第二十一話 甘く、そして獣のように
朝から曇天。
午後になっても空は灰色のままで、じっとりとした湿気の混じる風が台所の窓から入り込む。
「……たまには、甘いものが食べたい」
気だるげな空気の中、何気なく呟いた声は、誰に聞かせるわけでもない。
そんなこの鬱屈した空気の中で彼女、羽鳥凛鈴が発した言葉。心の奥底で混ざり合い、行き場を失った欲求の一部が漏れ出たものなのかも知れない。
どうにも気が乗らず緩慢な動作のまま、なんとか立ち上がってエプロンを身につける。そのフリルの端を軽くつまみながら、戸棚の中を見回していた。
粉類、砂糖、ハーブにスパイス。冷蔵庫にはバター、クリームチーズ……ベーシックな材料はある。
けれど彼女の目が求めているのは、もっと別のものだ。
「でも、ただのスイーツじゃ足りない……そういう気分なの」
ため息とともに、冷蔵庫の中から出されたのは、処理済みの“肉”だった。
それはチレ(脾臓)。やや暗赤色を帯びたそれは、独特の風味と舌触りを持ち、他の臓物よりもしっとりとしていて、独特の鉄っぽさを漂わせている。通常ならスープか煮込み料理に回されるような、それでいて癖の強い臓物。
だが凛鈴の目は真剣だった。
むしろ、この複雑な味わいこそ、甘味と融合させる価値がある。そう思えてならなかった。
「ふふ、やっぱりこうでなくちゃ。肉がなきゃ駄目よ」
まずはチレを下処理する。
鍋にたっぷりの湯を沸かし、ローリエとセージを加える。そこへチレを数分くぐらせて血抜きをしつつ、ほんのり香りづけ。
次にフライパンでじっくりと表面を焼く。余計な脂を飛ばしながら、スパイスの下味をつけていく。クミン、ナツメグ、ほんの少しのシナモン。
「香りは大事。甘味と香辛料で、動物性を丸ごと包み込んで……」
焼き上がったチレを冷まし、フードプロセッサーで細かくペースト状に。ねっとりとした質感が、まるで濃厚なチョコレートのように見える。
クリームチーズと生クリーム、グラニュー糖、そしてチレ。
焼き上がる直前、表面に軽く焦がしキャラメルを垂らし、ほのかな苦味を加える。
別のボウルでは、常温に戻したクリームチーズとサワークリーム、生クリーム、砂糖を撹拌しておく。
そこへ、チレペーストを少しずつ加えながら混ぜる。色味は少し鈍いが、チーズの香りに包まれたチレのコクがどんどん溶け合っていく。
「これで、違和感のない味に……いえ、“違和感こそが持ち味”って言ったほうがいいかしら」
卵を割り入れ、小麦粉をひとさじ。最後にバニラエッセンスをほんの少し。
そうしてしっかり混ぜ合わせた後は、味をなじませるために冷蔵庫で寝かせて、この行程は一旦終わり。その間に凛鈴は手を洗い直して冷凍庫を開ける。
次なる実験は、――ミートアイスクリーム。
バニラビーンズを裂いて牛乳に加え、弱火でじっくり温める。そこに生クリームを注ぎ、砂糖を加えてベースを作る。
火を止めたあと、冷ました卵黄を加えてゆっくりと混ぜながら再加熱。とろりとしたカスタードベースが出来上がる。
彼女はそこに、細かく刻んだ“燻製肉”を加えた。
塩漬けして軽くスモークをかけた薄切りの肉を、わずかに脂の残る状態で処理し、細かくミンチ状に。
甘い香りと、しっかりとした肉の香ばしさが、静かに混ざり合っていく。
「甘いだけじゃ舌が飽きる。だから、塩。だから、肉。私にとって、甘さは“味の引き立て役”なの」
混ぜた液体を冷却ボウルに移し、冷蔵庫で冷やし、30分おきに取り出しては木べらで撹拌。
結晶を潰しながら、滑らかさを生み出すために、何度も、何度も混ぜる。
途中、ひとさじすくって味見してみる。
「……いいじゃない。甘い、なのに、あとを引く。口の奥に残る“野生”。」
最終的に仕上がったアイスは、ほんのりスモーキーで塩気を感じさせながら、舌の上でとろけていく滑らかさを持っていた。
アイスクリームの方向性が決まったところで、ケーキも最終段階に入る。
ボトムは全粒粉クラッカーを砕いて無塩バターで固め、そこへケーキの生地を丁寧に流し込む。
そしてオーブンに入れて低温でじっくりと焼いていく。時間はかかるが、そのほうが滑らかに仕上がる。
焼き上がったあとは、粗熱を取り、冷蔵庫でしばらく寝かせてようやく完成となる。
けれど彼女は、その前に──
キャラメルソースを作る。グラニュー糖を焦がし、赤ワインを数滴垂らして香りを重ねたほろ苦いものを。
それを、焼き上がったケーキの上からひと筋、薄く、鋭く引いた。
「……甘いだけのケーキなんて、つまらないものね」
台所に立ちっぱなしで腕が痛くなっても、やめなかった。
「なめらかじゃなきゃ意味がない。甘いだけじゃダメ。舌にとろけて、喉に香る──そういうのが、私の理想」
そうして最後にもう一品。ボウルに卵を割り入れ、砂糖を少しずつ入れて溶きほぐしていく。そこに室温に戻した牛乳をて混ぜ合わせたら、ふるいにかけておいた小麦粉とベーキングパウダーを更に混ぜ込み、ここに溶かしたバターをや油脂を加えておく。そこにミンチ肉を加えて均等になるようさっくりと混ぜ合わせ、ダマが消えるように、されど混ぜすぎないよう生地を整えたら予熱したフライパンでじっくりと焼き上げる。
片面に火が入り、表面にフツフツとした泡立ちが見えたらひっくり返してもうひと焼き。
そして夕刻、空腹と疲労の中で、ようやくスイーツは完成した。
テーブルには三品が並ぶ。
一つは、チレ入りのミートチーズケーキ。
もう一つは、燻製肉の塩アイスクリーム。
そして仕上げに、ひき肉を混ぜ込んだパンケーキ。以前作ったリエット(肉をペーストして作ったジャムのような保存食)と表面をカリカリに焼き上げたベーコンを添えてを添え、メープルシロップをたっぷりかけた。
凛鈴は一呼吸置いてから、ナイフを手に取りケーキを切り分ける。
ナッツのような、ほんのり鉄分を感じさせる甘香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「……これ、すごくおいしい」
口にした瞬間、舌に広がるのはまろやかな甘さと、チレ特有のコク。
アイスは塩気と甘さのバランスが絶妙で、燻製の香りが余韻に残る。
パンケーキも、肉の旨味とメープルの甘さが意外なほど調和していた。
誰に褒められるわけでもないのに、自分の舌が喜んでる――そんな喜びに満ち溢れていた。
「甘いのに、獣みたいね。優しいのに、牙があるわ……」
そんな味が、この世にあるなんて。
思わず目を閉じて、彼女はしばし味わいに浸る。
誰のためでもない、誰にも供することのない、“わたしのためだけ”のスイーツ。
そして食後のカップには、ローズマリーを浮かべた黒茶。
舌に残った脂と甘さを洗い流し、心まで清めてくれるような、そんな一杯。温かいお茶を手に凛鈴は静かに笑った。
「次は……ハニーピザとか、いいかも知れないわ」
湯気の立つカップの向こうで、曇り空が少しだけ明るくなったような気がした。




