブ、そして脂の甘さ。


「うん! すっごい香ばしくて美味しい〜。やっぱり市販のベーコンとは全然違うね!」


 その一切れを口にして満面の笑みで噛みしめる。

 その顔は、本気で幸せそうだった。


「……なんかちょっと、肉の感じが違う気がするけどな。筋が細かいっていうか」


 その笑顔に釣られて雄馬も一切れ口にすると、こんな感想が飛び出した。


「え? 気にしすぎだって〜。美味しければいいの、ねっ?」


 そうして彼女は皿のベーコンを子供の皿にも分けながら、もう一切れ自分の口に運んだ。

 よほど凛鈴特製のベーコンが気に入ったのか、その食欲はとどまることなく、あっという間に1本分を家族3人で完食したのだった。



 ---


 そのころ凛鈴は、まだ燻製箱の前にいた。

 夜の庭に煙がたゆたう中、彼女は静かにベーコンの仕上がりを確かめていた。


「……少し脂が抜けすぎたわね。次は、もう少し厚みのある個体がいいかしら」


 そう呟きながら、燻された肉を一つ手に取り、指先でその質感を確かめた。

 肌にも似た、柔らかな表皮と白い脂肪が、燻煙の香りと一体となって指にまとわりつく。

 ただ食べるだけではない。こうして食材と対話するのもまた、彼女にとっての味わい方のひとつである。


「……ちょっとだけ薄かったかしら。火加減のせいね。でも悪くない仕上がりだったわ。次はパンチェッタ風にしてみようかしら」


 彼女の眼差しは、また冷蔵庫の奥――新たな素材を想起していた。

今回はもう一話おまけがあります

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