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第三十二話 包まれたもの、隠されたもの

 長雨が地面を叩き続ける午前の時間。

 鈍い灰色の光が台所の窓から流れ込むなか、凛鈴(リズ)は無言で包丁を走らせる。

 目の前にある肉ではなく、まだ届いていない“それ”に神経を集中させながら。そしてしばらくするとインターフォンの音が鳴った。


 即座に手を止め、手早くエプロンの裾で指先を拭いながら玄関へと向かう。扉を開けると、いつもの配達員が、どこか腫れぼったい目で立っていた。赤みを帯びた白目が、忙しさと疲れを物語っている。


「……はい、いつものお届け物です」


 いつもながらに気だるげな声で差し出された保冷箱の数々。凛鈴はそれを浮かれそうな気を抑えつつ受け取ると、何か言いたげな男を一瞥する。


「……なにか問題?」


 珍しく、凛鈴は彼に問う。そしてその口から紡がれた言葉も珍しく、若干の愚痴混じりなものだった。


「問題、ね……仕事自体はいつもと変わりはしませんよ。ええ。ただ、……まあ、深夜から“現場”に行って、手早く済ませて、運んで。待機時間挟んでこの時間なんで、さすがに堪えますね。一晩で全部やったのは久しぶりですが、流石にこのスケジュールは辛いッス。まぁ、文句言うほどでもないんでいいですが」


 一通りぼやきつつ、中身が見えていないだけマシか、と胸中でで付け加える。そんな彼の様子を凛鈴は黙って聞いていた。その目は穏やかだが、表情は読めない。


「……事情は何もかも包み隠されてってのも限界あるよなあ、ある程度は察せるし」


 そう言って、彼は片手を軽く振って帰っていった。あくまで彼は運び人。依頼主の真意や事情などは聞かされていないし、聞くべきではない。それはわかる。

 だが、隠すなら余計な背景も丸ごと隠し通してほしい、というのが彼のほんの少しの望みだろう。


 凛鈴はそんな彼の背を見送りながら、小さく呟いた。


「包む、か……」


 その言葉が、妙に心に残った。


 ---


 包む。覆い隠す。何かを内に秘め、表からは見えないようにする。


 何かを隠す、という行為には、時として無意識の願望が滲む。


 口に出せないもの。目に見せられないもの。形として晒すには、まだ早すぎるもの。


 届けられた後、冷蔵室の中で静かに眠る肉を想って、凛鈴の目が細まった。


「……そうね。丁度包む料理をしたいと思っていたの。今日のメニューは決まったわ」


 凛鈴の手は、まるで包みをほどくような所作で、冷蔵庫からパイ生地を取り出した。


 それらをひとまず包んで、封じて、熱を加えて、やがて開く瞬間を待つ──そう、“ウェリントン”のように


 静かに、しかし情熱を秘めて凛鈴は台所に立った。


 早速取り出され、その手に握られたのは、艶やかで重たさのある赤身。フィレのように見えるが、どこか不自然に艶がある。


 流石に熱は残っていないが、捌きたての肉にはそれなりの楽しみ方がある。

 熟成が足りないのなら、それを補う調理を心がけるだけだ。


 肉に塩と黒胡椒を擦り込み、バターで表面を手早く焼き固める。外は焼き色、中は生。まるで中身を守る鎧のように。


 次に取りかかったのはデュクセル──きのこと香味野菜を細かく刻み、香草と共にバターで炒めたペーストだ。


 鍋の中から、じっとりと湿った香りが立ちのぼる。それは腐敗ではない。生と死の境をかすめるような、密やかな香気。


 そこへ加えたのは、さきほどの肉に付着していた、少量の赤い液体。


 血のようでいて、どこかそれ以上の、何か。捌きたての証。 


 パイ生地を広げ、デュクセルを塗りつけた時、彼女は一瞬手を止める。

 赤黒いペーストが、まるで血と泥のように肉を覆い隠すさまは、まるで“証拠の隠蔽”のようだった。

 そう思うと、彼女の指がほんの少し震える。


 薄く焼いたクレープで肉を包み込み、すべてを一体に重ねていく作業は、まるで繊細な外科手術か、秘密を一枚ずつ覆っていく儀式のようだった。


 最後に、生地で全体を包み込み、封印のように綴じ目を閉じる。表面には卵黄を塗り、繊細な切れ込みを入れて装飾を施す。


「……さて、焼き上げましょうか」


 オーブンへ送られたそれは、彼女の中ではすでに“料理”ではなく、“形”を持った思考だった。


 誰にも見せたくない中身。けれど、それを隠しきる技術と情熱があれば、全ては「美しい」として受け入れられる。


 それが、凛鈴の信念だった。


 焼きあがったパイは、香ばしく膨らみ、金色に輝いていた。

 パイは誤魔化しが利かない。中に仕込まれた具材がどうであれ、表面は常に黄金色の均一な美しさで焼きあがる。まるで、すべての罪をなかったことにしてくれる聖なる衣。


 けれど凛鈴にとっては、それこそが魅力だった。


 包みの中にあるのは、きっと“誰にも見せられないもの”。

 だが、見た目は──きらびやかで、豊かで、魅惑的。


 刃を入れれば、サク、と繊細な音を立てて表面が割れる。その奥から、熱を帯びた蒸気と共に、赤い肉の断面が覗いた。


 それは、たしかに美しかった。


 一口運ぶ。


 表面は香ばしく、中の肉は柔らかく、血と脂が舌の上で溶ける。


 デュクセルの深い香りが鼻腔を満たし、重厚な旨味が喉へと滑り込んでいく。


「……ふふっ」


 ふと、凛鈴の口元が緩む。


「包めばいいのね。何もかも、全部」


 包みの中にあるのは、きっと“誰にも見せられないもの”。

 だが、見た目は──きらびやかで、豊かで、魅惑的。


 ビーフウェリントン風、英国式のパイ包み焼き。


 彼女にとって料理とは、自己の一部を差し出すことではない。世界を整え、真実を隠し、すべてを“美味”として提供する手段。


 まるでこの料理こそが、凛鈴という人物の本質をそのまま示しているようにさえ見えた。


 ──隠す、魅せる、焼き上げる。


 その一連の流れこそが、彼女の日常であり、人生であり、行為そのものだった。


 今、目の前にある料理がそれを証明していた。


 そして彼女は、もうひときれを切り分ける。


「中身は──秘密。でも、美味しいわよ」


 誰に語るでもない一言を残して。


 テーブルの向こう側に、もう一つ皿が用意されていて。

 ただし、そこに中身はない。ただ、グラスには赤いワインが注がれている。

 誰が座るのか。彼女は言わない。

 けれど、それを“包む”ための用意だけは、もう整っていた。


 それは、まるで誰かに分け与えるような、優しい所作だった。


 だが、もちろん──


 それを誰が口にするかは、彼女以外は知らない。

 

 ──包む、ということは。


 過去を封じ、現在を焼き固め、未来を食すこと。


 だから彼女は、今日もまた。


 命を包み、焼き上げ、それを喰らう。

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