第三話 招かれざる肉
配達指定時間。人によっては待ち遠しいものかもしれない。
通販でも贈り物でも、それがこの日に届くと分かっていれば誰しも到着を待ちわびるものかと思う。そしてそれは彼女も同じようだった。
羽鳥凛鈴の朝は早い。前日に仕込んだ肉料理を絶好のタイミングで調理する必要があるからだ。
最高の1日は最高の朝食にあり。それを実践するために朝日とともに起き、身支度を整え調理場へと向かうのが彼女の日常である。
しかし、今日は様子が少し違う。起床の時間も身支度も済ませてあるが、朝食は手早く済ませるためにバゲットにリエットを合わせ、テリーヌ・ド・カンパーニュにブルゴーニュ煮込みというフレンチをキメている。これらは事前の仕込みでほぼ完成なので、テーブルに並べる前に軽く温めるだけでいいのである。
全てはこの日、配送の受け取りのために前日、あるいは前々日からの下準備をしたうえで、今日という日を迎えるためである。
そして定刻となり、インターホンが鳴った。
「あぁ、来たのね、来たのね!?」
そして言うやいなや、彼女は飛び跳ねる勢いで玄関へと向かう。
間取り的にそこまで広くない部屋ではそこまで急いだところで大差はないかもしれない。しかし、彼女はその一瞬さえも惜しいと言わんばかりに玄関の扉へ張り付き、勢いよくその扉を開くのだった。
「……お届け物です」
そこにいたのは無愛想で不健康そうな、くたびれてはいるが、汚れのないツナギの作業員風の男だった。
横には台車と段ボール。クール便と札が張られていることからナマモノであることが分かる。
もっとも、受取人はそんな推測をしなくとも理解しているようで、
「お肉! きた!」
と狂喜乱舞の様相である。そんな奇行めいた女の対応も慣れているのか、男は無言で台車を押し、玄関へと入っていく。
「……いつも通り冷蔵庫へ?」
「うん! お願い!」
言うやいなや彼女はすでに段ボールの開梱作業にかかっている。続いて男も箱を開けて中身を取り出し始める。
「モモにバラ、ハラミにスペアリブ、ランプに肩ロース、シマチョウ、マルチョウ……ハツは無いの? あ、フワも無い……」
いくつかの部位が無かったことに今度はこの世の終わりのような、泣きそうな表情を見せる凛鈴。
「……そちらは他に買い手がつきまして、今回は欠品です。そのかわりマメとレバーはあります」
そんな様子のおかしい女のことなど気にかけることもなく、男は淡々と事情を説明する。彼にとってはこんなリアクションも毎度のことなのでいちいち気にかけることはなかった。
「それじゃ売れ残りじゃん〜? そんなの美味しいの?」
「味の保証までは致しかねます」
「……ま、血抜きの腕を信じるわ」
そう言って彼女は真空パックされたいくつかの肉を、昭和の残り香漂うアパートにはやや不釣り合いな業務用の巨大な冷蔵庫へ放り込む。
すでにかなりの量の肉が詰め込まれているが、うまいこと隙間を見つけては差し込むように入れていく。
「……少し詰め込みすぎでは?」
「だって、最近多くない? 食べる量より届く量が圧倒的に多いんだもん。しかも希少部位は入ってないことが多いしさ」
「仕入れにも都合があるようですが、流石にこれは問題ですね。一応進言しておきます」
男も、彼女が食べる量が異常なのは分かっていたが、その彼女が持て余す量というのもまた異常だと判断しそう告げる。
「あ、別にどっちでもいいよ。お肉はいくらあっても困らないもの」
しかし、多い事は特に気にしていないのか彼女は事も無げにそう話す。
たとえ冷蔵庫から溢れても、燻製にしたり乾燥させたりであの手この手で保管することをこの女は思いつくのだろう、と男は判断した。
とは言え、溢れたり腐ったりはさすがに困るので、
「……進言しておきます」
とだけ返すのだった。
しばらくして、ようやくすべての箱を開梱し終わり、中身もなんとか冷蔵庫に詰め切ったところで、男は次の仕事を始める。
調理場の隅にあった黒いごみ袋を自身の持ってきた段ボールへ無造作に突っ込み、片付ける。
「……今回は少ないですね。何か問題が?」
「今度ラーメン作るの。スープの出汁にゲンコツ使おうと思って」
「わかりました。……出汁がらは次回に引き取りますので」
そう言って男は段ボールを完全に密封する。忌々しいものに蓋をするかの如く、異臭を漏らさないように。
「……お世話になりました。またよろしくお願いします」
覇気のない声で閉められたドア前に一礼すると男は来たときと同じように段ボールを載せた台車を押してアパートから去る。
これが不定期ながらも彼女の日常となった風景である。
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ピンポーンと呼び鈴が鳴る。予定のない来客に首を傾げるが、そんなものに付き合う義理はないと言わんばかりに凛鈴は無視を決め込もうと決める。
しかし、そんな彼女の意思など知らんとばかりもう一度呼び鈴。
更にノックまで始まりだし、この酷く無作法な来客に彼女は思い切り顔を顰めた。
更に運の悪いことに、ちょうど夕餉の支度を始め、火加減と加熱時間に全神経を注いでいたタイミングでの闖入者だ。
いつも肉を欲しがるお隣さんなら完成したタイミングで現れるし、そもそもここまで切羽詰まった訪問はしない。つまりこれは完全に、招かれざる客ということになる。
いつまで経っても止む気配のない来客の知らせは彼女の集中力を削ぎ、調理に支障をきたす。
失敗などすればそれは肉への冒涜だ。それは彼女にとって決して許されない罪である。
なのでそんな最悪な気分を隠すことなく、来客の相手をするのだった。
「……何かしら。私は今、とても、忙しいのだけど」
ドアを開けた凛鈴の目に映ったのは、金髪スカジャンの若い男。ボストンバッグを抱え、切羽詰まった様子で身を乗り出す。
「すんません! でもここなら何とかしてくれるって聞いたんスよ!」
そう言って必死の表情でそう訴えたのだった。
予想外の来訪者と、予測不能な依頼の気配。
火加減と肉の香りが満ちる部屋に、新たな事件の匂いが、微かに漂い始めていた。