第四話 改めて招かれる肉
隣家が留守であることを確認して、羽鳥凛鈴は小さく安堵の息を吐いた。
しかし、目の前にあるボストンバッグ――その中身を想像するだけで、次の溜息が自然と漏れ出る。
「……未加工なの? こんな状態で持ち込まれても困るのだけど」
「でも、なんとかしてくれるんだろ? 頼むよ!」
男は図々しくも当然のように言い放つ。
凛鈴は盛大に息を吐くと、壁にかけられたレトロなデザインの電話の受話器を取り上げ、どこかへ無言のまま番号を押す。
そして次に、調理中だったオーブンの様子を確認。温度と時間に問題がないことを確認し、一度火を止めた。このまま予熱で仕上がるだろうと判断すると、ようやく視線を男と“その荷物”に戻す。
しばらくの沈黙のあと、凛鈴はエプロンを巻き直し、まるで気乗りのしない課題に向き合う学生のような気配で床へしゃがみ込む。
「……手持ちの道具じゃちょっと厳しいんだけど……全く、面倒なことね」
そうぼやきながらも、キッチンの床にブルーシートを敷き、使い慣れた複数種類の包丁やノコギリ、ハンマーを並べ、慣れた手つきで作業を始めた。
血抜き。皮剥ぎ。内臓の摘出。
どれも即興とは思えない手際の良さで進み、面倒だと口した凛鈴の表情には僅かな苛立ちと、微かな陶酔が交錯していた。
ちなみに、その面倒を持ち込んだ男と言えば、目の前で繰り広げられる凄惨な作業の光景とむせ返る臭気に気分を悪くし、早々に調理場から離れ、ダイニングへと避難している。
無責任にも程がある、と少しばかりの批難をしたところで彼女はそのまま作業を続けた。
「あら、時間だわ」
そうしてしばらく作業を続けていた凛鈴だが、タイマーの音に気づくと、一度作業を中断する。
並行して仕込みを続けていた料理が最終段階に入った報せである。
肉の解体で汚れた手を石鹸で綺麗に洗い、オーブンの扉を開く。
同時に立ち上がったスパイスと肉の焼けた香ばしい香りが彼女の鼻腔を擽り、一気にその様相を崩す。
恍惚ともいえる表情を浮かべながら、久方ぶりに再会した巨大な肉塊の出来栄えに感謝した。
鎮座するのはオーブンロースト。しかも普段であればローズマリーにタイム、ニンニク、オリーブオイルなどで下味をつけるところだが、今回は趣向を変えてエスニック仕立てにしてみた。
クローブにカルダモン、シナモンなどのパンチの効いた香りが食欲を誘う。
片や解体作業中、片や調理中というアンバランスな光景と、立ち昇るそれぞれの臭いと香りが混ざりあって、正に混沌とも言える場だがそんなことは彼女には関係ない。
ミトンを着けて取り出した肉を皿へと盛り付け、一緒にローストした野菜とともに飾り立てる。
焼き上がった肉にナイフを入れ、食べやすいサイズに切り分けると、それを躊躇うことなく口にする。
最初に香る強烈なスパイスの風味、後から湧き出る脂の旨味、繊維を噛み切るたびに広がる喜び。
あぁ、今日も肉に感謝を。
このとき凛鈴の感情の高鳴りは最高潮に達していた。
最高の味わいを得たことにより、作業のモチベーションも持ち直したので、早速再開しようと思い立ったところ、もう1人客がいた事を思いだす。
取り敢えず一人分を皿に切り分け、
「よかったらいかが? 丁度出来たてなの。我ながら自信作よ?」
彼女はそう言いながら、持ち込みをした男のいるダイニングまで皿を持ってきた。
「あ、スンマセン。任せてばかりで。頂いちゃっていいんスか?」
「構わないわ。これ程の出来栄え、独り占めしようだなんて肉に対する冒涜だわ。遠慮なくどうぞ」
「あ、ありがとうございます! いただきやす!」
そして作業を再開し、枝肉からさらに切り分ける。
スペアリブには骨を残そうか、中落ち(肋骨の隙間の赤身)も悪くないけど。
トリミングを考えたらなるべく大きく切ったほうがいい。
こそいだ分がもったいない、これはミンチにしてまとめておこう。
そんな一通りの作業も終わって暫しの時間が経った頃、再びインターホンが鳴った。
再び手を止めた後、扉を開けると、そこに立っていたのは見覚えのある配達員――そしてその横に、黒いスーツに身を包んだ大柄な男がいた。
「このたびは……ご迷惑をおかけしました! まずは、失礼を」
そう言って、スーツの大男は深く頭を下げると、そのまま部屋へと上がり込む。
解体作業後の惨状からは直視しないよう目を逸らしつつ、奥に進めば彼の目当てが見つかった。
「えっ……アニキ!? なんでここに……!?」
招かれざる客が狼狽える。その表情は明らかに、ただ事ではない何かを予感していた。
「それはこっちのセリフだ! お前ぇ、誰の許可でここに来た!? 勝手なことしてんじゃねぇぞ!」
男は一喝すると、乱暴ではないが有無を言わせぬ動きで、若者の腕をとった。
「す、すいません! ……この始末は、後日きちんとつけさせていただきます!」
スーツの男はそう言うと、凛鈴へ向き直って深く頭を下げた。
「……包丁の刃が欠けた。今日の“作業”で。これお気に入り」
凛鈴の手に逆手で握られていたのは肉厚の包丁。その一部に切り欠きが入ってしまっているのが遠目にもわかる。
「もちろん、そちらもきっちりなんとかいたします。ご不便おかけして、申し訳ありませんでした! オラ、さっさと片付けろ!」
頭を何度も下げると、彼らは配達員とさらに数人の人足で解体の痕跡を綺麗に消し去ってゆく。血痕は拭い去られ、あらゆる痕跡は汚れたブルーシートとともに運び出される。
見事な手際で作業自体あっさりと終わった。
「ねぇ。今日のお肉はもらえるの?」
そうしてそそくさと帰ろうとする大男に、凛鈴はそう尋ねる。折角頑張って仕上げたのに、目の前で取り上げられてはたまらない。
その肉の行方がどうなるのかは彼女にとっては由々しい問題だ。
「もちろんです! ただ、一度持ち帰ってもよろしいですか? こちらも処理しなきゃならんことがあるので! もちろん、一欠片も残さずお渡しすることは約束しますので!」
「ん、仕方ない。絶対だよ?」
だがこの大男は話が分かるようだった。
一旦取り上げられるのは業腹だが、必ず再度届けると約束したのでそれ以上は追及しないことにしたようだ。
時間が空くということはそれだけ熟成も進む。味が良くなるのならと自分を納得させる。
そして黒服の大男は最後、配達員達とともに、若い男を引きずるように連れてアパートから姿を消した。
---
数日後。いつものように冷蔵便が届いた。
片方は凛鈴が手ずからに処理をした肉。約束通り、すべての可食部位がそろったセットパックだ。
そしてもう一つ。こちらの中身は赤身の多い部位。すでに処理され、真空パックで美しく仕上げられていた。
ついでに、先日刃毀れしてしまった包丁も綺麗に研ぎ直された状態で同梱されていた。
更におまけで今回はご丁寧に小分けされたテイスティングパックまで付けられている。
それをひとつ取り出し、凛鈴は手に取って眺めた。
肉の色。張り。パウチを開けてみれば芳しい匂い。全てが彼女の眼と鼻に伝わってくる。
一緒に味見しないか? と配達員を誘ってみたが固辞されてしまい断念。彼の顔色が、心無しかいつもより顔色が悪いのは気のせいだろう。
鉄製のスキレットを中火で温め、薄く油をひく。肉を取り出すと、繊維の流れにそって優しく折り目をつけ、表面の水気を拭ってから、静かに熱した鉄板へ。
ジュッと焼ける音。脂は少ないが、熱の入り具合は悪くない。
片面に軽く焦げ目がついたところでひっくり返し、火を止め、余熱でじっくり中まで通す。
皿に移すと、ナイフで断面を切り開き、深い赤のグラデーションを確かめてから、ひと口。
噛み締め、その味を吟味する。
そしてひとつ、眉を寄せる。
「……よく叩いてある。柔らかいけど……餌が悪かったのかしら? 薬みたいな雑味がある。食感的には若い肉ね」
そう言って残りもゆっくりと口に運び、あらかじめ用意しておいたワインをひと口含む。
グラスの縁をなぞるように親指を滑らせながら、静かに呟いた。
「でも、こういうのもまた味わいの一つ、なのかもしれないわね」
多少の雑味はあれども肉質は良く、脂が少ないぶん調理の幅は広い。日常的な味付けには扱いやすいだろう。
癖を消せば、むしろもっと化ける可能性もある。
彼女の舌はこれは“受け入れられる”部位だと判断した。
開かれた窓の側で、カーテンが風に揺れる。
日が傾き始め、影が長く伸びてくる。
凛鈴は皿を片付け、冷蔵庫からワインをもう一本取り出した。
静かな口調で、ひとりごとのように笑う。
「さあて……晩餐の準備をしなくちゃ。おすそ分けも含めて――ね」