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第三十四話 花火よりも赤く、そしてきらめく


 涼しさを帯びた風が、古びたアパートの裏庭に静かに吹き抜ける。

 しかし、そんな風では冷やされない熱気がそこにはあった。

 日が傾きかけた夕暮れの庭先で、凛鈴はひとり、炭火の前に立つ。


 うちわで扇がれるたびに、赤々とした炭がぱちりと音を立て、細く白い煙が立ち上る。空は淡い茜色に染まり、遠くから誰かの笑い声と、断続的な子供の叫びが風に運ばれてくる。


 日暮れとともにひぐらしが鳴き、風に揺られて漂う風鈴の音。

 どこにでもある夏の風景──に、見えなくもない。


 その傍らに並べられた肉もまた、少しばかり“普通”ではないものだった。


 長めの竹串に刺された、薄切りの肉。だが、明らかに一種類ではない。脂の層が層になっている部位、淡く筋が入った細長い部分、肉厚で中心がほんのり赤い部位、あるいは血の滴るような臓物部位……。


 少なくとも、ひとつの個体から採れたとは思えない形。


 しかもその中に混じる、白子に似たふるふると柔らかなものや、銀皮のような反射を持つスライス状の物体。内臓のような、それでいてどこか肉の規格を外れた素材たちが、唐突に混じっていた。

 それが何を意味するかは、凛鈴のみの知るところである。


 その味付けはシンプルだった。塩と胡椒、レモンの皮、刻んだローズマリーをまぶし、ほんの少しの醤油と蜂蜜。焼き始めるとすぐに甘じょっぱい香りが立ちのぼる。


「……今日のは、ばらけやすいわね」


 火にかけられた串は、庭のグリルの上でジュウと音を立てながら滴る脂で炎をあげ、煙をまといながら焼き色を深めていく。



 ──串焼き。そして、ビール。

 それが今夜の献立だった。


 だが、ただの焼き鳥ではない。

 彼女の手にかかる時点で、その“肉”が常軌を逸した出処であることは言うまでもない。


 凛鈴は今日、あえて「部位ごとの違い」に執着した。

 食感、脂の乗り方、火の通り、噛み応え、香ばしさ。

 そして、それに合うビールの選定。

 ただ美味いだけの料理ではなく、命の解像度を上げる“儀式”としての串焼き。


 何本も串を持ち替えながら、火加減と焼き具合を調整し、凛鈴は淡々と肉を仕上げていく。手際はまるで屋台の老職人のように迷いがない。


 だが、それは日常ではありえない素材と、静かな凶気に裏打ちされた「日常」であった。


 焼きあがった串をひとつ手に取り、口元へ運ぶ。噛むと、脂が弾け、舌の上で甘さと旨味が絡み合った。


「うん。火加減、完璧」


 炭火の香り、蜜の甘み、肉の鉄分。


 それらが織りなすのは、幼い頃の祭りの屋台では絶対に味わえなかった、複雑で深く、わずかに生臭さの残る“夏の味”。


 まずは〈肩肉〉。

 細い筋と脂肪が入り混じるこの部位は、香ばしさを引き立てる塩と山椒で。

 炭の上で焼かれた肉から滴る脂が炎を煽り、焦げた香りが立ち昇る。

 一口、噛む。

 じゅっと弾ける脂が、口腔を一瞬で満たす。


 その余韻を、キンと冷えたピルスナーで洗い流す。

 苦味は穏やかに、だが確実に、血の記憶を薄め、爽やかで喉越しがよく、後味がすっと消えていく。


 次は”ハツ”──心臓。

 コリコリとした歯応えが魅力の部位。

 ガーリックを軽くまぶし、醤油で焼き締める。

 口に含めば、弾力の中から鉄分を含んだ濃密な旨味がじわじわと染み出す。


「……うん、これはポーターで」


 甘さが強い黒ビール。香ばしい濃く、苦く、焦げたような香り。喉を通るたびに、炭のような渋みが舌を包み、麦芽のその複雑な味わいが肉の後味に寄り添う。


 ”モモ肉”は定番。

 その滑らかさとジューシーさは、焼き鳥の王道であると同時に、最も“素材”の鮮度が問われる部位。

 塩だけで炙ったそれは、噛むほどに汁気が溢れ、仄かに甘い。


 この瑞々しさには、柑橘香るホワイトエールを合わせる。

 軽やかで、オレンジピールとコリアンダーの爽やかさが、まるで花の咲く午後のような錯覚を舌に与える。果皮の苦味がモモ肉の甘みに対比を生み、口の中で夏が弾けた。


 そして〈レバー〉。

 鮮度の証として、芯はほんのり赤く。

 表面はカリッと焼きつつ、中はとろりと蕩ける。

 重く、濃く、妖艶な味わい。


「これは……いい赤だわ」


 苦味が強いIPAインディアペールエールで一気に流し込む。

 強烈なホップの暴力的な苦味が、歯茎にまで染み渡る。パイナップルや松脂のようなトロピカルでスパイシーな風味が、まるで殴りつけるように口の中で暴れ、血の濃さとせめぎ合い、舌の感覚をリセットしてくれる。


 最後の串は、”タン”。

 人間にとって“味わう器官”であるそれを、あえて食材として味わう皮肉。

 薄切りにしてネギと共に串打ちし、レモンと塩で焼く。

 歯を押し返すような独特の弾力と、仄かな苦味がある。


 この潔い塩味には、クラフト系のセゾンビール。

 どこか牧歌的で、でも乾いた酸味と酵母の野性味が混ざり、落ち着いた印象と不穏な後味を残す。複雑でスパイシーな香りが舌に残り、味の記憶を曖昧に溶かしていく。


 ひと串、またひと串。

 命の部位を順に味わい、異なるビールで流し込む。


 まるでそれは──

 “解体した命の記憶”を、部位ごとに再構築するような儀式だった。


 香ばしい煙。

 脂とタレの焦げた甘い香り。

 ビールの泡と、血の滴が、食卓の上で静かに混ざり合う。


 やがて串はすべて食べ尽くされ、空になったグラスが静かにテーブルに置かれる。


「……いい組み合わせだったわ」


 満足げに目を細める凛鈴。

 その目に映るのは、空になった皿でも、ビールのラベルでもない。


 ──それぞれの部位が、命だった頃の形を想像しているのだ。


 部位の個性。噛み応え。香り。脂。

 それら全てが、「生きていた証」に思えてならない。


 そしてそのすべてを、料理という形で“受け入れる”自分自身。


 凛鈴にとって、料理とは追悼であり、崇拝であり、征服でもあった。


 だから今日もまた、

 彼女は命を焼き、酒で流し込み、静かに舌なめずりする。


 ──串の数だけ、命の証がある。


 ふと空を仰ぐと、夕焼けが紫へと染まり始めていた。風が少し涼しくなり、どこかで小さく破裂音がした。


 ──ぱんっ。


 次の瞬間、夜空の一部が一気に明るくなり、彩りの輪が開いた。


 花火だった。


 どこかの町内会か、近所の催しか。高くはないが、しっかりと夜空に広がるそれは、音と色とを伴って夏の匂いを運んでくる。


「……もう、そんな季節」


 凛鈴は静かに、串焼きを口に運びながら、花火を見上げた。


 焼けた肉の香りと、炭の煙と、火薬の匂いが混じり合う。


 それは、何かを弔うようであり、何かを祝うようでもあった。


 煙の向こう、次々と咲いては消える光の花の中で、凛鈴の瞳だけが変わらず、冷たく、澄んでいた。

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