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第四十話 ごくありふれたバーベキュー

 夏の終わりが見え隠れする、風が乾き始めた昼下がり。

 空は高く、雲は軽く、草いきれと炭の匂いが混ざり合う。

 今日は、珍しく野崎家と共に近所の河原でバーベキュー会が開かれている。


 発起人は、もちろんあの隣人の主婦、野崎(ノザキ)沙那(サナ)だった。


 きっかけは先日、無遠慮に上がり込んだ沙那のこんな一言だった。


「ねぇ、せっかくの夏だし、バーベキューとかどう?」


 そして藪から棒にこんな事を言う。

 凛鈴はキッチンでスパイス棚を整理しながら、首だけ沙那に向けた。

 バーベキュー、好天の続くこの頃の企画としては悪くない。


「いいわね。……丸一日かけて燻すには、そろそろ湿度の管理が難しい季節だけれど」


 先日じっくりと焼き上げたバーベキューの肉に思いを馳せつつ、凛鈴はそう応えた。


「へ?」


 ただ、その予想外な答えに沙那が瞬きする。


「煙の質は木材の選定にも左右されるの。ヒッコリーが無理ならチェリーウッドで代用できるけど、香りの余韻が違うのよ」


「ちょ、ちょっと待って。……え、燻す?」


「そうよ? バーベキューでしょ?」


 沙那は首を傾げる。


「えっと、でもバーベキューっていったら、ほら、アレじゃない。庭にコンロ出して、焼肉のタレつけたお肉をジュウジュウ焼くやつ。スーパーのパック肉でさ」


「……それは、“焼肉パーティー”じゃないのかしら」


 凛鈴の表情は真顔である。


「え、ええ!? 違うの!? だって網あるし、炭火だし、みんなで肉食べるし……」


「バーベキューとは、本来スモークの技術と時間の魔術によって、肉を神聖なる儀式で昇華させる行為よ」


「昇華!?」


「24時間かけて低温で火を入れて、脂をじっくり落としながら、肉の繊維が舌でとろけるまで解かすの。それが本場のバーベキュー。ソースは手作り。スパイスはブレンドから始めるの。でも、地域によってはソースはむしろ邪道とされ、スパイスと肉の旨味だけを追求するものもあるわ」


「え、それって普通にできるの? ていうか家でそこまでやる必要ある!?」


 沙那はうろたえながら聞き返す。


「あるわ。あなたの言う“焼きながら食べる”スタイルとは真逆。こちらは“焼き終わって、落ち着かせてから、盛大に盛り付けて食べる”。主役は調理者。あくまで料理よ」


「でも、こっちのはイベントだよ? わいわいして、途中でトウモロコシ焼いたり、途中で缶詰を温めたり……」


「缶を直火にかけるのはやめなさい」


「え、えぇ……」


 凛鈴はふと手を止めると、沙那のほうに向き直る。


「……つまり、あなたの“バーベキュー”はあくまで焼きながら盛り上がる、ということでいいのね?」


「う……うん。ていうか、調理よりも雰囲気優先……?」


「私は……“肉の完成”を求めているだけなの」


「求め方が怖い!」

 

 ---

 

 という一悶着がありつつも、 


「だって凛鈴さんなら、いい肉持ってきてくれるでしょ?」


 遠慮も計算も無い、その言葉がすべてを物語っていた。

 無邪気な他力本願。だが、凛鈴は特に気にするでもなく、黙って肉を持参した。


 野崎家が用意したのは、アメリカ産の輸入牛肉。

 スーパーの特売品としては上等。けれど凛鈴はそれに手を付けない。

 器用にトングを操り、あっさりと“家族向け”に仕分けて炭火に置く。


 一方、彼女自身は持参したクーラーボックスの中から、自家製のソーセージにベーコン、スパイスを塗り込めた骨付きスペアリブ、さらに脂身の多い赤身肉。赤身の中に、見慣れぬ筋の走り。骨の太さは牛よりも……わずかに細い。

 凛鈴はそれらを取り出し、何の説明もなく焼き台の隅に並べた。


 やがて、グリルの上では肉が焼ける音が弾ける。


 パチパチ、ジュウジュウ――

 弾ける脂が炭に落ち、香ばしい煙が上がる。


「おー、こっちの肉、すっごい香り!」


 沙那の夫、雄馬が言ったが、凛鈴は答えない。

 その横で、沙那はというと――しれっと真っ先に牛肉を確保し、むしろ凛鈴の肉にも箸を伸ばす気満々だ。

 トングをすり抜けるスピードはもはや鍛錬の域。


「いくらでもあるでしょ?  ね?」


 甘ったるい調子で笑いかけられても、凛鈴はただ静かに微笑みながら頷く。


 確かに、量はあった。というより――持ち込みすぎていた。


 それもそのはず。

 この日のために彼女が仕込んだ肉は、総量でおそらく4キロを超えている。


 その一切れ一切れに、意味がある。

 肉質、血の残り具合、筋の入り方、骨の形状、脂の溶ける温度。

 すべてを吟味し、仕込み、塩をすりこみ、数日間熟成させ、炭火の温度と煙の成分まで計算した火入れを行う。


 誰にも求められていないのに。

 誰にも理解されないと知っていながら。


 ――それでも、やる。


 それは一種の儀式だった。


 彼女にとって肉を焼くという行為は、ただの調理ではない。

 命を焼き、形を変え、自らに取り込むための、敬虔な“通過儀礼”。


「……きれい」


 誰にも聞こえない声で、凛鈴は呟いた。


 表面がきつね色に焦げ、断面には赤身がわずかに残る。

 焼き目と肉汁のにじみ、その照りと香り。

 口に入れる前から、もう分かる。これは美味であると。


 だがその“美味”には、決して明かせない背景がある。

 そして今日、こうして人前で堂々と焼かれることこそが――

 どこか倒錯的な悦びを凛鈴にもたらしていた。


「いただきます!」


 野崎家の娘、梨那(リナ)も皿を持って肉の山に駆け寄る。

 沙那は牛肉を、夫はビールを、娘はソーセージを。

 特に梨那は“おいしいほう”の肉ばかりを選んでいく。


 誰も彼女の肉を疑わない。

 誰もその色や質感に目を留めない。


 だが、誰もがその味に笑顔を浮かべる。


 ――まるで、祈りが通じたかのように。


 凛鈴は炭の前に座り込み、静かに自分の皿に肉を乗せた。


 カリカリに焼けた表面、弾力のある赤身、そして骨の近くの、甘い脂。


 口に運び、噛むたびに広がる香りと、熱。


 その奥に、たしかに命の気配が残っていた。


 今日もまた、誰にも知られず――

 凛鈴は、命を焼いて、喰らって、生きていく。

 

 ---

 

 あらかたの肉を食べ終え、満足そうに腹をさすった沙那は、最後にふと思い出したように呟いた。


「でもさぁ……結局、あんたの言ってた“本場式バーベキュー”って、何だったの?」


 凛鈴は、ぽたりと箸を鍋のふちに置いた。


 しばし考え込むように視線を落とした後、ほんの少し口元を緩めて答える。


「多分……私の思ってたのは、“違う国”のものだったみたい」


「へえ……そうなんだ?」


「うん。……これは日本式だったのね」


 どこか腑に落ちたように、穏やかな調子でそう言う凛鈴の姿に、沙那はまたしても軽く首を傾げる。


 その“違う国”がどこを指しているのか、どんな風に違っていたのか、聞いてもおそらく返事はない。


 けれど、網の上でじゅうじゅうと焼かれていた“あの肉”の味を思い出し、沙那はなんとなく「深くは突っ込むまい」と思った。


 それでも、美味しかったのだ。


 日本式の、バーベキューとしては——たぶん、最高に。

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