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第二十九話 命の色は

 朝から晩まで小雨が降り続いていた。気温も低く、台所の小窓から差し込む光さえどこか鈍く沈んでいる。


 そんな日だった。


 今日も今日とて羽鳥(ハトリ)凛鈴(リズ)は、静かに、黙々と台所に立っている。鬱々とした気候もどこ吹く風、完全に平常運転である。


 特に何かの記念日でもない。ただ、目に留まった一冊のレシピ本と、棚の奥で眠っていたスパイスの匂いが彼女を調理へと突き動かす。


 ――ソーセージプディング。


 イギリスの伝統料理にして、内臓と血を用いた古風な保存食。そして凛鈴が、改造と改悪を施して、自分だけの“命”を閉じ込める器。


 材料の中でも主役になるのは、ブラックプディング、所謂ブラッドソーセージ。

 彼女の手元にあるのは、いつもの……特別な肉で作られた血腸だ。


 いつもの配送なら血抜きが完璧に施されているため、料理に使うほどの血などは得られない。

 しかし、先日の荷物の中にはご丁寧に仕分けられた状態で血液の入ったボトルが紛れ込んでいた。


 なぜそんな事になったのか、その理由は凛鈴には関係ない。

 そして手元に来た以上は手を加えて料理に消化させるのが礼儀だろう、総判断して気まぐれに作られた一品だ。


 だが、もちろんそれはそれは何も手抜きの料理、というわけではない。

 むしろ並々ならぬこだわりを込めて作られている。

 それは彼女が手にしたソーセージに文字通り"色濃く”現れている。

 燻製と熟成の工程を経てなお芯に赤みを帯び、いっそ艶めかしく、見る者の倫理観に直接触れる。


「……いい色」


 冷たい厨房に響く、独り言のような声。


 ”赤い”ということに、凛鈴は特別な意味を感じていた。


 血の赤。肉の赤。火にかけることで失われる、生きていた証の色。

 それがまだ温もりを残していたときの、命そのものの鮮烈な色彩。


 凛鈴にとって、それは色であって色ではなかった。

 輪郭のない感情であり、執着であり、証明であり、そして祈りだった。


 だから今日、彼女は“赤を保ったまま仕上げられる料理”に取り組む。


 思い返すだけで、胸が熱くなる。


 それは、単に混ぜて詰めた腸詰ではない。


 凛鈴はその赤を保つために、肉体の構成を吟味し、血液の粘性と鉄分を管理し、最終的に――“焼く前に一酸化炭素を満たした密室で、ソーセージにガスを浴びせた”。


 一酸化炭素は、肉の中のミオグロビンと結びついて、鮮やかな赤を固定する。


 だがそれは同時に、人の命も蝕む毒。


 彼女はガスを浴びたあと、扉を開けるときに、息を止め、素早く換気扇を回し、白い煙の中に手を伸ばしてソーセージを引き出した。


 それは、まるで業火の中から命を奪い返すような儀式。


「……これは、誰にもできない。誰にも、させられない」


 自分の命を削って仕上げたソーセージ。

 赤は、その証だった。


 そうした特別な工程を経たソーセージは、しっとりと濡れたような深紅の艶を湛えていた。


 それを薄くスライスし、細かく刻み、さらに粗挽きの肉とラードと合わせる。


 パン粉とミルク、卵。ナツメグ、タイム、セージ。

 混ぜるたびに、血の赤が全体に浸透していく。


「命の……かけら。……しずく」


 ぽつりと声を漏らしながら、無心で混ぜていく。

 指先には、血の粘度に似たぬめりが絡みつく。


 それを耐熱容器に詰め、表面をあらかじめスライスしておいた特製のベーコンで覆う。

 脂の網で閉じ込めるように、命の断片を守る。

 そしてオーブンへ。蒸気を満たした熱の中へ送り出す。


 その焼きあがる間、彼女は赤ワインビネガーと粒マスタードでソースを作り、リンゴとじゃがいもの付け合わせを炒める。


 ベーコンの脂と血の香りが混じり合い、甘い金属臭が立ちのぼる。

 その匂いに、彼女の目が細められた。


 それは過去の情景――遠くにいたあの人、そして何かが焼かれた匂いによく似ていた。


 やがて、プディングが焼き上がる。


 焼き上がったそれは、ソーセージプディングというより、まるでトード・イン・ザ・ホール。穴の中のヒキガエル――イギリスの奇妙な名の料理に酷似していた。


 取り出して切り分けた断面は、凛鈴の期待通りの“色”を湛えていた。

 鮮烈で、濡れたような赤。

 いかにも今、命が通っていたかのような、熱の残滓を含んだ肉の塊。


 ひとくち。


 口に含んだ瞬間、血の鉄分と脂の甘みが溶け合い、スパイスの刺激が脳髄を穿つ。

  常人ならばためらい、顔をしかめるであろう味に、彼女の舌は歓喜を覚えていた。


 ふたくち。


 柔らかくて濃密で、なのにどこか生々しい味。

 それは、決して火を通しただけでは得られない、生き物としての“重み”。


「……この煌めき、焼いても消えないのね」


 赤は、そこにあった。

 死してなお、命を主張するように。

 グラスに注がれたワインの赤と共にそのコントラストを演出する。


 皿の上に残った赤い肉汁を、指ですくって舐める。


 血の記憶と、肉の温もり。

 それを食すことでしか、癒えない渇きがある。


 ――そうして、今日もまた。


 凛鈴は、命の色を喰らって、生きていく。

 

 窓の外ではまだ、霧雨がそっと降り続いている。

 皿の上には、赤い残滓だけが静かに残っていた。

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