第十九話 その狂気が生まれた場所
※残酷なシーンや描写があります。
また、本日は2話更新となっております
冷蔵庫の一角、薄汚れたラップに包まれた赤黒い塊を見つけたのは、凛鈴が十歳になる少し前のことだった。
骨の近くで断ち切られたその肉塊は、牛でも豚でもない奇妙な形をしていたが、凛鈴は特に気に留めなかった。祖父はときどき不思議なものを手に入れてくる。
普段はスーパーで買ってくる、何の変哲もない食材がほとんどなのに、ある時は鹿や猪、またある時にはカエルやウサギなどもあった。
だから、その日も「また珍しいお肉なのかな」と思っただけだった。
その日も祖父の帰りは遅かった。仕事が立て込んでいるのだろうか。それなら、何か温かいものを作っておいてあげたい。凛鈴はそう思って、冷蔵庫の肉塊を取り出した。
よく洗い、脂を落とし、血抜きの処理も丁寧に施す。塩を振って余分な水分を抜き、数時間置いてから、香草と一緒にオーブンでじっくり焼いた。焼き上がったそれは、香ばしく、ほんのりと甘い匂いがして、凛鈴自身も思わずつまみ食いしたほどだった。
祖父は徐々に上達するその料理を見て、最初こそ驚愕の表情を浮かべたものの、凛鈴の満面の笑みに言葉を失い、いつしか穏やかな顔でその料理を食べるようになった。
初めてその肉を調理した時、祖父は「勝手なことをするな」とだけ短く叱ったが、何もかもを否定するような怒り方ではなかった。
――この子に、こんなことをさせてしまった。
そんな悔恨の念が、その瞳の奥にちらりと見えた気がして、凛鈴は首を傾げた。
そうして彼女はその日から、祖父のための料理を続けていく。時には調理法を開拓し、食材の保存方法や香辛料の組み合わせを勉強し、何冊も料理本を読み漁った。
時折冷蔵庫に現れる謎の肉は、更に丹念に調理するようになり、祖父はもうかつてのように苦渋の面持ちで肉を咀嚼することはなくなっていた。
その料理のバラエティも増え、味付けも豊かとなり、もはや祖父の”儀式”に苦痛はなくなっていく。
そんな祖父と孫、その睦まじい日常は、とても平穏に見えた。
けれど、それが長く続くことはなかった。
裏稼業を営む祖父の敵対者が動いたのは、ある雨の夜だった。
いつもと同じように、心を込めてキッチンに立った。そうしてこの日も祖父のために料理の支度をしていた凛鈴の耳に突然、けたたましいノックの音が響く。
いや、それはノックなどという生易しいものではなく、今にも扉を打ち破ろうかという激しい打撃音だった。
徐々に強くなるその衝撃を何度か受け止めたところで、古い集合住宅の木製のドアはあっさりと白旗を上げ、破砕音とともに男たちがなだれ込む。
一瞬のことで悲鳴すらあげられなかった凛鈴あっという間に口元を抑えられ、この何者か達によって袋に詰められ、連れ去られた。
次に目を開けた時には、人気のない廃ビルの中。椅子に手足を縛られ、口には布が詰められていた。
目の前には、祖父。
血まみれで、片膝をつき、息を荒くしている。
相手は三人。銃を構えた男、ナイフを手にした女、そして笑っている中年の男。
思わず目を見開いた。一体なぜ自分はこんなところにいるのか、なぜ大好きな祖父が目の前で怪我をしているのか。
わからないことだらけだった。
だが、それは祖父も同じだったようで、凛鈴の姿を見て、同じ様に目を見開いていた。
何事かを周囲の人間にわめいていたが、その応えの代わりに暴力を浴びせられる祖父。
目を背けるにも首も固定されているのか、視線を逸らすことができない。
かと言って目を閉じれば、より生々しい音とともに祖父のうめき声が耳に入り、余計に彼女の恐怖心を煽る。
結局、彼女は、自身の祖父が暴力にさらされる様を見つめ続けるしか無かった。
その後も前で祖父は殴られ切りつけられ、いたぶられていたが、最後まで抵抗を続ける。
だが、やがて胸を刺され、膝から崩れ落ちた。
「り、り……ず……」
呟くように口元が動き、その視線は命尽きてなお、拘束され身動きの取れない孫娘である凛鈴に向けられている。
倒れていく祖父を目にした凛鈴は叫びたかった。泣き叫び、縛めを引きちぎってでも祖父に駆け寄りたかった。けれど、声は届かず、足も動かせない。
そんな凄惨な光景を繰り広げていた、彼ら彼女らの拷問はまだ終わらない。ナイフの女が、息絶えた祖父の胸を徐ろに切り裂き、骨を砕いて心臓を抉り取った。
「こいつはよ、今まで何人も人を喰ってきたんだ。ほんと、気色悪ぃ。だが、その報いは受けてもらう。お前はその責任を持ってしっかりと味わってもらわねえとな」
そう言って、拘束を解いた凛鈴の口元へとまだ体温の残る心臓を押し当てる。
この人は何を言ってるのか? そんな疑問が浮かぶも、悠長に状況を判断する余裕など与えられるはずもなく。
わずかばかりの低事ばかりに閉じていた小さな口は大人の力の前には無力で、無理やりこじ開けられその血の温かさ、鉄臭さ、祖父の匂い――それらが混ざって、凛鈴の口内を満たした。
喉がひくりと動いた。拒否したかった。だが、本能が、それを飲み込んだ。
それが始まりだった。
それからの数日は地獄の連続だった。連中は笑いながら祖父の肉を削ぎ、鍋に投げ込み、面白半分で醤油やソースをぶちまけては火を通し、焦がし、掻き混ぜ、弄びら下卑た笑みを浮かべながらそれらを凛鈴の前に並べる。
「食えよ。お前が好きだった”おじいちゃん”だろ?」
誰も供養しない。
誰も祈らない。
無惨にも踏み躙られ、弄ばれ、祖父の遺体はただの無慈悲な肉片として、そこにあった。
そんな冒涜のなれの果となった肉を、凛鈴は食べた。
涙と嗚咽を吐きながら、喉の奥へと流し込んだ。
味なんかめちゃくちゃだ。焦げた苦み、過剰な塩味、血の混ざった酸味、すべてがが暴力的に構内に溢れ、脳がその味を拒絶する。
そんな様子を見て、周囲から嘲笑う様な声が上がる。
だが、それでも凛鈴はその肉をすべて咀嚼し飲み込んだ。ただ一人、祖父の死を悼むことができる者が、もう自分しかいないと感じたから。
これが自分なりの供養なのだと、祈りなのだと、せめてそう信じながら。
そんな地獄のような狂乱の日々の中、ようやく救助の手が伸びた。かつて祖父の弟子だった男、今では大きな組織の重鎮となったその者が、配下を送り込んできたのだ。
誘拐犯のうち数名は捕らえられたが、主犯格は逃げた。
凛鈴は助け出された。
だが、彼女の心は――
もう、戻らないところにあった。
何かが壊れ、何かが芽吹いた。
静かに、深く、熱を孕んだ“何か”が。
それはきっと、彼女の狂気だった。




