第三十五話 甘い香りのその奥に
その日、隣人である野崎沙那の呼びかけで、羽鳥凛鈴は珍しく“よその家の台所”に招かれることになった。
テーマはすき焼き。口実は”まだ暑いけど、だからこその季節の先取り”とのこと。
だが、沙那の目論見は明白だった。
それは先日の昼下がり。まだまだ夏真っ盛りのの匂い孕んだ空気が、どこか気だるさと哀愁を漂わせているころ。
呼び鈴が鳴ったのは、ちょうど凛鈴が仕入れた肉の下処理を終えた直後だった。
「あら、今日は早いわね」
普段のおねだりであれば仕込み中よりも料理ができあがった頃、あるいは配達の仕分け中にくるのが通常だったが、この日は少し中途半端な時間だった。凛鈴は独り言のように呟き、エプロンの裾で手を拭きながら玄関を開けると、そこには案の定、隣人の沙那が立っていた。顔には遠慮の欠片もない笑みを浮かべて。
「羽鳥さん、今日も荷物来てたわね。ってことは絶対いいお肉持ってるでしょ〜? ね? よかったら明日、ウチですき焼きとかしない? ウチの冷蔵庫にも一応ちょっと良いやつあるからさ、羽鳥さんもちょ〜っとだけ、お肉持ってきてもらって!」
最初から「持ってきてくれる」前提での招待。ただ、凛鈴も自身の肉を求められることに悪い気はしない。なので
「あら、いいわね。うちの肉はクセが強いですよ? どのくらい要ります?」
と誘いを受ける気満々でそう返す。
「ありがとう! クセとかこだわりとか、ぜーんぶ大歓迎だから! う〜ん、量は羽鳥さんにおまかせするわ」
「わかりました。では明日、満足できる量を用意しておきますわ」
一人でとっておきの肉を讃えるように調理し、それを対話するように食するのもいいが、たまには美味しい肉を分け合って共有するのも悪くないだろう。
「少し早いけど、涼しくなってきたらやっぱり鍋よね〜」
新たな肉の到来にウキウキとした気分を隠しもしない沙那を見て、自然と凛鈴のえみも深くなる。やはり肉好きの同志はいい。
彼女も楽しくなってきたのか、この日の調理もそこそこに、次の楽しみを求めて肉をスライスしていくのだった。
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そんなやり取りをして約束ともいえない約束を交わした翌日、つまりこの日を迎えて凛鈴は張り切って肉を用意した。
15lのクーラーボックスに、保冷剤と共にぎっちりと詰め込まれた肉、肉、肉、である。その量、約3Kg。
「すき焼き用、ということなので、薄く切り分けました。部位もモモとバラをそれぞれ用意していますわ。」
そう言って開かれたクーラーボックスの中には、きれいな赤身のスライスと、見事なサシの入った部位が、ラップに包まれて目見えした。
「わぁ、すごいたくさん! いつもありがとね〜」
早速部屋内に上がり込むと、キッチンへと赴き持ってきた肉を広げていく。
「これだけあれば、このお肉をいつもよりもしっかり堪能できると思うわ」
そう言って微笑む裏に、凛鈴の眼差しが一瞬だけ鋭く光った。
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鍋の用意が整い、火加減や割り下の調合に没頭しているその隙に、沙那はそっと冷蔵庫を開け、自前の輸入牛肉を取り出しすと、凛鈴の視線の隙を突くように、沙那が手早くパックの牛肉を鍋に滑り込ませた。
「やっぱ牛肉は先に食べなきゃね~、うん、これが主役!」
「……ふふっ、そう、まずはそっちなのね」
熱せられた鍋のそこで牛脂が溶け、早速肉の焼ける香ばしい匂いを漂わせ始めた。
凛鈴はあえて止めずに笑うと、自分が持参した“特別な肉”を別皿に取り分ける。
彼女の肉は、美しい霜降りの牛でもなければ、スーパーに並ぶ豚でもない。明らかに異質な──それでいて、どこか官能的な赤。
「私のお肉、気に入ってもらえてるから、張り切っちゃいました」
野崎家の食卓を念頭に、多めに仕込んできたそれを、何気ない風を装って沙那の家族の皿へと盛り付けていく。
まるで大輪の花の如く、鮮やかに飾り立てられたその皿は、野崎家の面々を感動させる。
キッチンにあふれかえるほどの肉。艶やかで赤黒く、脂の入りも妙に美しい。
「これは、凄いな。お店とかで見る盛り付けだわ」
「すごいきれい! おいしそ〜」
事前に話を聞いていた沙那の夫・雄馬は、どんな肉が現れるのかとすこし警戒する素振りを見せたが、凛鈴が取り出した肉の“質”と“量”を見た瞬間、言葉を失った。
娘の梨那もこの光景はご満悦のようで、身を乗り出さんばかりに肉を見つめている。
「ところで、これ……何の肉?」
「……そうね。特別な肉、とだけ言っておきましょうかしら」
雄馬が抱いた疑問がつい口を突いて出るが、凛鈴が意味深に笑って流す。もちろん沙那はそのやり取りをスルーして「はいはい」と笑い飛ばすし、娘に至っては肉に夢中で気づきもしない。
そもそも気にしてないのだ。「聞かぬが華」もここまで徹底されると清々しい。
なので、雄馬もその疑問はこのあと供されるであろう肉とともに飲み込むことを決めた。
肉に火が通り始めたタイミングで、今度は割り下を焦がさぬよう慎重に流し込む。砂糖、醤油、出汁。甘さの中に旨みが凝縮された液体がじゅわりと香りを放つ。
「さて、牛肉が入ったことだし、今度は野菜を並べて。火の通りに差があるから、場所も考えて」
「あいよ~っと」
沙那の独断専行という一幕がありつつも、その後は完全に“鍋奉行”と化した凛鈴。言われるがままに沙那は白菜、しらたき、春菊を配置していく。
「……沙那さん、それ火が強すぎます」
「え、あ、ごめんごめん!」
最高のタイミングを見計らうように、最上の旨味が得られるように、時に指示も飛ばす。
「やっぱ高級牛は最初に食べないとね〜♪」
そう言ってこっそり鍋の端から数枚を奪取する沙那。凛鈴の目を盗んで最初の一皿を確保しようとする姑息な手。
だが、凛鈴はすぐに察していた。
「ふふ、いい食べっぷりね」
「えへ、つい、ね」
その勢いをむしろ褒められた瞬間にはもう噛み締めていた沙那。思わず照れながらもしっかりと肉を味わう。
牛肉と野菜がある程度引き上げられると、いよいよ本番とばかりに次々と鍋に敷き詰められる大量の肉。すき焼きの鍋が赤黒く沈んでいく。家族4人には到底見合わない分量に、雄吾は思わず絶句する。
「これ……何人前くらい……?」
「私が食べる分と、皆さんの分と、おかわりの分です」
「すごーい、まだまだ食べられるわ!」
最初に投入された肉と野菜からのだしが効いてきたので味わいはさすがだったが、それよりもその後に投入された凛鈴の“本気肉”の圧が異常だった。
「さぁ、ここから本番よ。どんどん入れていくわね」
そしてその言葉通り、凛鈴は目にも止まらぬ速さで鍋を操り、焼き、味をなじませ、取り分け、食べる。
沙那は最初、「やりすぎじゃ?」と笑っていたが、凛鈴の肉をひと口食べた瞬間、空気が変わった。
「……っっ、なにこれ、うま……!」
そのまま夢中で食べ始め、結局、自分が最初に確保した輸入牛などその存在も忘れ、凛鈴の肉に貪るように箸を伸ばし続ける。
「あたし、すき焼きはタレの味でごまかせるからって適当な肉使うこと多いんだけど、これはそんなコトしなくていいの、マジで凄い!」
「ふふ、若い個体なのに加えて、鮮度もよく、それでいて熟成も進んだ逸品ですもの。やはり、あなたは才能があるわ」
凛鈴はそう言うと、沙那の夫や子どもにまで気配りを見せつつ、にこやかに肉を提供し続けた。だが、目はどこか鋭いままだ。
沙那の夫は、出された肉の柔らかさと味わいに思わず言葉を失い、娘はごはんをかき込む速度を上げていた。
「……おいしい、って言ってるよ、うちの旦那」
「それは良かったわ。ここまでくれば肉こそ主役よ」
凛鈴は軽く微笑みながら、赤い肉片を自らの箸で口に運ぶ。甘い、濃い、旨みが強い。そして、火を通してもなおどこか“生”を感じさせる。
“命の断片”のような食感。血の温度が舌に残る。
ただのすき焼きとは違う。そこには、誰にも気づかれぬ秘密が隠れていた。
”その味わいは命の饗宴、命の味”
肉の出どころを考えたら足が止まりそうなものだが、野崎家の面々はそんなことは知らない。留まる気配は微塵もなかった。人間、満たされていれば真実などどうでもよくなる。
最後に残った野菜と、鍋の底に沈んだ割り下の甘辛いエキス。
沙那はうどんを放り込み、家族みんなで満腹そうな顔を見せていた。
「は~、食べた食べた。さすが羽鳥さん、良い肉持ってる!」
「そう。……また作る機会があれば、今度は別の部位も試してみるわ」
その言葉に、沙那は深く考えることもなく笑って頷く。
「またよろしくね~!」
凛鈴は応えず、微笑みだけを残してその場を後にする。
──そしてその日、野崎家の冷蔵庫にあったはずの輸入牛肉パックは、こっそりラップされて残され、持参した肉はすべて鍋に消えた。沙那は何も疑わず、家族全員が満足していた。
食べきれず残った特製の肉もそのまま冷蔵、輸入牛の存在を更に奥へと追いやる。
凛鈴にとっては、それで十分だった。
──今日もひとつ、命を食卓に昇華させた。
鍋の中身と同じように、心の温度もじわじわと熱くなる。
皆で汗だくになりながらもつついた鍋のその奥の、割り下の甘い香りが、肉の秘密に蓋をして。
そんな秋もまだまだ遠い夏の日のすき焼きだった。




