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第四十一話 たまにはランチでも

 夏空の下、白く光る陽射しがレースカーテン越しに差し込む。

 眺めるだけなら悪くないが、肌にまとわりつく暑気は容赦ない。。


 氷を入れたロゼ・ハイボールのグラスを傾けながら、凛鈴(リズ)は窓辺に腰掛けていた。傍らの皿には自家製のベーコンとパンチェッタ、プロシュートが並んでいる。

 もうじき昼餉の時間となる。その準備をどうしたものかと頭を悩ませながら、ツマミとなった肉を頬張り、アルコールを流し込む。

 いっそのこと、薄い切り落としを塩胡椒で炒めただけの手抜きのでもいい──。

 そんな怠惰な考えが浮かぶほどにまで暑さにやられていた。


 そんな時、不意に響く呼び鈴の音。


 この時間には来客の予定もなく、隣人が訪れるのにはまだ早い。


 気だるい身体を引き摺るように玄関へと向かい

 扉を開くと、そこにいたのは黒服の男が立っていた。


「羽鳥様、お迎えにあがりました」


 男は凛鈴の顔を確認するなりそう言って頭を下げた。


「……なにかあったっけ?」


「先日橘様よりメッセージがあったかと」


 穏やかな表情を崩さぬまま告げられ、凛鈴は記憶を手繰る。しかし思い当たらない。


「……知らない。あ、でも……」


 ふと、思い出したように玄関脇に積まれたダイレクトメールの束をかき分けると、封書が一通見つかった。

 ペーパーナイフで封を切ると、日付と時間、それに「迎えをよこすので来てほしい」という短い文面。差出人は橘宗二──凛鈴の後見人であり後ろ盾の男だ。


「……ん、わかった。すぐ行く」


 手紙を読み、その中身を理解した凛鈴は飲みかけていたカクテルのグラスを一気に煽り、たべかけの肉たちを丁寧にラップし冷蔵庫へと送り返す。

 準備が整ったところで黒服の男に促され、古アパートには不釣り合いな黒塗りの高級車へと乗り込む。


 ---


 ゆったりとした車内は驚くほど静かで、振動さえほとんどない。


「……今日来るのは橘さんだけ?」


 柔らかな後部座席を独占しつつ、凛鈴が問いかけると、運転席から短く返事があった。


「いえ、他にも何人か集まるようです。羽鳥様のような、少し特殊な方もいらっしゃるとか」


「食事会ね……あまり気が進まないわ」


 他にも参加者がいる、そう聞いて少し気分が下がる。


「何か懸念でも?」


「人とは食生活が合わないのよ」


 凛鈴は基本肉がないと食事ができない。以前は特製の肉以外受け付けなかったので、その頃と比べれば大分改善したのだが、それでもやはり彼女は肉なしでは生きられない。それも特製の肉が。

 

「そうでしたか」


 案内人はその一言以降、特に言葉は発さず、余計な詮索もしなかった。

 

 彼もまた一流の仕事人、ということなのだろう。


 −−−


 黒塗りの車が滑るように止まり、ドアが開かれる。

 目の前に現れたのは、都心の一等地に構える老舗の和食料亭。白壁と木格子が落ち着きを漂わせ、玄関脇には季節の草花が生けられている。

 涼しげな見た目とは裏腹に、凛鈴の胸中には小さなため息が落ちた。


 ──魚と野菜が中心だろうな。


 案内されて通されたのは掘りごたつ式の個室。すでに橘宗二が腰を据え、二人の男と談笑していた。

 その視線が凛鈴に向けられると、橘はふっと柔らかく笑みを浮かべる。


「よく来てくれたな、凛鈴」


 低く落ち着いた声。


「ええ、お久しぶりです。橘さん」


 凛鈴は軽く言葉と会釈を返し、静かに席に着く。


「今日は季節の会席だ。暑いからな、さっぱりしたものを……と、言いたいところだが」


 橘が手を上げると、仲居が別盆を持って現れる。

 そこに並んでいたのは、低温でじっくり火を入れた和牛のロースト。艶やかな断面からは、かすかに肉汁が滲み出ている。


「お前の口にも合うよう、少し趣向を変えさせた」


 その言葉に、凛鈴は一瞬だけまぶたを伏せた。

 表情は変えないが、鼻腔をくすぐる香りに胸の奥が微かに熱を帯びる。

 いつもの肉のように心が踊ることはないが、それでも自分に食べられるものを、という橘の心遣いが嬉しくなる。


 だが隣に座った短髪の男が、にやりと口角を上げた。


「橘さん、そんな特別扱いしていいんすか? こいつ……いや、羽鳥さんだっけ? ワガママじゃないの?」


 凛鈴は返さない。ただ箸を手に取り、肉の端を静かに切り分け、口に運ぶ。

 舌に触れた瞬間、和牛の脂が体温で溶け、旨味とほのかな鉄の気配が広がる。

 ほんの僅か、呼吸が深くなる。


 だが、そんな態度が気に入らないのか、男は激昂したように声を荒げる。


「テメェ、無視してんじゃねぇぞ! しかも何勝手に箸つけてんだ!」


 あくまでもマイペースな凛鈴は男の態度など意にも介さず食事を始めるが、挨拶もなしにいきなりの行動は、上下関係を重んじる組織に属する男にとって看過できるものではなかった。


「やめろ」


 しかし、橘の低い声が空気を切った。


「……はい、すみません」


 その一言に短髪の男は面白くなさそうに舌打ちを飲み込み、箸を取り直す。


 その様子を見て橘はグラスを手に取り、


「では改めて、よく来てくれたな凛鈴。悪いが今日は俺のわがままに付き合ってくれ」


 そう言って笑みを浮かべるのだった。


 −−−


 他の皿――色鮮やかな造りや炊き合わせ――も悪くない。丁寧な仕事ぶりは分かる。

 もちろん、凛鈴の前に特別に用意された料理たちも、選りすぐりの食材に、鍛え抜かれた技術によって調理されていることはわかる。

 だが、凛鈴にとっては、あの肉こそが至高であり、それをひと口味わった後では全てが遠く薄く感じられてしまった。

 脳裏には、もっと鮮烈で温かな赤が、ゆらゆらと揺れている。


 盃の冷酒でそれを押し流すと、凛鈴は若干の憂いを帯びた表情で次の皿へと箸を伸ばした。

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