第四十三話 口直しのディナー
高級車のドアが静かに閉まり、街灯に照らされた石畳を離れる。
滑らかな走行音と共に、ゆったりとした帰路。
料亭での特製懐石は、目にも舌にも贅沢なひとときだった。
繊細な味付け、丁寧にあしらわれた器、季節を映した盛り付け。
そして何より、久しぶりに橘に会えたこと。そして、あの場で人に引き合わされたのも久方ぶりだ。
珍しいことづくしの一日。車窓を流れる夜景を眺めながら、ふっと物思いに沈む。
──それはそれとして。
優雅な夕餉では、どうにも満たされない部分がある。
舌は満足していても、腹の奥の“日常”がまだ呼んでいる。
自宅である古びたアポートへと車は舞い戻り、運転手によって開かれた後部ドアから優雅に降り立つと、車を見送ること無く背を向け、自室へと急ぐ。
帰宅すると、ドレスの裾を翻しながら靴を脱ぎ捨て、すぐそこのキッチンへと向かう。そして大きな冷蔵庫を開け、出かける前に食べていた加工肉たちを取り出し、ラップを剥がすと早速一切れを口へ。
噛みしめながら、飲みかけのワインをボトルからグラスへと移し、こちらもひとくち。
……ああ、これだ。気取らない塩気と脂の旨味が、ようやく落ち着きをくれる。
いかに豪華な食事といえど、やはり物足りなかった。彼女にとって生活の中心となるのはやはり、冷蔵庫に唸るほど詰め込められた肉たちだ。
「ふふ、待っててね、今から調理してあげるから」
そんな肉を眺めてうっとりしながら呟く凛鈴。そこからは早い。
ブロック肉を取り出してドスンとまな板に置き、手際よくスライス、切り分けられた肉に塩胡椒で下味を付けていく。
熱したフライパンにバターを溶かし、薄切りにした玉ねぎとキノコを放り込むと、ざっくり炒める。そして焼色が入り、香りが出てきたところで満を持して肉を投入。
香ばしい匂いが一気に広がり、料亭の上品な余韻など吹き飛ばす。
ランチに誘われる前には、”手抜きの料理”と評したメニューがそこには出来上がった。
皿に盛りつける間も惜しんで、肉を仕込む前にセットした炊きたてのご飯にそのままぶっかけ、丼を抱えて一気に掻き込む。
──ああ、これこれ。
湯気と脂の混じった香りに包まれ、額にうっすら汗をにじませながら箸を止める。
ワインをもう一口。ふぅ、と息をつき、笑みを浮かべた。
ここでようやく人心地ついたのか、感嘆の息を吐く。
「さて……メインは何がいいかしら?」
そしてまだ足りないと言わんばかりに、空いた丼もそのままに冷蔵庫を覗き込みながら、独りごちる。
口直しは終わった。箸を止め、ふぅと息をつく。だが、その目はすでに次の料理へと向かっていた。
先ほど使った玉ねぎを鍋に移し、出汁と醤油、ワイン、みりん、砂糖を加えて火にかける。刻んだ生姜とにんにくも投入。泡立ち始めたところで小間切れの肉を追加し、ネギが透き通るまで煮込む。
出来上がったそれを再びご飯の上にかければ、牛丼風の豪快な丼の完成だ。
「上品な味と豪快な盛り付け……食欲がそそるわね」
今度はきちんとテーブルに配膳し、燭台に火を灯す。
「ふふ、いい香り。それじゃ──いただきます」
箸を取り、肉とご飯をゆっくりと口へ。煮込まれた香りと柔らかさ、甘辛い旨味がじわりと広がる。先ほどの炒め丼が食欲を温め、この煮込み丼が満たしていく。
丼が空になる頃には、心も腹もすっかり緩んでいた。
だが、冷蔵庫の中にはまだ肉が待っている。
「さて……次は何にしましょうか」
そう呟き、再び冷蔵庫へと歩み寄る。
いつもの特別な肉を口にし、ようやく彼女の”日常”が戻ってきた「」。ここからが、本番だ。
インスピレーションはある。ランチの席で並んでいた懐石を自分なりにアレンジして再現するのも悪くはないだろう。
刺し身に天ぷら、煮付け……肉も時間もまだまだある。これから調理され出来上がる料理に、こうして思いを馳せるのだった。




