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第三十八話 熱のない鼓動


 空調の音が遠くで唸っている。

 機械的で乾いたその音に、羽鳥凛鈴は静かに目を細めた。


 冷房とともに稼働しているのは、新しく導入したオゾン水生成機。

 食肉の表面に触れる空気と水の“清浄”を保証する、淡々とした儀式の補助装置。


 肉の細胞を壊さず、色も匂いもそのままに。

 この過剰とも言える設備投資で衛生処理の名目に“生”を保存することができるのは、彼女のちょっとした贅沢だった。


 ---


 まな板の上に置かれたのは、低温でじっくり火を通されたレバー。


 芯温が基準に届くまでの時間を何度も検証し、皮膜を破らぬように氷で急冷し、

 表面にオゾン水を霧吹きで吹きかける。無駄な行程などない。


 その一手間が、赤黒い臓器にまるで宝石のような艶を与える。


 凛鈴は指先でレバーの断面を撫でた。

 柔らかく、濡れていて、ほんのり冷たい。


 少し、喉が鳴った。

 こんな日にも、まだ“欲”が残っていることに、彼女は少しだけ安堵する。

 だが、食らいつくのはまだ先だ。手を加え味を整え、完成された形になってこそこの臓物は輝くのだ。なので凛鈴は焦ることなく作業を続ける。


 刃を入れる。

 やわらかい。ふわ、と音がしそうな切れ味。するりと切り分けられていく。


 抵抗のない肉に、微かにざらついた舌触りが脳裏に浮かび上がる。

 歯茎をすり抜けたときの感触を、口の中が覚えているような錯覚。


 きっと、これも誰かのものだったのだろう。

 でも、それを考えるのは、最後のひときれを食べ終えたあとでいい。


 レバーは薄く丹念にスライスされ、皿に透けるように並べる。


 胡麻油、塩、ほんの少しの醤油。

 刻んだネギと白胡麻。すべて冷やされた器具で扱われ、ぬるさが一切ない。


 準備が整う頃には、彼女の目元から余計な熱が抜けていた。


 続けて、冷蔵庫の奥から小さな容器を取り出す。


 これまた生食用に切り分けて、滅菌しておいた赤身の肉。

 ドリップはなし。艶のある濡れた赤が、まるで濡羽のよう。


 その肉を更に細かく、しかし粗めに刻んでいく。もちろん、繊維が壊れないよう、丁寧にである。

 サクりと小気味よく切り分けられ、そうして小間切れになった肉を再びひとかたまりに集めて、出来上がった小山に卵黄を落とす。

 これで下準備は完了、次にタレを作る。ごま油に砂糖に醤油、にんにくをすりおろして混ぜ合わせれば、ユッケのタレの完成だ。


 ---


 椅子に腰を下ろし、レバ刺しとユッケの皿を並べる。

 麦茶。アルコールも悪くはないが、今日の彼女の気分はこれだった。冷たいガラスのコップと急激な温度差で爆ぜる氷の音が小気味よい。


 誰にも見られず、誰にも気を遣わず、

 ただ、自分のためだけに整えられた食卓。


 凛鈴はそれを見て、ゆっくりと笑った。

 これはたしかに、ひとつの幸福だった。


 一切れ、レバーを摘む。

 舌に乗せた瞬間に脂がとけ、若干の苦みと濃縮された旨味を残して滑るように消える。


 喉奥から、知らず声が漏れた。


「……ん……」


 ひとつ、またひとつ。

 口に入れるたびにふわりとほどけ、その柔らかさと濃厚さに思わず瞼の裏にじわりと熱が浮かぶ。


 それは後悔でも、哀しみでもない。

 もっと単純な、生理的な反応。


 ──美味しいものを食べているときの、あれ。


 ---


 赤身のユッケは、より賑やかだった。


 レバーとは違った柔らかさ。ほろりとろけるような感触。荒く刻まれた肉が卵黄と絡み合ったままほぐれ、そこに醤油とにんにく、ごまの風味が調和し、ほんのりと漂う甘み。それらがちょうど良いころあいで溶け、凛鈴の口内でふわりと広がっていく。

 

 箸でほぐされた肉にかつての体温がある気がして、彼女はゆっくり、噛みしめた。


 ---


 すべてを食べ終えても、しばらく彼女は皿の前でじっとしていた。


 空調の音だけが、変わらず部屋に流れている。


 ゆるやかな満足感。

 食後の眠気。

 それを打ち消すように、最後の麦茶を一口。


 そのとき、ふと脳裏に浮かんだ。

 背中。腕。肋骨。どれでもない。そのもっと内側でなにかが跳ねた。


 記憶かもしれないし、ただの幻かもしれない。


 でも凛鈴は、それをそっと振り払った。

 それよりも、今、口の中に残る鉄の香りのほうがずっと、確かだった。

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