第二十二話 祝祭前夜
午後の陽が傾き始めた頃、キッチンに静かな空気が漂い始めた。
換気扇の低い唸りだけが、微かに空間を満たしている。
窓のカーテンは薄い生成り。風がそれを小さく揺らすと、まるで幕が上がる前の舞台のようにも見えた。
その中央に立つ凛鈴の手元には、何種類もの肉がずらりと並んでいる。
整った姿のバラ肉、赤身の肩ロース、脂の多い背肉。どれも血抜きと熟成を終えた、出番を待つ素材たちだ。
「今日は準備。……たくさん仕込まなきゃ」
ぽつりと呟いた彼女は、まるで誰かに言い訳をするような表情を浮かべていた。
まずはパンチェッタ用の豚バラから。脂と赤身のバランスを見極め、包丁で不要な硬い筋と端を削ぎ落とす。
次いでフォークで表面に穴を開け、味が染み込みやすいように手を加える。
それが終われば、指先でなぞるように肉の表面を撫で、細やかな繊維の方向を確認しながら塩をすり込む。
白胡椒、ローズマリー、タイム、ローレル──香り高いハーブ類を丁寧に散らし、さらに砂糖をまぶす。
充分に揉み込んだなら、全体をラップで巻いて脱気し、熟成庫の奥に慎重に置いた。
後は時折水気を除き、時間をかけて手を入れることで完成だ。
既に美味な予感をさせるそれはとても魅力的に見えるのだが、まずは自身を落ち着ける。
次に取り出されたのは赤身の肩肉。
こちらはソーセージ用。ザクッ、ザクッと切り分けながら、凛鈴はミンサーのボウルに粗挽きの肉を投げ入れていく。
続いて背脂を細かく刻み、混ぜ込む。
肉の比率は、彼女の経験によって緻密に調整されていた。柔らかすぎず、固すぎず、噛みごたえとまとまりの両立を目指す、計算された配合だ。
クミン、ナツメグ、オールスパイス、そして微量のガーリックパウダー。
まるで香水を調合するような手つきで、それらを指先にまぶし、練り込む。
「粗挽きと細挽き、半々くらい。……これがいちばん、食感が立つのよ」
羊腸は前夜から塩水に浸しておいたもの。ぬめりを取り、流水で丁寧に裏返し、匂いを抜く。
そこから先は、もう手馴れた流れだ。
肉を絞り袋に詰め、腸に通し、絞り、ねじる。絞り、ねじる。
ぷつり、ぷつりと分かれるソーセージたちが、規則的な形で並んでいく。
れらは翌日に燻製され、それぞれの形へ更に進化していくことになる。
「皮なしも……ついでに作っておきましょうか」
一方で、残った肉を円盤状にまとめ、空気を抜いて真空パック。こちらはつみれ風、あるいはハンバーグ状にも使える。
“誰かに食べさせる”には、少し優しすぎる形。
このあと密封したまま加熱することで旨味を閉じ込めてやれば完成だ。
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冷蔵庫の下段から、ブロック肉を脂ごと取り出す。
リエット用の下処理だ。
肉と脂を細かく切り分け、低温でじっくりと加熱する。
じゅわりと染み出す脂を丁寧に漉し、余熱で柔らかくなった肉繊維を潰していく。
「……これは、冷やす前に塩を混ぜて。最後にオリーブオイルで香りを閉じ込めて」
指先でなぞるように練り込まれた肉は、やがて柔らかく、ペースト状に整えられていった。
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夜の帷が降りて、すっかり日もくれた頃。ようやく一通りの作業が終わり、彼女はその手をとめた。
凛鈴は手を洗い、ふぅと肩の力を抜いて椅子に腰を下ろす。
腹が鳴った。
そうだった──食べていない。
けれど、今から肉を口に運ぶ気にはなれない。
彼女にとって、これは「祈り」なのだ。
次に口にする“肉”を、最大限に美味しくするための──下拵えと静かな“断ち”。
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戸棚から、ふんわりしたブリオッシュをひとつ取り出す。
冷蔵庫から自家製のスライスハム。粒マスタードとバターを薄く塗り、パンにはさんで軽く潰す。
紅茶は浅く、ミルクなしで。
ジャムやピクルスには手を出さず、ただそのまま口に運ぶ。
──しみじみ、美味しい。
なのに、物足りない。
脳が、舌が、喉が、胃が。
「肉のうまみ」を欲している。
さっきまで仕込んでいたあれ。脂と血の記憶。スパイスの余韻。香りの予兆。
凛鈴は、空のマグを見つめながら、そっと呟いた。
「……足りない」
仕込みの終わった肉たちは、開演のという至福の時に備えて、雌伏の時を過ごす。
今手を出してしまっては、それは活躍の場を奪うことに等しく、それは肉に対する冒涜である。
さりとて、新たに手の込んだ調理をするほどの気力もなく、空腹感を前にして途方に暮れる凛鈴。
「……せめて、おかわりをしよう」
再びブリオッシュを取り出し、ハムを載せてからそれをちびりちびりと少しずつ齧り、ゆっくりと噛み締めながら咀嚼し、嚥下する。
だが、どれだけゆっくりと食べ進めたとしても、それはあっという間に無くなってしまい、満たされぬまま食事を終えることになった。
「……お腹すいた」
結局、彼女はそんなつぶやきを残して寝床に潜りこむ。
眠って起きて、時間が経てばより良い料理が出来上がっている。その出来上がりを目の当たりにすることで、さらなる喜びに出会えると信じて。




