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第三十六話 冷たい滴、熱い欲


 夏本番となりじっとりと蒸した空気がまとわりつく午後、凛鈴は珍しく窓を開けていた。

 外の音も匂いも湿気も、彼女にとっては煩わしいものだったが、今日はなぜか、そのどれもが──特に、遠くの住宅街から流れてくる肉の匂い。どこか焦げた脂と、濃い赤身の残滓を想起させるその香りは、彼女の鼻腔をくすぐり、胸の奥に沈んだ何かを刺激する。しかし、


「……暑い」


 思わず漏れたその言葉に、凛鈴自身が驚いた。

 夏の台所は、それだけで試練だ。

 火を使えば汗が噴き出し、換気扇はうなるばかりで何の救いにもならない。

 それでも彼女はいつもと変わらず、肉に包丁を入れるつもりだった。


 だが、今日は違った。


 蒸し暑い空気。汗ばむ肌。すぐに悪くなる食材。

 そのどれもが、普段の”儀式”に水を差す。


「……なら、逆らうだけ」


 そうつぶやき、彼女は冷蔵庫の扉を開いた。

 涼やかな空気に手を差し入れ、選び取ったのは──氷で締めた赤身肉。

 火を通さず、削ぎ切りにしたそれを、特製のマリネ液にくぐらせる。

 その手さばきも慣れたもの。夏の本能に抗う冷気の刃は精密機械のように滑らかに、そして均一に肉を削いでいく。


 冷たい、しかし確かに“生”を感じる肉。


 そこに、凛鈴は命の”赤”を求めた。


 コンロの上では、湯が細く、静かに沸いている。

 厚くもなく、薄すぎもしないロースのスライスが、静かに熱湯の中へ沈められていく。

 肉が白くなり、花のようにふわりとひろがるその瞬間を、凛鈴はじっと見つめていた。

 そうして火が通るやいなや、その肉は徐ろに、傍らに用意された氷水へと浸されていく


 ──冷しゃぶ。


 真夏に向けての定番、しかし、だからこそ「丁寧に作られる冷しゃぶ」を見かけることは少ない。

 手早く、さっぱり、あっさりと。それだけが目的で作られることが多い料理。


 だが、凛鈴にとってそれは「愚か」だった。

 手間を惜しんで、命を食すという行為を済ませようとするその態度が。


 だから今日の彼女は、一枚一枚、重ならないように湯にくぐらせては氷水に落とし、しっかりと冷やす。

 脂と筋の収縮を均一にし、歯触りと温度差の違和感をなくすため、氷水の温度は一定に保たれるよう氷を継ぎ足す。


 そうして、何十枚もの肉を無言で調理していく。

 途中、彼女の指に湯の跳ねた一滴が当たり、赤くなった皮膚を舐めるように指をくわえる。

 それは痛みというよりも、味見だった。

 肉の旨味がわずかに宿った湯──その中に、ほんの微かに“鉄の味”があった。


 彼女の目が細くなる。


 今日の肉もまた、”選ばれた”肉だった。

 特別に選別され、丁寧に処理され、やや時間を置いて熟成させた「肉体」には、他のそれとは違う柔らかさと旨味がある。


 皮下脂肪の層が、やや薄い。

 だがその分、筋繊維が美しく整っている。

 この肉は、おそらくは運動が好きだった。細身で、無駄のない体つきだったのだろう。

 滑らかで均整のとれた筋繊維がそれらを物語っている。

 ──今回の荷物の送り主は、一体どこでこんな逸材を見つけたものか。


 氷水から上げられた肉は、しっかりと水気を拭き取られ、扇形に丁寧に皿へ並べられていく。

 あくまでも、美しく、品よく。

 ドレッシングは、彼女特製のものだ。

 白練り胡麻、焙煎ごま油、少量のナンプラーにレモン果汁。

 そして、かつて彼女が「静かに仕込んでおいた特製の発酵唐辛子ペースト」をひとさじだけ。

 磨き上げられ、よく冷やした器に並べて注ぐ。


 辛味をまとった香りが鼻に抜ける。

 それは体温を奪われた肉に再び熱を戻す、静かな還元行為。


 付け合わせは、茹でたオクラ、薄切りの赤玉ねぎ、水にさらした三つ葉。

 どれも、血の味を引き立てるための“脇役”だ。


 すべてを整えたあと、凛鈴は皿の前に正座し、深く息を吐いた。

 そして、ひときれ、白く冷えた肉を箸でつまむ。


 舌の上で、肉が溶けた。

 最初は冷たく、だがすぐに、脂と旨味が体温でにじみ、胡麻とナンプラーの塩味が後を追ってくる。


「……そう。冷たいのに、熱いのよ」


 これは単なる冷しゃぶではない。

 命を冷やし、その輪郭を浮き彫りにし、再び口の中で命として“再構築”する儀式。


 ふたくち、みくち。

 彼女の箸が止まらない。

 徐々に、頬が赤らみ、目元が潤み、呼吸が浅くなる。


 やがて皿が空になるころ、彼女の指先には、薄く脂が残っていた。

 それを指先で撫でるように口に含み、ゆっくりと味わう。


「……涼やかで、熱い。そして何よりも、やさしくて、抗えない味……命そのもの……」


 外では、今尚下がらぬ熱気が渦巻いている。

 だが彼女の心と胃の奥底もまた、涼し気な室内で今も静かに、熱く燃えていた。

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