第三十七話 冷めても美味しい断面
朝から空気が白く、輪郭のすべてがのっぺりとぼやけていた。
うだる暑さに完全にやる気を失った羽鳥凛鈴は、カーテンを半分だけ開け、風のない窓辺をぼんやりと見つめていた。空は晴れているのに光が鈍い。アスファルトがうっすら湯気を立てて、遠くの景色はまるで水に濡れたガラスの向こうのようだった。
朝ごはんを抜いてしまった。
何も食べたくなかった。
このままでは昼も危うい。
でも、何か食べなければならない。それだけは、確かだった。
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重たい体を引きずり、なんとか部屋に不釣り合いな大型業務用冷蔵庫までたどり着く。
その扉を開けば、そこには銀色のトレーの上に肉がひと塊、薄い霜がその表面を覆い、冷たい膜を纏って横たわっている。
調理のために用意したものの、暑さに負けて放置してしまった肉をm,凛鈴は取り出して指の腹でごく軽く触れる。
しっとりとした赤身肉で弾力がある。おそらく歯応えも、脂も、十分に。
「よかった。これならしっかりと味わえそうね」
現金なことに、現物を見ればやる気も多少は湧いてくる。早速オーブンの予熱を始め、必要なスパイスを戸棚から引っ張り出しては並べていく。
今日はシンプルに火を通す。焼き切って、薄く削ぐ。
食欲ではない。これは儀式だ。
まずはその肉塊に塩をすり込み、にんにくとローズマリー、胡椒をまぶし、紐で形を整える。凛鈴の指は迷いなく動いていた。誰に教わったのか、元は誰のためだったのかはすでに覚えていない。
タイマーをセットして、熱が肉の内部まで届く時間を見極める。
焼きすぎてはいけない。通らなすぎてもいけない。
熱さも気にせず、ひたすらにオーブンを覗き続ける凛鈴。
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やがて時間が経ち、オーブンの中で焼き上がった肉は、表面が香ばしく焦げ、内部はじっとりと湿り気を帯びていた。凛鈴はそれをラップで包み、氷水を入れたボウルに沈める。
ゆっくりと温度が下がる。
火は通った。
でも、まだ生々しさを残している。それがまた、彼女はとても愛おしく思う。
しばらくして、肉の温度がすっかり冷えたなら、凛鈴は徐ろに包丁を入れる。薄く、滑らかに。正確に精密に何枚も、何枚も。
断面は淡く赤く、脂の線が白く浮かぶ。
並べた皿の上は、まるで図面のようだった。何かを設計するように整然と、美しい。完璧だった。
そのとき、チャイムが鳴った。
−−−
「こんにちは〜! 羽鳥さん、今日も暑いですね〜!」
元気な声とともに、野崎沙那が玄関先に立っていた。今日は珍しく娘の梨那も一緒だ。
「あら、いらっしゃい」
昼間の時間の来訪というのも稀ではあるが、それでも料理ができあがる頃に現れるという言うのは、間がいいのか悪いのか。
少なくとも凛鈴にとっての沙那は、自分の肉の味がわかる“理解者”──いや、もはや肉に愛された肉食女子、という風格すら漂っている。
そんな沙那の横にいた梨那は手に何かが描かれた画用紙を持っている。
「これねー、今日の自由帳に描いたの。先生に“夢で見たの? ”って言われた!」
そう言って、にこにこと凛鈴に差し出す。
紙には、赤とピンクと灰色で描かれた何枚もの楕円。まるで……断面図のようだった。まさに今凛鈴が仕上げた肉料理のような。
「あら、本当にいいタイミング、ホントあなた達には肉食女子の素質あると思うわ」
「え〜? なにそれ〜、あ、もしかして?」
そして沙那がにおいに気づいたのか、鼻をひくひくさせる。
「わぁ、いい匂い……。何作ってたんですか?」
「……ローストポークよ。冷たいやつ」
凛鈴は笑顔で答えながら、改めて梨那の絵を見つめる。
「えー! 美味しそうっ。食欲なくても冷たいのならいけるかも」
そんな彼女の様子を余所に、出来立ての肉料理と聞いて早くもお裾分けを貰う気で興味を示す沙那。
「フフ、いいわよ。少し、試食してみて」
そう言って、凛鈴は数枚の肉を小皿にとって、沙那に差し出した。タレはつけていない。必要ないと思った。
「ありがと! いただきま〜す!」
「いただきます!」
目の前に肉が現れるやいなや、沙那達は遠慮なく肉を指で摘み、口に入れる。
「んー……やわらか! いつもほんと美味しいの! これ、どこでお肉買ってるんですか?」
「……いつものお取り寄せよ。特別なの」
その後、試食分をあっという間に食べきり、その様子に気を良くした凛鈴は新たにローストの塊からお裾分け分を切り分けると、タッパーに詰めて沙那に持たせた。
おそらくは、この日の夕食にでもあの肉は食卓に登るのだろう。
そうして2人が去ったあと、凛鈴は笑みを浮かべながらも冷めたままの目で、肉の断面を見つめていた。
相変わらず、食欲は湧かない。ただ──この断面の輪郭が、誰かの記憶のように浮かんでは、ぼやけていくのを感じていた。




