第二十話 その狂気が生まれた時
祖父の弟子であり、今や裏社会において一定の影響力を持つ男の手引きによって、凛鈴はようやく救出された。
だがその小さな身体に宿る精神は、すでに深く深く損なわれていた。
保護後、すぐに組織の手が回った病院へと運び込まれた凛鈴は、治療こそ受けたものの、何をするでもなくただベッドに横たわるだけの日々を過ごしていた。
意識はあるのかないのか、反応は鈍く、会話も成立しない。
起きている間は無表情のまま、時折、静かに涙を流す。
食事は一切受けつけず、口元に運ぶだけで過剰な拒否反応を示し、暴れ、喉を詰まらせるほどに嗚咽する。
結局、点滴と鎮静剤、それにごく薄い栄養剤を注入することで、ようやく命をつなぎとめているような状態だった。
その様子を見舞う男――祖父の弟子でもある“橘”は、何度となく拳を握りしめ、何もできない自分を呪った。
彼女の祖父が裏稼業への復帰を求めてきたとき、橘は最初に凛鈴のことを気にかけた。
彼にとって凛鈴は、息子夫婦の忘れ形見であり、大切な孫娘なのだ。何かあっては後悔してもしきれない。
だが、その少女は今、もう声も感情も失っている。
手を伸ばせば砕けてしまいそうな壊れものとして、静かに病室の中で息をしていた。
カウンセリングの導入も検討された。
しかし医師たちは口を揃えて「まだ早すぎる」と言った。
そもそも反応が薄すぎて、会話が成立しない。
意思の疎通すらままならない状態では、手の施しようがない。
――じゃあ、俺たちは何をすればいい?
その問いに、ある者が「荒療治しかない」と答えた。
裏社会流のやり方。
仇討ち。
復讐によって、あの子の心を呼び戻すしかない。
最初は、橘も迷った。
まだ年端もいかない少女に、再び血と暴力の現場を見せることに、葛藤がないわけではなかった。
だが、その手段以外に、凛鈴を“この世”に引き戻す方法が思いつかないという現実は、彼の背中を強く押した。
復讐の対象は、彼女の祖父を手にかけた連中。
あの時、現場で捕えられた者たちに加え、後日、潜伏先を洗い出して捕らえた者も含まれていた。
――そして、その日が来た。
人払いを済ませた廃工場の一角。
埃にまみれたコンクリートの床に、数名の男女が膝をついて並ばされる。
凛鈴は、無言のまま車椅子に座らされ、彼らの前に連れてこられた。
動かない瞳。
泣くでもなく、叫ぶでもない。
ただ、そこに“いる”だけの少女。
だが、その凛鈴の前に、かつて祖父の心臓を抉り取った女が引きずり出され、床に投げ出されたとき――
その瞳が、わずかに揺れた。
「こいつらが、お前のじいさんを殺した。……お前が、見てたやつらだ」
橘の低い声が響く。
そして、目の前で一人、男が首を刎ねられた。
血が跳ねた。
凛鈴の頬にも、薄くその飛沫が触れた。
だが彼女は動じなかった。
むしろその瞬間、瞳の奥に微かな明滅が走ったようにも見えた。
「やめてくれ! あれは命令だった! 俺たちは……っ!」
叫ぶ声。
それも、静かに断たれた。
「クソッ! フザけんじゃねぇぞ! 畜生! テメェらまとめて地獄に落ちやがれ!」
膝をついたまま、罵倒する男。
凛鈴は、そんな彼の方を虚ろな目で見つめるだけだった。
数秒、何かを探すように。
そして、彼女は初めて――ほんの微かに、眉を寄せた。
その反応を見て、橘は確信する。
彼女は今、確かに“ここ”にいる。
少しずつ、世界を認識し始めている。
最後の一人が静かに処される。
血の臭いが、鉄と脂の混ざった空気を生み、工場の床に広がっていく。
その中で、凛鈴は小さく、ぽつりと呟いた。
「……終わったの?」
橘は息を呑んだ。
凛鈴が言葉を発したのは、あの日以来、初めてだった。
その顔に、笑みはなかった。
だが、泣いてもいなかった。
――冷たい。
その表情には、ただひとつの感情も宿っていなかった。
無垢とも、無感情とも違う。
そこにあったのは、“空洞”だった。
虚ろな瞳のまま、凛鈴は車椅子から静かに立ち上がった。足元はおぼつかず、何度か体が傾ぐも、彼女は転ばず、一歩、また一歩と歩を進める。
その先にあるのは、すでに息絶えた者たちの亡骸。
彼ら彼女らは、かつて祖父を殺し、凛鈴に地獄を味あわせた者たちだ。
凛鈴はそのうちのひとつの傍にしゃがみこみ、無造作に血のついた刃物を手に取った。
その様子に周囲の者たちは息を呑む。止めるべきか否か、一瞬ためらうも、何をしても反応を示さなかった少女の、初めての“意志ある行動”に、誰もが黙って見守る選択を取った。
次の瞬間、凛鈴の小さな手が動く。
刃は皮膚を裂き、肉を断ち、骨の際を辿るように滑っていく。
かつて祖父に施されたのと同じように、凛鈴は遺体を解体し始めた。慣れない手つき。未熟な技術。だが彼女は手を止めない。不慣れな作業で何度か自身の手指を切るも、痛みには顔を歪めず、ただ淡々と作業を進める。
心臓を取り出し、肉を削ぎ、皮を剥ぎ、血を抜く。水場へ運び、丁寧に洗い流す。
その姿は、まるで誰にも触れられてはならない神聖な儀式のようだった。
そんな作業の最中、凛鈴は橘に向かって静かに口を開く。
「香辛料を……あとフライパンとか、それと食器を」
かつての料理本で学んだ記憶。祖父と過ごした時間。そこに刻まれた知識と手順を辿るように、彼女は調理の準備を整えていく。
錆びた廃工場の一角に置かれた、カセットコンロと無機質な鉄板に焦げ付いた鍋。それでも凛鈴の手は丁寧に、正確に動く。
刻み、焼き、煮込み、味を整える。焦げないように火加減を調整し、素材を一皿ずつ丁寧に盛りつけていく。
それは、あの日見せつけられた“虐待の調理”とはまったく異なるものだった。
誰かを辱めるための食事ではない。
誰かを想い、誰かに手向ける、祈りのような料理だった。
やがて、完成した皿が地面に並ぶ。
凛鈴は手を合わせ、目を閉じ、ひと息ついてから箸を取る。
一口、口に運ぶ。柔らかな肉の感触。舌に広がる複雑な味。
咀嚼するたび、頬を伝うのは、止めどない涙だった。
それは悲しみか、悔しさか、安堵か。
わからない。けれど、彼女は食べた。
胃が受け入れ、身体が温まり、生命が戻っていく。
隣で見守っていた橘は、ただ黙って立ち尽くす。
あの惨劇以来、何ひとつ食べることのできなかった少女が、今、自らの手で調理し、口に運んでいる。
だが、それでいいのか。
彼女は救われたのか。
正しかったのか。
その答えは、誰にもわからない。
すべてを食べきることはできなかった。だが凛鈴は、食後の皿の前で、ふと微かに笑った。
その表情は、どこまでも穏やかで、どこまでも哀しかった。
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退院の日、凛鈴の表情にはかつての虚ろさも、突発的な錯乱もなかった。
病院の白い廊下をゆっくりと歩くその姿には、ひとつの終わりと、何か別の始まりが静かに宿っていた。
けれど、それは「回復」と呼べるものではなかった。
普通の食事は、今も殆ど彼女の喉を通らない。
病院食はもちろん、手の込んだ家庭料理でさえ、彼女は積極的に箸をつけようとしなかった。
ただ――肉料理にはわずかな関心を示す。
けれど普通の肉は食べない。それが彼女の新たな基準だった。
退院直後、用意された食事にも手をつけなかった凛鈴だったが、あの日の「残り」――先の“荒療治”で残されていた冷凍保存の肉――を出すと、彼女は初めて穏やかな表情でそれを受け取り、丁寧に調理し、ゆっくりと味わった。
その姿を見守る橘の胸に去来するのは、安堵と、そして深い自責だった。
これでよかったのか? 助けたと言えるのか? 彼女の祖父に、己の行いを語れる日が来るのか――答えは出なかった。
凛鈴にはもはや血縁の保護者はいない。
その事実を前に、橘は後見人となることを申し出た。
しかし、それはただの庇護では済まされなかった。
彼女の特異な食性と精神の安定を支えるには、“特別な手段”が必要だった。
それゆえ、橘は組織の一部に凛鈴を編入する判断を下す。
表向きは「技術支援要員」。
だが実際には、その知識と嗜好を活かすための専任担当――
すなわち、最終処理の一端、裏稼業における“供養者”としての立ち位置だった。
退院祝いとして橘が贈ったのは、上質なナイフセットだった。
黒革のケースに収められた刃物たちは、彼女の小さな手にはまだ少し大きすぎたが、それでも凛鈴はひとつひとつを手に取り、刃の感触を確かめながら、静かに目を細めていた。
「ありがとう、橘さん」
初めて彼女が発した言葉に、橘は返事ができなかった。
ただ、目を伏せ、深く、深く息をついた。
守ると決めた。
例えその“生”が、歪な形でしか保てなかったとしても。
あの夜から壊れてしまった何かが、せめて別の形ででも、彼女を支えていけるように。
彼は、そう願った。
いつか本当に笑える日が来るようにと。
それが本当の意味で、自身の恩人に対する恩返しとなると信じて




