第五話 注文の多い希少部位
その朝、羽鳥凛鈴は少しだけ早く目を覚ました。
夢の続きを見たかったはずなのに、どうしても起きてしまう。理由は分かり切っている。
部屋にはまだ冷たい朝の空気が満ちていたが、冷蔵庫の中には、すでに“とびきりの素材たち”が眠っているからだ。
ベッドから飛び起きた彼女は、身だしなみもそこそこに、ふわりとネグリジェの裾をひるがえしながらキッチンへ向かう。寝起きとは思えぬ滑らかな動きで冷蔵庫を開けると、そこには昨日から白ワインに沈められた肉と野菜たち――冷たいままでも芳しい、仄かな香りを放っていた麗しの食材と再会する。
そして再会を求めた食材はもう一つ。
ガラス蓋を開けると、そこにあったのは
四角く整えられたテリーヌ。
元は透き通るように淡紅色をした小さなレバーで、まるで羊羹のような滑らかな断面、光を受けてほのかに艶めく質感だった。
大人の個体とは明らかに違う、筋繊維のきめ細やかさと、癖のない香りが彼女の鼻腔をくすぐったものである。
「……これは、当たりね」
そんな極上な部位を用いた料理を改めて目にし、そう呟く声がかすかに震えていた。
素材の質がこれほどまでに優れている理由は、明白だった。
若い。
それも、生まれてからあまり時間が経っていない。内臓の成長が穏やかで、組織が繊細なまま保たれている。
加えて、血抜きも内臓処理もほぼ完璧。まるで高級レストラン用に育てられた子羊のようなレバーなのだ。
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レバーはまず塩水に漬けて血抜きをし、そのあと牛乳に漬ける。
その間に下ごしらえを進める。
エシャロット、ポルト酒、香草。少量の脂肪とミンチ肉を加えることでレバー本来のコクを引き立て、風味の豊かさを増す。
全てをブレンダーで撹拌し、極めてなめらかなパテ状に仕上げる。
火加減を調整し、耐熱容器に流し込んだテリーヌ生地を湯煎焼きでじっくりと火入れした。
全神経を傾けて焼き上がりは実に見事なものだった。
表面に気泡ひとつなく、しっとりと蒸し上がった断面は、まるで高級スイーツのように滑らかで、美しい小豆色を湛えていた。
そして、それを冷蔵庫でしっかりと一晩寝かせたことで熟成と味の均一化で更に旨味が増すのである。
続いて、今度は白ワインの煮込みを冷蔵庫から取り出してから小鍋に移し火を入れる。
香味野菜の甘さと、柔らかく変化した内臓特有の香りが蒸気となって立ちのぼり、朝の空気をゆっくりと侵食していく。
こちらは使ったのは心臓、肺、そして少量の大動脈。
水分を湯引きして丁寧に臭みを抜いた後、玉ねぎ・セロリ・ローリエと共に白ワインでじっくり火を入れた。
昨夜の段階でほとんど火が通っていたそれを、こちらも一晩寝かせたことでぐっと味わいがふかくなっている。
それを今朝もう一度だけ、沸騰直前の優しい熱を与えてやる。
くつくつと、小さな泡を立てる液面に彼女の目が細められる。
「競合が増えると……希少部位の入手が一層困難になるのよね。ほんと、困るわ」
独りごちる口調は、怒りというより嫉妬と諦念の入り混じったもの。
心臓や肺、大動脈、肝臓の扱いは熟練者でなければ難しい。更にこういった希少部位は需要も高く、引く手あまたでなかなか順番が回ってこない。
それ故に、信頼できる筋から少量ずつしか入らないのだ。
――けれど、今日はある。
鍋の火を止め、蓋をして数分蒸らす。
その間に、オーブントースターでスライスしたバゲットを軽く炙っておく。ガリ、とした耳の香ばしさが立ちのぼる。
トレーに乗せた皿をダイニングのテーブルに運び、赤いランチョンマットの上にそっと置く。白い磁器皿の中で、澄んだ金色のスープに沈むピンク色の肉塊と、くたりと甘く煮崩れた野菜たち、形を整え密かに震えるテリーヌが、朝の陽を受けて微かに輝きを放っていた。
フォークを刺すと、ハツはぷるりと震えた。
内部までしっとり火の通ったそれは、切るときにほんのりと赤みを残していたが、すでに食べごろだ。
口に運ぶ。
最初に来るのは、ワインの酸味と野菜の甘み。だがすぐにそれらの奥から、"静かに主張する肉の記憶"が浮かび上がってくる。心臓の、あの筋肉の密度。
肺は歯応えこそ控えめだが、逆にスープの味をよく含み、噛むほどにじんわりと旨味が滲む。少しだけ入れた血管の輪切りはコリコリと歯に跳ね返る、愉快な食感。
「……やっぱり、美味しいわ」
バゲットにスープを吸わせ、ハツを一切れ乗せて口に運ぶ。
炙ったパンの香ばしさが、臓物の生々しさを程よく包み込んでくれる。油脂分はほとんど無いのに、妙に満足感が高い。
テリーヌも忘れてはいない。彼女はその端をナイフでひとすくいし、バゲットに乗せて口に運ぶ。
最初に感じたのは、淡い甘み。
それがゆっくりと、舌の奥で深みのあるミネラル感へと変わっていく。
後味にわずかに残る鉄のような風味は、若さゆえのもの。嫌味ではない。むしろ儚さの香り。
同じ肝臓料理のフォアグラとはまた違った味わいが駆け巡る。
凛鈴は目を閉じて、一呼吸おいた。
「……惜しいわね」
その言葉は、味への不満ではなかった。
白ワインの煮込みは完璧。レバーのテリーヌも最高級の仕上がり。
だがそれゆえに、この素材がなぜ手元にあるのかということに、薄く胸を締めつけられる。
競合がひしめく希少部位。
その中でも特に若い個体の臓物は、まず市場に出回らない。
出所を知っている者なら、真っ先に押さえるはずの逸品。
それが、今、目の前にある。
整った形で。
完全に処理されて。
こちらは要求すらしていないのに。
そして、それならば。それが目の前にある以上、全力を以て料理を仕上けなければならない。
そうでなければ肉に対する冒涜である。
「……ねぇ、いったい誰がこの素材を手に入れて、私に譲ったのかしら」
彼女は微笑んだ。
それは、料理の出来栄えに満足した者の笑みではない。
むしろ、何かを理解してしまった者の笑みだった。
その後も、彼女は残さず料理を食べた。
最後に赤ワインをグラスにもう一杯だけ注ぎ、口に含んで余韻を流す。
「美味しいものには理由なんて、あってないようなものよ」
静かに、そう呟いた。